第二章 20 『公平と権利』
アシェラとセフィラの間に残ったものは、消えたわけではなかった。セラフィネア自身、二人が何を知り、何をまだリゼルヴェートへ話していないのかは気になっている。
それでも今ここで無理に開かせるべき話ではないと決めた以上、自分から会談を止め続ける理由もなかった。
「では、本来の話へ戻りましょう」
セラフィネアがそう告げると、机上の資料へ向いていた視線が再び集まった。リゼルヴェートもまだアシェラを気にしている様子はあるが、問いを重ねることはせず席へ向き直っている。
セフィラもそれ以上アシェラへ声をかけず、静かにセラフィネアの隣へ戻っていた。
「先ほど途中になりましたが、私が最も確認したいのは、アルシェノアさんの現在の状態です」
「状態?」
「所属だけではありません。どこに住み、誰と行動し、何を引き受けるのか。それを本人が選べているか、という意味です」
「それなら、たぶん選べてると思う」
「《たぶん》ですか?」
「自分で決めたことばっかりだから、改めて聞かれるとどこまでが選んだことなのか分からなくて」
少し困ったように答えるリゼルヴェートを見て、セラフィネアはすぐに悪い意味へ取らなかった。日常の全てを一つずつ《自分が選んだ》と意識して暮らす人間の方が珍しい。
だからこそ、本人が当然だと思っている部分を周囲の仕組みと照らし合わせる必要がある。
「では、具体的に確認しましょう。ノルシェリア派へ所属することを決めたのは?」
「私」
「現在も残っている理由は?」
「いたいから」
「国から命じられたからではなく?」
「違うよ」
「クロヴェリアさんに引き留められているからでも?」
「それも違う」
リゼルヴェートは迷わなかった。少なくとも、この問いに対して誰かの顔色を見て答えているようには見えない。セラフィネアはそれだけで結論を出さず、次にイェルシェリナへ視線を移した。
「クロヴェリアさん。あなた方の側では、本人の意思をどのように扱っていますか?」
「まず、何を決める話なのかを分けるわ」
「分ける?」
「本人が自分の所属や生活を選ぶ話と、派閥が責任を負う話、国が責任を負う話、契約で相手方との責任が生まれる話。それを全部まとめて《リゼルヴェートが決めたから》では済ませない」
イェルシェリナは机上の資料へ手を置きながら答えた。特別に準備してきた説明というより、普段からそう扱っていることを言葉にしているようだった。
セラフィネアはその言葉を一つずつ分け、自分の確認したい部分と照らし合わせていく。
「本人同意が必要なものは、本人が決める?」
「ええ」
「派閥が責任を持つべきものは?」
「私たちが決める。ただし、本人へ影響するなら説明も同意も必要になる」
「国家責任は王廷へ?」
「当然でしょう。ノルシェリア派が勝手に国境を動かしたり、国軍を出したりできるわけじゃないもの」
「契約責任については?」
「誰が契約主体になるかで変わるわ。本人なら本人、派閥なら派閥、王国なら王国。そこを曖昧にしたまま署名はしない」
簡潔だが、境界は明瞭だった。セラフィネアが重視している《偏り》とは少し違う言葉を使っているものの、誰か一人へ全ての責任を押しつけない点では重なる。
だからこそ、同じ結論に見えても出発点がどこにあるのかをもう少し確かめたかった。
「では、こういう場合はどうでしょう。アルシェノアさん本人は危険な依頼を受けたい。しかし、派閥としては損失が大きいと判断した場合です」
「まず危険性を説明するわ」
「それでも本人が受けたいと言ったら?」
「依頼の種類を見る。本人だけが責任を負える話なら、止める理由が足りない。派閥の人員や資金、国家の安全まで巻き込むなら、本人一人の意思では決められない」
「なるほど」
「逆も同じよ。派閥に利益があるからといって、本人にだけ危険を押しつける契約なら、本人が拒否すれば終わり」
セラフィネアはそこで小さく頷いた。自分なら最初に《負担が一人へ偏っていないか》を見る。イェルシェリナは《その負担を誰が選び、誰が引き受ける責任を持つのか》から確認していた。
「私とは、少し順番が違いますね」
「そうみたいね」
