第二章 36 『世界へ行こう』
至冠戦の会場から戦いの痕跡が片づけられ始めた頃には、空はもう夕方へ傾いていた。
リゼルヴェートは治療担当から簡単な確認を受け、大きな負傷がないことを改めて確かめてもらっている。覚醒まで使った分の疲れは残っていたが、歩けないほどでもなく、長い療養が必要な状態でもなかった。
サルディオンはリゼルヴェートより長く治療を受けていた。最後の《星華断刃》で戦闘続行不能へ持ち込んだ以上、こちらより負担が大きいのは当然だったが、命に関わる損傷はないと聞いてリゼルヴェートは安心した。
正式な確認が終わった後、治療を受けたサルディオンが休憩用の椅子へ腰掛けているところへ、リゼルヴェートは自分から足を向けた。
「大丈夫?」
「ええ。しばらく派手に動くのは避けた方がよさそうですが、問題ありません」
「よかった。最後、かなり強く当てたから」
「戦闘不能にするための攻撃としては適切だったと思います。追撃もありませんでしたし」
サルディオンの声は普段と大きく変わらず、負けた相手を前に感情を荒らしている様子もなかった。悔しさまで消えているとは思わないが、それを敗北そのものへの恨みに変えているようには見えない。
むしろ視線はすでに戦いを振り返る方へ向いていて、どこから自分の対策が追いつかなくなったのかを整理しているようだった。
「対策自体は、かなり機能していました」
「うん。いっぱい止められた」
「通常状態のあなたについては、最後にはかなり行動を限定できていました。覚醒後も、個々の現象へ出した答えそのものは、大きく外していなかったと思います」
「私もそう思う。止められたから変えて、また止められたから別のにしてたし」
戦いを思い返せば、サルディオンが一方的に押し切られた時間の方が少ない。公開されていた《星桜千華》も《星華断刃》も何度も処理され、通常状態では移動できる場所そのものまで狭められた。
覚醒してからも、最初の数手で全部を無視できたわけではなく、サルディオンは最後まで正しい対策を作り続けていた。
「私が間違えたというより、追いつかなかった、が近いでしょうね」
「追いつかなかった?」
「変化の速度と、一度に成立させる現象数です。一つの攻撃へ対策を置いている間に、別の条件が複数増える。最後は、行動経路そのものを読めても、その一つの経路の中へ置かれる現象数が想定を越えました」
「じゃあ、前に行くってところまでは読めてたんだ」
「ええ。そこは読めていました。だからこそ、少々困りました」
サルディオンはそこで僅かに苦笑した。自分の読みが外れて負けたのなら、その読みを修正すればいいが、読めているのに処理する対象数で上回られた場合は、次に準備すべきものがまるで違う。
リゼルヴェートにも、彼がもう次に戦う場合のことまで考え始めているのが分かった。
「次は、もっと対策される?」
「当然です」
「やっぱり」
「ただし、今日のあなたを対策しても、次のあなたが同じとは限らない。それも今回よく分かりました」
「私も、知ってる相手と戦うのって思ったより大変なんだって分かったよ」
技を知られているということは、名前を知っているだけではなかった。どんな距離で使いやすいか、相手がどちらへ動いた時に何を選びやすいか、過去にどんな組み合わせをしたかまで積み重なれば、それ自体が戦うための材料になる。
今回ほど、自分の過去の戦いがそのまま敵の武器になったと感じたことはなかった。
それでも、不快ではなかった。サルディオンは隠れて罠にはめたわけでも、知らない情報を違法に奪ったわけでもなく、調べられるものを調べたと最初から話していた。
その上で真正面から戦い、自分の準備を最後まで使い切ったのだから、リゼルヴェートにはむしろ分かりやすい相手だった。
「そういえば、順位は第三十一位になったんだよね」
「はい。あなたが第二十七位、私が第三十一位です」
「でも、八十四ポイントはそのまま?」
「そのままです。順位とポイントは別の記録ですから」
「やっぱり、ちょっと変な感じ」
順位だけを見れば、今日の勝敗で二人の位置は完全に入れ替わった。けれどサルディオンがこれまで積み上げてきた八十四ポイントは消えず、リゼルヴェートも二ポイントから五ポイントへ増えただけで、相手の記録を奪ったわけではない。
現在どこにいるかを示す順位と、どんな決着を重ねてきたかを残すポイントが、本当に別々のものなのだと実感できた。
「第三十一位で八十四ポイントの至冠者、か」
後ろから聞こえたゼルディヴァンの声に、リゼルヴェートは振り返った。イェルシェリナとルシェルトも一緒に来ており、三人とも戦後処理に必要な確認をひと通り終えたらしい。
