第二章 幕間 『第一位』
グラシェルド武王国の王宮では、その日も朝から軍務と政務の報告が途切れていなかった。
国境警備部隊の配置変更、秋以降の補給計画、地方から上がってきた訓練場拡張の要請まで、ヴァルゼリア・グラナシェルの机には性質の違う書類が積まれている。
至冠序列第一位である以前に武王である以上、自分が戦場へ出ていない時間にも国は動き続けていた。
ヴァルゼリアは一枚ずつ内容を確認し、必要なものだけへ短く指示を書き込んでいく。軍が処理できる案件へ必要以上に口を出すつもりはないが、最終的に王の判断を必要とする問題を他人へ押しつける気もない。
できる者が背負うべきだという考えは、戦いの中だけに限ったものではなかった。
「――南部演習場の増設案は通す。ただし、補給路の拡張を先に終わらせろ。兵だけ増やして物が届かないなら意味がない」
報告に来ていた軍人が一礼し、修正された書類を受け取る。続いて文官が税収見込みと備蓄計画を差し出し、ヴァルゼリアは必要箇所へ目を通してから、冬季分の軍需を削らないよう指示した。
自分が強いからといって、国全体が自分一人で成立するわけではないことくらい理解している。
最後に回された束だけ、他の政務書類とは封の形式が違っていた。至冠者に関する国際記録で使われる封緘であり、王宮内でも閲覧できる者は限られている。
ヴァルゼリアは文官からそれを受け取り、机上の軍務書類を一度脇へ寄せた。
「序列更新です」
「誰だ」
「リュネヴァルト小王国所属、リゼルヴェート・アルシェノア。第三十一位から第二十七位へ更新されました」
聞いた名前には覚えがあった。少し前に新たな至冠者として記録へ加わり、第五十一位から短期間で順位を上げていた少女だったはずだ。ヴァルゼリアは封を開き、最新版の序冠記録と付随する正式戦歴へ視線を落とした。
第二十七位、《リゼルヴェート・アルシェノア》。累計五ポイント。新規選定後、レグシェリア・ヴァルディナとの正式戦に勝利して第三十一位へ上がり、その後ユルディオ・ネフェルスから降参を得ている。
さらに直近の記録として、第二十七位だったサルディオン・メルクレイドとの正式至冠戦が追加されていた。決着方式は戦闘不能で、勝者はリゼルヴェート。順位交換により彼女が第二十七位へ上がり、サルディオンは第三十一位へ下がっている。
ヴァルゼリアは順位そのものより、相手の名前をもう一度見た。短期間で順位を上げる至冠者が珍しいとは思わないし、順位変動だけを見て騒ぐほど経験が浅くもない。誰に勝ったか、どう勝ったか、その方が判断材料としては重要だった。
「サルディオンか」
机の端に腰掛けていた小さな影が、そこでわずかに顔を上げた。クレシアは政務中のヴァルゼリアへ必要以上に口を挟まず、ここまでほとんど黙っていた。だが今の名前には、ほんの少しだけ反応したように見えた。
「知っているでしょう」
「当然だ」
サルディオン・メルクレイドは、第二十七位だったから知られている人物ではない。累計八十四ポイントという長い実戦記録を持ち、《戦律配列》によって対戦相手の戦型へ事前から対策を組む至冠者として、上位層にも名が通っている。
単純な順位以上に、相手を調べてから戦うことの厄介さを理解している者は多かった。
ヴァルゼリア自身も、サルディオンを軽い相手だとは見ていない。あの男の強みは一つの大技ではなく、準備と観測と修正を積み重ね、相手が知っている戦い方を一つずつ潰していくところにある。
情報を与えるほど戦いやすくなる相手へ、公開記録を持つ至冠者が挑むのは、それだけで容易ではなかった。
「戦闘記録もあるか」
「概要のみです」
文官が別紙を差し出し、ヴァルゼリアは受け取った。全ての交戦内容が逐一記載されているわけではないが、事前準備の有無、使用された主要技、戦闘中の大まかな推移までは整理されている。正式記録として必要な範囲だけを残した資料だった。
サルディオンは事前にリゼルヴェートの公開技と過去戦闘を確認していた。戦闘開始後も対策は実際に機能し、《星桜千華》《星華断刃》を含む既知の攻撃へ複数回対応している。
通常状態では移動範囲と攻撃角度を制限し、一時的に主導権を取り戻したことまで記録されていた。
そこから先で、戦況が変わっている。リゼルヴェートは覚醒へ移行し、攻撃数だけではなく、同時に成立させる現象と軌道の種類を増やした。
サルディオンは過去記録と実戦中に得た情報の両方を使って対応を続けたものの、最終的には処理量と変化速度へ追いつけず戦闘不能となった。
ヴァルゼリアはその部分で手を止めた。強い技を一つ持っているだけなら、それほど珍しい話ではない。至冠者まで上がる者なら、他者が容易に受けられない一撃や、戦場を一変させる能力を持つ者はいくらでもいる。
気になったのは、対策された後の動きだった。既知技を止められたから威力だけを引き上げたのではなく、数、軌道、時間差、攻撃と防御の組み合わせそのものを変え、その場で戦い方を増やしている。
サルディオンが対策を修正するたび、その修正対象をさらに増やしたという記録の方が、単純な火力評価より目を引いた。
「《常世星桜》」
正式記録に載る真律名を、ヴァルゼリアは小さく読んだ。桜や星を用いることは資料から分かるが、そこにどれだけの性質が含まれているのかまでは記録だけでは判断できない。
