第二章 19 『久しぶり、アシェラ』
「久しぶりですね、アシェラ」
セフィラの声が会談室へ落ちた直後、アシェラは何も言わずに相手を見返した。淡い灰桜色の長い髪も、乳白と淡紫が混じる瞳も、以前と大きく違っているようには見えない。少なくとも、初めて会う相手を見る必要はなかった。
向こうも同じだった。驚きも警戒もなく、ただ確かめるようにこちらを見ている。その視線だけで、二人が互いの存在を以前から知っていることは十分伝わったらしい。
「……知り合い?」
最初に声を出したのは澪桜だった。隣に座っていた身体が少しだけこちらへ向き、紫がかった瞳がアシェラとセフィラを交互に見る。さっきまで第三位との正式会談へ向いていた意識は、もう完全にこちらへ移っていた。
「知ってる」
「やっぱり知ってるんだ」
「……うん」
「いつから?」
続けて聞かれても、アシェラはすぐには答えなかった。言えないから黙っているのではなく、今ここで答える必要があるかを考える。必要がなければ話さない、それだけだった。
澪桜はそんなこちらの反応を見て、少し困ったように眉を寄せた。怒ってはいない。けれど、気になることをそのまま飲み込める性格でもなかった。
「アシェラ」
「なに」
「セフィラって誰?」
短くて当然の質問だった。だが、その答えをどこまで広げるかは別の問題になる。アシェラは一度だけセフィラへ視線を戻し、向こうが口を挟まないのを確認した。
「……セフィラは、セフィラ」
「それ、この前も誰かに言われた気がする」
澪桜が少しだけ頬を膨らませた。答えになっていないと分かっている顔だったが、アシェラは訂正するつもりはなかった。名前以上の説明を足せば、その分だけ次の質問も増える。
「昔から知ってるの?」
「……昔から」
「どこで会ったの?」
「話さない」
「なんで?」
「今はいらない」
澪桜はますます分からないという顔になった。隣ではイェルシェリナが黙ったままこちらを見ており、ゼルディヴァンもいつものように表情を動かさず、状況を整理しているようだった。ルシェルトも口を挟まず、会談室全体の空気だけが数分前とは完全に変わっている。
そこでセフィラが静かに口を開いた。
「わたしからも、同じ答えになります。アシェラとは以前から面識があります」
「でも、詳しいことは話さない?」
澪桜が尋ねると、セフィラは穏やかに頷いた。
「はい。今この場で、わたしたちだけが先に説明することではないと思っています」
「私たちだけ?」
「少なくとも、あなた自身が知らないことまで、わたしやアシェラが勝手に順番を飛ばして話すべきではありません」
アシェラはその言葉を聞いても反応を変えなかった。余計なことは言っていない。それだけ確認できれば十分だった。
「……澪桜、知らないこともある」
「それは知ってるよ。アシェラ、全然教えてくれないし」
「必要なら話す」
「その必要がいつ来るのか分からないんだけど」
澪桜の不満はもっともだった。けれど、だからといって今ここで全部話せばいいことにもならない。知る順番まで含めて、まだ動かす必要がないものはある。
アシェラが黙ったままでいると、今度はゼルディヴァンが口を開いた。
「確認だけするぞ。二人は前から知り合い。それは事実なんだな」
「……うん」
「敵対関係か?」
「違う」
短く返すと、今度はセフィラも続けた。
「わたしも、アシェラを敵として見てはいません」
「じゃあ、味方?」
ルシェルトの問いに、アシェラはすぐには答えなかった。敵ではないからといって、同じ立場とは限らない。そこを簡単な言葉でまとめると、余計に誤解が増える。
「……それも違う」
「なるほど。分かりやすく分かりにくいな」
「正確」
「褒めてないぞ」
ルシェルトが肩をすくめた。会談室に少しだけ普段の空気が戻ったが、イェルシェリナの視線はまだこちらへ向いたままだった。彼女は澪桜ほど直接的には聞かず、答えられる範囲を測るように口を開く。
「アシェラ。今の時点で、リゼルヴェートに危険がある話?」
「……今はない」
「今は、ね」
「今はない」
「分かったわ。それなら、そこ以上は今は聞かない」
イェルシェリナは深追いしなかった。アシェラが何も言わないことに納得したわけではないだろう。それでも、《今すぐ危険があるか》だけを切り分けて確認したのは彼女らしかった。