ゼルディヴァンはサルディオンを見ながらも、敗者として軽く扱うような声音にはなっていなかった。
「順位だけ見て判断したら、次に当たる奴が痛い目見るな」
「それはお互い様でしょう。第二十七位になった彼女を、順位だけで測っても同じことになる」
「それはそうだな」
「俺は八十四ポイントの方が怖いけどな。今回負けても一つも減ってないんだろ?」
ルシェルトの言葉にサルディオンが頷き、リゼルヴェートも改めてその数字を意識した。一度の順位変動では消えないだけの戦いが、あの八十四という数字の後ろに積み重なっている。
今回勝ったからといって、それまでのサルディオンまで弱くなったわけではなかった。
「次に会う時は、試合じゃないかもしれないわね」
イェルシェリナが言うと、サルディオンは静かに視線を向けた。
「そうでしょうね。至冠者同士、戦う時だけ顔を合わせるわけでもありません」
「その時は、今日みたいに調べ尽くされる前に話をしたいところだけど」
「努力します、と答えるべきでしょうか」
「そこは好きにしていいわ。ただし、権利の範囲内でね」
「もちろんです」
そのやり取りを聞いて、リゼルヴェートは少し笑った。戦う前には、八十四ポイントを持つ第二十七位というだけでかなり遠い相手に感じていたが、今はまた会う可能性のある一人の至冠者として見られる。
次に会った時に戦うのか、話すだけなのか、それとも別の何かをするのかは分からないが、今回の敗北がそのまま敵対へ変わる雰囲気はなかった。
◇
会場での確認を終えた後、リゼルヴェートたちはノルシェリア派の拠点へ戻った。すぐに別の用事へ進まず、食事と休息を優先したため、《戦歴照会権》を実際に使うことになったのは戦後処理が一段落してからだった。
五ポイント到達によって閲覧可能になった正式戦歴を前にすると、リゼルヴェートは戦っていた時とは違う種類の緊張を少しだけ感じた。
これまでにも至冠者の順位や公開情報を調べることはできた。けれど《戦歴照会権》によって確認できる記録は、それより一段詳しく、正式至冠戦の勝敗や決着記録、累計ポイントなどが整理されている。
能力の秘密や非公開情報まで見えるわけではないが、誰がどれほど戦い、その結果を積み重ねてきたかは以前より明確だった。
「まず誰から見る?」
「一位」
ゼルディヴァンが即答した。
「早いね」
「せっかく上位の戦歴まで見られるんだぞ。基準を見るなら上からだろ」
「私は、照会できる範囲の確認を先にしたいわ。権利があるからといって何でも見られるわけじゃないでしょうし」
「俺は移動先になりそうな国の人間が気になるけど、まあ最初は一位でいいんじゃないか」
三人とも同じ資料を前にしているのに、最初に気にするところは違っていた。ゼルディヴァンは比較の基準、イェルシェリナは権利の範囲、ルシェルトは実際に会う可能性や移動先を考えている。
リゼルヴェートはそれを聞きながら、自分一人で資料を見ても同じ読み方にはならなかっただろうと思った。
「じゃあ、一位から見よう」
最初に開いた名前は、至冠序列第一位だった。
――《ヴァルゼリア・グラナシェル》。
その名前自体はすでに知っていたが、正式な戦歴として並べられた記録を見るのは初めてだった。累計ポイントは七十二で、現在確認できる正式戦歴の中に敗北記録はなかった。
「七十二……サルディオンさんよりポイント低いんだ」
「だから順位とポイントは別だって話だろ」
「分かってるけど、一位だから一番多いのかと思っちゃうじゃん」
「今ので、そこが完全に別物だってもう一回確認できたわね」
イェルシェリナの言葉に、リゼルヴェートはもう一度ヴァルゼリアの記録へ目を落とした。七十二ポイントという数字だけならサルディオンの八十四より低いのに、順位は第一位であり、しかも敗北記録がない。
何を基準にそこまで勝ち続けているのか、戦歴だけでは能力の中身までは分からなかった。
次に確認したのは第二位、《オルディヴァン・レクシエル》。その後に第三位、《セラフィネア・ルクシェリア》の記録を開き、リゼルヴェートは少し身を乗り出した。
セラフィネアについては実際に会って話したことがあるだけに、名前だけ知っている相手よりも、正式戦歴が現実の人物へ繋がって見えた。
「セラフィネアさんも、やっぱりいっぱい戦ってるんだね」
「第三位だからな。会った時の印象だけで、戦闘経験が少ないと考える方がおかしい」
「穏やかだったから、あんまり戦う感じしなかった」
「それと強さは別でしょう」
イェルシェリナに言われ、リゼルヴェートは納得して頷いた。実際に会ったセラフィネアは、順位を振りかざすような人ではなかった。