「私はまず、負荷の偏りを見ます。誰か一人だけが大きすぎるものを背負っているなら、その状態が本当に妥当なのかを考える」
「私は、その人が選んだのかどうかを見る。その上で、選んだ結果の責任まで他人へ押しつけていないかを見るわ」
「本人が望んでいるなら、偏りが大きくても認める?」
「望んでいるだけでは足りないわ。何を引き受けるのか理解していることも必要よ」
即答だった。セラフィネアはその返答に興味を引かれ、もう一段だけ問いを進める。言葉の違いを探して勝ちたいわけではなく、どこまで考え方が重なり、どこから違うのかを知りたかった。
「それでも、結果的に一人だけ大きな負担を負う場合はあります」
「あるでしょうね」
「不公平だとは思いませんか?」
「公平かどうかを先に決めると、本人が何を選びたいのかを後回しにすることがある」
「なるほど。そこを警戒しているのですね」
「ええ。全員に同じだけ負担させれば公平、とは思っていない。でも、負担が偏っているから本人の意思を取り上げていいとも思わないわ」
その言葉なら、セラフィネアにも理解できた。公平を求めるあまり、本人が望んで引き受けたものまで外側から取り上げれば、それもまた別の不均衡になり得る。
イェルシェリナが公平という言葉を嫌っているわけではなく、その前に《誰の選択なのか》を確認しているだけだった。
「私も、全員へ同じ量を配ることが公平だとは考えていません」
「そこは分かるわ」
「ただ、本人が望んだという一言だけで、周囲が責任から逃げることも認めません」
「それも同じね」
「では、かなり近いのでは?」
「入口が違うのよ」
イェルシェリナは僅かに口元を緩めた。対立しているというより、同じ問題を違う順序で整理している。セラフィネアにも、その表現が最も近いように思えた。
「あなたは《偏っていないか》から見る。私は《誰が決めるのか》から見る。最後に必要になる確認は似ていても、最初に疑う場所が違うわ」
「ええ。その説明なら納得できます」
セラフィネアは素直に認めた。自分と違う基準だからといって、誤りだと断定する必要はない。むしろ違う入口を持つ者が、実際にどう運用しているかを見る方が重要だった。
そこでゼルディヴァンが資料を一枚こちらへ差し出した。会談前にも示された、ノルシェリア派内部の対外案件処理を簡潔にまとめたものだった。
誰が確認し、どこで本人同意が必要になり、どの段階で王廷協議へ移るのかが分けられている。
「口だけじゃ分かりにくいなら、これが今の運用だ」
「ありがとうございます」
「全部じゃない。外へ出していいところだけ」
「それで十分です」
セラフィネアは資料へ目を通した。本人に届いた提案をイェルシェリナが条件面で整理し、ゼルディヴァンが公開情報や相手方の記録を確認し、移動や施設が必要ならルシェルトが実現可能性を見る。最後までリゼルヴェート本人の意思が必要な項目には、明確に本人確認が残されていた。
「ヴァルネイドさん。本人が希望しても、物理的に不可能な場合はどうしますか?」
「不可能な理由を言う。それで別の方法があるなら探すな」
「本人の希望だからと無理を通すことは?」
「無理を通した結果、途中で全員動けなくなったら意味ないだろ。移動できるか、金が足りるか、帰れるかまで含めて成立させるのが俺の役目だと思ってる」
「ありがとうございます」
ルシェルトの返答も、イェルシェリナの説明と矛盾しない。本人意思を尊重することと、希望を何でも無条件に叶えることを同じにしていなかった。できないことはできないと伝え、その上で可能な形へ変える役割がある。
セラフィネアは最後にリゼルヴェートへ向き直った。本人の答え、イェルシェリナの説明、ゼルディヴァンの資料、ルシェルトの実務判断を別々に確認した上で、最初の問いへ戻る。ここまで聞けば、少なくとも現在の状態については自分なりの判断を下せる。
「アルシェノアさん。もう一度だけ聞きます」
「うん」
「あなたは、ノルシェリア派に残りたいですか?」
「残りたいよ」
「第三十一位になった今でも?」
「順位が変わったからって、そこは変わらないかな」
「もっと大きな国や、設備の整った組織から誘われても?」