少なくとも、一方向の攻撃へ特化した真律ではないことだけは、戦闘経過から読み取れた。
「変化数が多いわね」
クレシアが静かに言った。
「そう見える」
「サルディオンが対応を外し続けたわけではないのでしょう」
「記録上は違う。答えは出していた。それ以上の速さで、問題を増やされた」
ヴァルゼリアは記録を最初からもう一度追った。対策された既知技を捨てるのではなく、使い方を変え、別の現象と重ね、それでも止められれば覚醒へ移る。
力任せに一つの壁を壊したのではなく、相手が構築した答えの数を上回るように戦場そのものを変化させたらしい。
それだけで能力の全てを理解したつもりにはならなかった。正式記録は戦歴を残すものであり、真律の完全な解析資料ではない。
実際に目の前で戦う姿を見なければ、どこまでが本人の判断で、どこまでが真律そのものの性質なのかも分からない。
「興味深い」
ヴァルゼリアがそう言うと、クレシアは返事をせず記録へ視線を落とした。いつもの無関心とは少し違うように見えたため、ヴァルゼリアは手元の別欄にも目を移す。
リゼルヴェートの同行関係者として、《アシェラ》という名前が記録されていた。
「この名前に何かあるのか」
クレシアはすぐには答えなかった。ほんの短い沈黙の後、記録から視線を外してヴァルゼリアを見る。表情から何かを読み取ろうとしても、それだけで答えが分かるほど単純な相手ではない。
「知っているのか、クレシア」
「名前は」
「それ以上は」
「今、私から話すことではないわ」
拒絶するような声音ではなかったが、説明する意思もなかった。ヴァルゼリアはそれ以上追及せず、資料へ視線を戻す。
クレシアが話さないと決めたものを、今ここで無理に聞き出したところで意味はない。
アシェラについて分かることは記録上の同行情報だけで、そこから先を推測する材料も足りなかった。ならば今判断できるのは、リゼルヴェート本人の戦歴と、近くその人物に会う可能性があるということだけで十分だった。
ヴァルゼリアは戦歴資料を閉じ、次に添付されていた国際会合関連の書類を開いた。
次回の至冠者会合については、武王としても第一位としても出席予定になっている。国同士の利害だけを話す場ではないが、各国の至冠者が集まる以上、王として無関係ではいられない。
自分が行ける場へ、他人だけを送り出して責任を預けるつもりもなかった。
参加予定者一覧には、すでに知っている名前がいくつも並んでいた。上位至冠者、各国関係者、同行を認められた組織関係者が順に記載され、その中ほどに新しく追加された名前がある。
ヴァルゼリアは一度そこを通り過ぎかけ、戦歴資料で見たばかりの綴りに気づいて視線を戻した。
――《リゼルヴェート・アルシェノア》。
所属はリュネヴァルト小王国、ノルシェリア派。同行者としてイェルシェリナ・クロヴェリア、ゼルディヴァン・アルネグラート、ルシェルト・ヴァルネイドの名があり、別枠でアシェラも記載されている。
つい先ほどまで記録の中にいた新規至冠者が、そこで初めて《近いうちに同じ場所へ来る人物》へ変わった。
「会うのね」
クレシアが言った。
「予定どおりならな」
「楽しみ?」
「少し」
ヴァルゼリアは素直に答えた。まだ会ってもいない相手を敵と決める理由はなく、脅威だと断定する材料も足りない。まして、一度の戦歴だけで好敵手だの何だのと決めつけるほど、自分は他者を単純には見ていなかった。
ただ、直接見てみたいとは思う。サルディオンが事前対策を機能させた上で、それでも最後には対応数を越えられたという戦い方が、実際にはどのようなものなのか。記録では拾い切れない部分ほど、ヴァルゼリアには気になった。
「第二十七位、か」
ヴァルゼリアは最新の序冠記録と参加予定者一覧を並べた。序列上は第二十七位であり、それ自体が誤りだとは思わない。順位は正式戦の結果で動くもので、記録されていない仮定の強さまで先回りして決めるものではない。
それでも、サルディオン戦の内容を読んだ後では、現在の数字がこの少女の全てを示しているようには見えなかった。
第五十一位から第三十一位へ上がり、そこから第二十七位へ移ったばかりなら、まだ順位が実力評価へ追いつく途中という可能性もある。
少なくとも、第二十七位という数字だけで見れば十分だと切り上げる気にはならなかった。
ヴァルゼリアは参加予定者一覧の名前を指先で一度なぞり、戦歴資料へ視線を戻した。新規至冠者、短期間の順位上昇、サルディオンへの戦闘不能勝利という記録は、どれも単独なら第一位である自分を驚かせるほどではない。
だが、それらの間にある《対策された後も戦い方を増やし続けた》という事実だけは、記録の数字以上に強く残った。
恐れる理由はなく、今から警戒だけを膨らませる必要もない。実際の姿を見れば、記録だけでは分からなかった部分も自然に見えてくるはずだった。
ヴァルゼリアは近く同じ会合へ出る相手として、《リゼルヴェート・アルシェノア》という名前を記憶へ置いた。
少し離れた場所では、クレシアが何も言わず同じ資料を見ていた。ヴァルゼリアはその反応にも答えを求めず、最後にもう一度、序冠記録の第二十七位へ視線を落とす。
まだ会ったことのない至冠者の名は、もはや遠い国から届いた新規記録ではなく、近いうちに自分の目で確かめる相手の名前へ変わっていた。