次に視線を向けてきたのはセラフィネアだった。先ほどまで澪桜やノルシェリア派との関係を一つずつ確認していた第三位は、今度はアシェラとセフィラの間へ視線を置いている。ただし、強く問い詰めるような圧はなかった。
「アシェラさん。私からも、一つだけ確認してよろしいですか?」
「……なに」
「リゼルヴェートさんが、あなたについて知らないことはありますか?」
その問いに、アシェラは答えなかった。肯定しても否定しても、その先へ話が進む。今ここで必要なのは、そこではない。
代わりにセフィラが口を開きかけたが、アシェラは先に視線を向けた。余計な補足はいらない。その意図が伝わったのか、セフィラもそのまま言葉を止めた。
「……答えない」
アシェラが言うと、セラフィネアは少しだけ考え込んだ。表情は穏やかなままだが、質問を変えて追うことはしない。自分の中で、どこまで聞くべきかを整理しているように見えた。
「分かりました」
「それだけ?」
澪桜が思わず聞くと、セラフィネアはそちらへ向き直った。
「はい。それ以上は、今ここで私が無理に聞くべきではないと判断しました」
「なんで?」
「あなた自身が、まだ知らない可能性があるからです」
その答えに、澪桜が目を瞬かせた。セラフィネアは続ける前に、アシェラとセフィラを一度ずつ見た。二人のどちらかから情報を奪うのではなく、澪桜本人を基準に置いて考えているらしかった。
「私は第三位です。立場を使えば、もっと強く説明を求めることもできます」
「うん」
「ですが、あなたが知らないことを、第三者である私が先に暴くのは公平ではありません。あなたが知っていることと、知らないことを分けないまま追及するのも同じです」
澪桜はしばらくセラフィネアを見ていた。全部理解したかどうかは表情だけでは分からない。それでも、自分の知らないところで勝手に話を進められないという部分は伝わったらしく、少しだけ肩の力が抜けた。
「じゃあ、セラフィネアさんは聞かないの?」
「今は聞きません。少なくとも、本人であるあなたを置いて進めることはしません」
「そっか」
「気になりますか?」
「すごく気になる」
「でしょうね」
「でも、アシェラが今言わないなら……あとでちゃんと聞く」
澪桜がこちらへ向き直る。責める視線ではなかった。けれど、忘れないという顔だった。
「アシェラ」
「……なに」
「あとで聞くからね」
「知ってる」
「逃げないでよ」
「逃げない」
そこまで答えると、澪桜は一応納得したらしい。完全に気にならなくなったわけではないが、会談そのものを止めるつもりもないようだった。
アシェラは再びセフィラを見る。向こうもこちらを見ているが、余計な言葉を出す様子はなかった。少なくとも、この場で話すべき範囲については考えが大きく違っていないらしい。
以前と同じかどうかはどうでもよかった。今ここで必要なのは、澪桜の知らないことを勝手に広げないことと、会談そのものを壊さないことだけだった。それ以上を確かめる場ではない。
「では、この件はいったん置きましょう」
セラフィネアが静かに言った。声は穏やかだったが、議題を戻す意思は明確だった。
「本来の訪問目的は、リゼルヴェートさんとノルシェリア派、それからリュネヴァルト王国との関係を確認することです。アシェラさんとセフィラの関係については、必要になった時に改めて扱います」
「それでいいわ」
イェルシェリナもすぐに同意した。ゼルディヴァンとルシェルトも異論はないらしく、止まっていた資料が再び机の上で動き始める。会談室の空気は完全に元通りではないが、少なくとも話を続けられる状態には戻った。
澪桜だけは最後まで少し名残惜しそうにこちらを見ていた。気になることを放っておけない性格なのだから当然だったが、それでも今はセラフィネアの方へ身体を戻している。アシェラはその様子を確認してから、自分も視線を会談の中心へ戻した。
その直前だった。
「――アシェラ」
小さな声に、もう一度だけセフィラを見る。
「まだ、話していないのですね」
アシェラは答えなかった。肯定する必要も、否定する必要もないまま、ただセフィラの瞳を見返す。その短いやり取りを最後に、会談は本来の議題へ戻り始めていた。