「話は聞くと思う。でも、それだけで移るとは思わない」
「理由を聞いてもいいですか?」
リゼルヴェートは少し考えた。答えを用意していなかったらしく、視線がイェルシェリナ、ゼルディヴァン、ルシェルトへ順番に向く。それからアシェラにも一度目を向け、ようやくセラフィネアへ戻ってきた。
「最初に拾ってくれたから、だけじゃないよ」
「では?」
「今も一緒にいたいから。イェルシェリナは難しい話をちゃんと説明してくれるし、ゼルディヴァンは私が気づかないことを調べてくれるし、ルシェルトは私が戦う以外のことをいっぱいやってくれる。私も、三人が困る時はできることをしたい」
「恩を返すためですか?」
「それも少しはあるかもしれないけど……それだけなら、ずっとここにいる理由にはならないと思う」
素直な答えだった。義務感だけで残っているようには聞こえず、弱い派閥だから自分が守らなければならないという一方的な関係にも見えない。リゼルヴェートは自分が強いことを理解した上で、それとは別に三人から受け取っているものを認識していた。
「分かりました」
セラフィネアはそこで、ようやく一つの評価を確定させた。
「私は来る前、ノルシェリア派について二つの可能性を考えていました。一つは、第三十一位になったアルシェノアさんを、以前からの関係だけで引き留めている小規模派閥。もう一つは、本人が今も残るだけの理由を持っている組織です」
「今は?」
「後者です」
リゼルヴェートが少しだけ目を丸くした。イェルシェリナは表情を大きく変えなかったが、セラフィネアの言葉を遮ることもしない。ゼルディヴァンとルシェルトも黙って続きを待っていた。
「少なくとも、私が今日確認した範囲では、アルシェノアさんは仕方なくここにいるわけではありません。本人の選択があり、その選択を成立させるための責任分担もあります」
「じゃあ、《最弱派閥》じゃないってこと?」
「強いか弱いかだけで組織を評価するなら、私はそういう言い方をしません」
「難しい言い方だね」
「では簡単に言いましょう」
セラフィネアは少しだけ眉を緩めた。
「《第三十一位を抱えている派閥》ではなく、《第三十一位が自分で選んで残っている派閥》だと評価します」
その違いは、セラフィネアにとって大きかった。前者なら、強い個人の存在だけが組織価値を支えている。後者なら、その人物が残るだけの関係と機能があり、少なくとも本人から見れば選ぶ価値が存在している。
「私は、それで十分です」
「聖統国としても?」
「今日ここで確認した事項については、私の報告へそのまま反映します。ただし、聖統国全体の全ての判断を私一人で決めるわけではありません」
「そこを分けるのね」
「ええ。そこはクロヴェリアさんと同じです」
イェルシェリナが僅かに笑った。それだけで、先ほどまで続いていた価値観の確認に一区切りがついたのだとセラフィネアにも分かる。完全に同じ思想ではないが、少なくとも互いを誤解したまま話してはいない。
会談の主要な確認事項は、これでほぼ揃った。リゼルヴェート本人の意思、ノルシェリア派との関係、王国責任との境界、三人それぞれが担う役割。アシェラとセフィラの件だけは保留になったが、それを今ここで無理に外交案件へ混ぜるつもりはなかった。
セラフィネアは手元の資料を一度閉じた。ここまでが、聖統国側が正式訪問によって確認する予定だった内容になる。だが、今回リュネヴァルトまで持ってきたものは、それだけではなかった。
「では、外交上の確認については、私は十分です」
「終わり?」
「この部分については」
リゼルヴェートが首を傾げる。セラフィネアはその反応を見ながら、持参した書類の中から別の一通を取り出した。先ほどまで参照していた確認資料とは封の形式も違い、聖統国単独の照会文書として扱うものでもない。
「今回、私が持参した文書はもう一つあります」
机上へ置く前に、セラフィネアは封が損なわれていないことを改めて確認した。目の前の四人へ渡す以上、ここから先は単なる聖統国とリュネヴァルトの関係確認では済まない。会談の間ずっと国内に向けられていた話題が、もう一度、国境の外へ広がろうとしていた。




