第二章 17 『第三位が動く理由』
セラフィネア・ルクシェリアが、再び《アシェラ》という名を口にしたのは、リュネヴァルトへの出発準備がほぼ整った頃だった。
以前、新たな第三十一位について届いた資料を確認していた時、隣にいたセフィラはその名へ明確に反応した。あの時は必要以上に追及しなかったが、これから本人たちへ会いに行く以上、何も聞かないまま出発する方が不自然だった。
部屋には旅支度を終えた荷物と、聖統国側でまとめられたリュネヴァルト関連資料が並んでいる。正式な外交訪問である以上、セラフィネア一人が気の向くまま向かうわけではないが、随行者の確認も出発手続きもすでに終わっていた。
セフィラは窓際の椅子へ静かに座り、問いかけられるのを最初から分かっていたようにセラフィネアを見ている。
「セフィラ。以前のことを、もう一度確認してもいいですか?」
「はい。アシェラについてですね」
「ええ。あなたは、あの方を知っている。それ自体は間違いありませんか?」
「間違いありません。わたしはアシェラを知っています」
返答はあっさりしていた。知らないふりをすることも、話題そのものを避けることもない。だからこそセラフィネアは、次の問いへ進む前に、どこまでなら答えるつもりなのかを慎重に見極める必要があると感じた。
「では、アシェラは何者なのですか?」
「その質問には、今は詳しく答えません」
「理由を聞いても?」
「わたしから先に説明することではないからです。少なくとも、アシェラ本人と、その傍にいるリゼルヴェートさんを抜きにして話すべきことではありません」
拒絶というより、順番を決めている言い方だった。セフィラは昔から、知らないことを知っているふりはしない代わりに、知っているからといって何でも口にするわけでもない。
今回も嘘をついているようには見えず、単純に《今ここで話す範囲ではない》と判断しているらしかった。
「あなたとアシェラの関係についても?」
「同じです。面識があることは否定しませんし、敵対しているとも申しません。ただ、それ以上を今ここで決めつける必要はないと思っています」
「決めつける?」
「昔と今で、同じとは限りませんから」
セラフィネアはその言葉をすぐに解釈しきろうとはしなかった。《昔》がいつを指すのかも、《同じではない》のが関係なのか考え方なのかも分からない。
セフィラ自身がそこを広げなかった以上、現時点で確定できるのは、二人に過去の面識があるという一点だけだった。
「では、別の聞き方をします。あなたは、アシェラを危険だと思っていますか?」
「可能性だけなら、誰にでもあります」
「そういう答えをすると思っていました」
「ですが、少なくともわたしは、アシェラを《危険だから排除するべき相手》とは見ていません。何をしているのか、何を選ぼうとしているのか、その結果を見る必要があると思っています」
静かな声だったが、そこにはセフィラなりの判断があった。無条件に味方するのでも、過去を理由に断罪するのでもなく、今何をしているのかを見る。
セラフィネアが知る限り、それは普段から人間を見る時にも変わらないセフィラの姿勢だった。
「リゼルヴェートさんについては?」
「まだ、会っていません」
「資料は見たでしょう?」
「見ました。ですが、資料で分かることと、本人を見なければ分からないことは別です」
「第三十一位になったことも?」
「それは事実です。強いことも、少なくとも公開されている記録からは疑う理由がありません。ただ、その強さがその人の全部ではないでしょう」
その言い方に、セラフィネアは小さく頷いた。自分が知りたいのも、まさにそこだった。新たに第三十一位へ上がったという結果だけなら、報告書を読めば分かる。
だが、どのような人物なのか。なぜ現在の所属を選び、何を望み、どのような人々と行動しているのか。そこまで含めて見なければ、自分が会いに行く意味も薄い。
「一つ、気になっていることがあります」
「何でしょう」
「リゼルヴェートさん自身は、アシェラについてどこまで知っているのでしょうか」
セフィラは、今までより僅かに長く沈黙した。表情はほとんど変わらないが、それだけで質問の種類が変わったことは分かる。セラフィネアは答えを急かさず、セフィラが自分から言葉を選ぶのを待った。
「分かりません」
「あなたにも?」
「正確には、本人が何を聞き、何を知り、どこまで理解しているのかを、わたしが確認していません。ですから、知っているとも知らないとも言えません」
「なるほど。それなら、私が勝手に決めるべきではありませんね」
「はい。わたしもそう思います」
その答えで、セラフィネアの中にあった一つの迷いがはっきりした。もしリゼルヴェート本人がアシェラのことを全て理解しており、その上で共にいるなら、本人へ直接問いかければ済む。
だが本人が知らない可能性まであるのなら、外側の人間が先に秘密を暴き、それを本人へ突きつける形になることもあり得た。
第三位という立場を使えば、強く要求することはできる。セレフィア聖統国からの正式な照会として出せば、リュネヴァルト側も簡単には無視できないだろう。安全保障や至冠者管理を理由にすれば、答えを求める名目も作れる。
けれど、答えを求める力があることと、その力を使うことが公平であることは同じではない。相手が知っていることを確認するのと、相手自身も知らないかもしれないことを、立場の強さで外側から暴くのとでは意味が違う。セラフィネアにとって、その二つを同じ扱いにすることはできなかった。
「第三位という肩書きを使えば、向こうへかなり強く要求できます」
「そうですね」
「小国側からすれば、拒否しづらいでしょう」