それでも第三位にいる以上、その位置へ至るまでの記録があり、表で見える穏やかさだけがその人の全部ではない。
さらに第五位の《エルシェナ・ヴァルクレイン》、第十位の《シェルヴァリオ・ネクレイン》へ照会を進める。
個々の能力の詳細までは表示されないが、対戦記録や勝敗の並び、累計されたポイントを追うだけでも、第三十一位周辺まで見ていた頃とは違う厚みが伝わってきた。
上へ行くほど全員が単純にポイントまで高くなるわけではないところも、かえってそれぞれの戦い方が違うことを感じさせた。
「上は上で、全然揃ってないな」
ゼルディヴァンは複数の記録を見比べながら言った。
「順位も、ポイントも、勝ち方も違う。同じ『上位至冠者』でまとめたら判断を間違えそうだ」
「会う前から決めつけない方がよさそうね。国との関係も、それぞれ同じとは限らないでしょうし」
「移動先も増えそうだな。会合だけ行って終わりじゃなくなるなら、行き先ごとの経路も見といた方がいい」
リゼルヴェートは三人の会話を聞きながら、並んだ名前を眺めた。自分が戦う相手だけを知ればいいわけではなく、イェルシェリナにはその相手が背負う国や権利関係があり、ゼルディヴァンには情報と戦歴の違いがあり、ルシェルトには実際にそこへ行って帰るための問題が見えている。
世界へ出るというのは、強い人に会いに行くだけでは済まないのだと、今の自分なら少し分かった。
資料の確認を終えた後、イェルシェリナが別の封書を机の中央へ置いた。セラフィネアから正式に渡された、世界規模の至冠者会合への招待状だった。
受け取った時点ですでに参加する方向では話がまとまっていたが、サルディオン戦を終えた今、正式な準備へ移る前に改めて全員の意思を確認することになっている。
「一度決めた方向を変えるつもりはないけれど、正式回答の前にもう一度確認するわ」
イェルシェリナは四人の顔を順番に見た。
「リゼルヴェートは参加したいのね?」
「うん。行きたい」
「私は行くわ。外交の窓口を引き受けている以上、あなた一人を国際会合へ送る選択はしない」
「俺も行く。今見た戦歴だけでも、現地で取るべき情報が多すぎる」
「俺も。移動も宿も荷物も現地の足も、誰かがやらないと始まらないだろ」
誰か一人についていくから行く、という答えではなかった。イェルシェリナには政治と交渉、ゼルディヴァンには情報と分析、ルシェルトには移動と実務があり、リゼルヴェートには至冠者本人として向き合う役割がある。
四人で行くという判断は、仲がいいから固まって動くというだけではなく、それぞれが必要だから成立していた。
「アシェラも一緒に行く?」
リゼルヴェートが隣へ視線を向けると、アシェラはいつもの平坦な表情でこちらを見返した。
「行く」
「即答だね」
「澪桜が行くなら、私も行く」
「うん。じゃあ五人だ」
アシェラがノルシェリア派の通常構成員ではないことは変わらない。それでも、リゼルヴェートに同行する存在として一緒に行くことには誰も異論を挟まなかった。
イェルシェリナもその前提で正式回答に必要な同行者欄を確認し、ルシェルトはすでに移動準備へ考えを切り替えていた。
「これで正式に参加でいいわね」
「異議なし」
「俺も」
「私も!」
「……行く」
全員の意思が揃い、イェルシェリナは招待状の横へ正式回答のための書類を置いた。これで、第三十一位になった直後に世界の各地から届き始めた招待や接触の中から、初めてこちら側が大きく外へ出る予定が具体的に動き始める。
まだ出発したわけではなく、準備もこれからだが、行くかどうかを迷う段階は終わった。
リゼルヴェートは机の上へ残った戦歴資料へ目を戻した。第二位、第三位、第五位、第十位と、まだ直接会ったことのない名前が並び、その一番上には《ヴァルゼリア・グラナシェル》の名がある。
第一位、七十二ポイント、現在まで敗北記録なしという情報だけでも、どんな人なのか気にならない方が難しかった。
不安がまったくないわけではない。今日戦ったサルディオンだけでも、知っている技へ徹底的に対策してくる相手だったのだから、その上にはさらに自分の知らない考え方や戦い方を持つ至冠者がいるはずだった。
それでも、知らないから行きたくないという気持ちより、自分の知らないものを実際に見てみたいという気持ちの方がずっと強かった。
第三十一位になった時は、世界の方から手紙が押し寄せ、帝国や第三位や第二十七位の至冠者がリゼルヴェートたちを見に来た。
今の自分は第二十七位になり、五ポイントを得て、これまで見えなかった上位至冠者たちの戦歴まで少しだけ見えるようになっている。
次は待っているのではなく、リゼルヴェートたち自身が、その名前の並ぶ世界へ足を運ぶ番だった。