「おそらくは」
「だから、先にそれをするのはやめます」
セフィラはすぐに賛成とも反対とも言わなかった。いつものように、セラフィネアの判断を聞いた上で、その先を見るつもりなのかもしれない。
少なくとも、自分が知っていることを理由に聖統国へ強硬な照会を求める様子はなかった。
「まず本人に会います。リゼルヴェートさんに、ノルシェリア派の方々に、それからアシェラにも」
「はい」
「そこで本人が何を知っていて、何を知らないのかを確かめます。答えたくないことまで答えさせるつもりはありません」
「それがよいと思います」
「珍しく素直に賛成しますね」
「セラフィネアが、わたしと同じ結論を選んだだけです」
僅かに柔らかくなった返答に、セラフィネアも口元を緩めた。長い付き合いではあるが、セフィラが何でも自分へ話すわけではないことは昔から知っている。
逆に、自分も第三位だからという理由だけで彼女の沈黙を破る権利があるとは考えていなかった。
「ただし、現地で何か危険が分かった場合は話が別です」
「もちろんです」
「その時まで黙られては困ります」
「必要になれば話します。必要になったのに黙るつもりはありません」
「その《必要》の判断が、あなたと私で同じとは限らないのですよ」
「それも知っています」
穏やかなまま話しているのに、結局この部分だけは譲らない。セラフィネアは小さく息を吐いたが、無理に問いを重ねることはしなかった。今聞き出せる言葉を増やすより、現地で自分の目で確かめる方が公平だと、すでに結論を出している。
正式訪問を選んだ理由も、それで明確になった。第三十一位となったリゼルヴェート本人の意思、ノルシェリア派との関係、リュネヴァルト側が彼女をどう扱っているのかを確認する。その上で、アシェラとセフィラの間にあるものについても、本人たちを無視せずに確かめる。
それなら、第三位が直接動く理由として十分だった。
◇
出発は予定通り行われた。セレフィア聖統国からリュネヴァルトまでは、正式使節として必要な手続きを踏みながら進めば一定の移動時間を要する。途中の滞在も最小限に留められ、移動そのものを目的とするような寄り道はなかった。
セラフィネアは道中でも、リュネヴァルト側から共有された資料へ何度か目を通した。
第三十一位リゼルヴェート・アルシェノア、ノルシェリア派代表イェルシェリナ・クロヴェリア、ゼルディヴァン・アルネグラート、ルシェルト・ヴァルネイド。そして通常の派閥構成員とは別に、リゼルヴェートへ同行しているアシェラの名がある。
帝国使節団が訪れた直後ということもあり、ノルシェリア派の評価資料には更新が加えられていた。戦闘力だけならリゼルヴェートが突出しているが、他三名も外交、情報、移動・実務でそれぞれ機能している。
以前のように《強い至冠者一人と、その周囲》とだけ見るのは適切ではないという評価まで、すでに聖統国側へ届いていた。
「思っていたより、きちんと分かれているのですね」
「ノルシェリア派のことですか?」
「ええ。リゼルヴェートさん一人だけを見に行けばいいという話ではなさそうです」
「最初から、その方がよいと思います」
「それも以前から分かっていたのですか?」
「いいえ。資料を読んで、そう思っただけです」
セフィラは知らないことまで意味深に装わない。その点は信頼できると、セラフィネアは以前から感じている。知っていることを全て話さないことと、何でも知っているように振る舞うことはまったく違った。
「では、アシェラについては?」
「それは知っています」
「やはりそこだけは増えませんね」
「現地へ行くと決めたのでしょう?」
「決めました」
「なら、今わたしから言葉だけを増やしても、セラフィネアの判断を狭めるだけかもしれません」
言われてみれば、その可能性はあった。セフィラが先にアシェラをどう評価しているか詳しく聞けば、自分もその見方に引かれる。公平に見るつもりなら、少なくとも最初の対面くらいは、自分の目で相手を見る方がいい。
「分かりました。到着までは、これ以上聞きません」
「ありがとうございます」
「ただし、到着したら遠慮なく聞きます」
「分かっています」
それ以降、セラフィネアはアシェラについて新しい問いを出さなかった。セフィラも自分から核心へ触れることはなく、必要な移動確認や現地での正式な手順についてだけ話す。沈黙が気まずい関係ではないため、それで困ることもなかった。
移動が進むにつれ、周囲の景色は少しずつリュネヴァルトに近いものへ変わっていった。国境へ近づくほど、セラフィネアの意識も資料上の人物から、これから実際に会う相手へ移っていく。
第三十一位の少女が何を望んでいるのか、ノルシェリア派がどのような関係で成り立っているのか、それを知ることが今回の訪問で最初に確認すべきことだった。
そして、その傍らにアシェラがいる。
セフィラが知っている相手でありながら、今まで詳しく語ろうとしなかった存在。だからといって、危険だと決めつける理由も、味方だと決めつける理由もまだない。
リュネヴァルト領が近づいた頃、隣にいたセフィラが窓の外へ顔を向けた。普段と大きく変わらない表情だったが、視線だけは先ほどまで資料へ向けていた時より明確に遠くを見ている。セラフィネアが何も尋ねないまま待っていると、セフィラは静かな声で一言だけ告げた。
「……近いですね」
誰が近いのかを、改めて尋ねる必要はなかった。セラフィネアも同じ方向へ視線を向け、まだ見えないリュネヴァルトの先にいる少女たちを思う。
答えを聞き出すためではなく、自分の目で公平に確かめるための訪問が、もうすぐ始まろうとしていた。




