第二章 10 『負けても帰る』
ユルディオの「降参する」という声が届いた瞬間、リゼルヴェートは動かしかけていた花弁をすべて止めた。
左右、上方、背後へ回していた《星桜千華》がユルディオへ届く寸前で静止し、そのまま軌道を外れて光の中へ散っていく。
次まで撃てば危ないと考えていたらしい相手へ、降参を聞いた後まで攻撃を続ける理由はなかった。戦い始めてから張りつめていた空気が、そこでようやく切れた。
「本当に降参?」
「うん。もう一回あの数を受けるのは危ないからね」
「まだ立ててるけど、それでも?」
「立ててるうちに言うんだよ。立てなくなってからじゃ遅いでしょ」
最初に会った時と同じ調子だった。ユルディオは肩や腕にいくつもの浅い傷を残し、装備にも大きな破損が出ているが、自分の足で立っている。それでも戦いを続ける気はもうないらしく、構えを解いたままこちらを見ていた。
リゼルヴェートは周囲へ残っていた花弁も完全に消した。これ以上戦う意思が双方にないことが確認され、正式な降参による決着として処理される。
結果はリゼルヴェートの勝利。ユルディオが負けたという形になったのに、本人にはひどく悔しそうな様子も、無理に平気な顔を作っている様子も見えなかった。
「終わったね」
「終わったね。いやあ、やっぱり強かった」
「ユルディオさんもすごかったよ。ちゃんと当たってるのに、全然傷が残らないんだもん」
「全然じゃないよ。ほら」
ユルディオが左腕を少し持ち上げると、衣服の裂け目の下には細かな傷がいくつも残っていた。大きな一撃をそのまま受けたような深さではないが、完全に消えているわけでもない。
リゼルヴェートが途中から感じていた通り、《傷界分岐》は攻撃そのものをなかったことにする能力ではなかった。
「最初はね、もっと普通に耐えられると思ってたんだ」
「私の攻撃を?」
「最初の数手くらいはね。それは合ってた。でも、あんなに同時に増やされるとは思ってなかった」
「一発を強くするより、いっぱい同時に当てた方が嫌そうだったから」
「そこに気づかれるのが早すぎたよ」
ユルディオは苦笑しながら、ひび割れた床と破損した設置物を見回した。彼が傷を逃がしていた場所は、戦う前と比べればはっきり分かるほど傷んでいる。
覚醒まで使って七つの経路を同時に成立させても、それぞれの受損点が壊れ続ければ、いつまでも同じように損傷を逃がせるわけではないらしい。
「途中で急に増えたよね。あれ、覚醒だったの?」
「そう。——『七傷分界』。今の僕が安定して使える中では、あれが最大だよ」
「七つに分けても、最後は足りなくなってた?」
「経路は増やせても、受けた傷そのものが減るわけじゃないからね。逃がす先が壊れたら、その分は僕が受けるしかない」
そこでようやく、リゼルヴェートの中でも戦闘中に見えていたことが一つに繋がった。通常の《傷界分岐》では処理が追いつかなくなり、覚醒した《七傷分界》で七系統へ増やした。
それでも損傷の総量は消えず、床や設備、装備へ傷が蓄積し続けた結果、最後には次を受ける余裕そのものがなくなった。
「私、もっと強く撃った方が早いかなって最初は思ったんだけど」
「それも嫌だけどね」
「でも、ユルディオさんって一個の大きい傷を分けるのは得意そうだったから。それなら、最初からいっぱい傷を作れば大変かなって」
「正解。それをやられると、どこへ逃がすかを一気に考えないといけなくなる」
「覚醒しても?」
「覚醒しても。七つに増えるだけで、無限にはならないよ」
ユルディオはそう言って、割れた肩当てを指先で軽く叩いた。覚醒という言葉から、もっと何でもできる状態を想像しかけたが、実際には能力の強みを大きく広げる代わりに、元々あった制約まで消えるわけではないらしい。リゼルヴェートには、その方がむしろ戦って見た感覚と合っていた。
戦闘範囲の外から三人も近づいてきた。ゼルディヴァンはユルディオの負傷より先に、周辺の損傷位置を確認している。
イェルシェリナは正式な降参決着に問題がないかを確かめ、ルシェルトは破損した場所と、試合後に必要になる処理へ視線を向けていた。
「七系統まで増えた時点で覚醒へ移ったと見ていいんだな」
「うん。通常のままじゃ、あの数は処理しきれなかったから」
「損傷を減らしたわけじゃなく、同時処理できる経路を増やした」
「その理解で合ってるよ」
ゼルディヴァンは短く頷き、それ以上を勝手に決めつけなかった。覚醒まで使ったことは分かっても、《七傷分界》の細かな条件や限界を全部知ったわけではない。
それでも、公開記録だけで立てていた仮説が、実戦を通してかなり具体的な形になったことはリゼルヴェートにも分かった。
「負傷は?」
イェルシェリナが尋ねると、ユルディオは自分の腕や脇腹を確かめた。
「帰れなくなるようなものはないよ。少し休めば大丈夫」
「それならいいわ。降参成立で処理する。戦闘不能まで続ける必要はないもの」
「助かるよ。僕としても、そのために降参したからね」
戦う前に聞いた話を、本当にそのまま実行したのだとリゼルヴェートは改めて思った。勝てないと分かったら降参する。まだ動けても、能力が使えても、覚醒まで使っていても、生きて帰れなくなる前にやめる。
言葉で聞いた時には少し変わった考え方に思えたが、実際の戦場で迷わずそれを選んだ姿を見れば、ユルディオにとっては本当に当然の判断なのだと分かる。
「悔しくないわけじゃないんだよね?」
「もちろん悔しいよ。勝ちたくて来たんだから」
「でも帰る?」
「帰るよ。負けても帰れるなら、その方がいい」
ユルディオは迷いなく答えた。順位を守るためでも、見ている人へ格好をつけるためでもなく、また次に戦える状態で帰ることを選ぶ。その考え方はリゼルヴェートとは違うが、戦った今なら前よりずっと理解できた。
正式な戦後処理が進み、今回の結果も至冠戦の記録へ反映された。決着はユルディオ・ネフェルスの降参。
リゼルヴェート側には降参勝利として一ポイントが加算され、レグシェリア戦で得ていた一ポイントと合わせて累計二ポイントになる。
「二になった」
「そうね。今回も降参勝利だから一ポイント追加」
「順位は?」
「変わらないわ。あなたは第三十一位のまま。ユルディオも第三十八位のままよ」
イェルシェリナの説明を聞き、リゼルヴェートは少しだけ首を傾げた。順位交換が起きる戦いと違い、今回の結果では現在位置そのものは変わらない。ポイントだけが一つ増え、戦歴に今回の勝利が新しく残った。
「じゃあユルディオさん、負けたけど第三十八位?」
「うん。今回は僕より上の君に挑んだからね」
「そっか」
「それに僕の十四ポイントも減らない。だから、帰ってまた次を考えればいい」
その言葉にも、負けたことを誤魔化す響きはなかった。負けは負けとして受け入れた上で、残ったものを次へ持って帰る。
ユルディオが長く至冠者を続けてきた理由の一部を、リゼルヴェートはようやく実感として理解できた気がした。
戦場として使った場所の確認を終え、全員が一度休める場所へ戻った頃には午後も進んでいた。ユルディオの傷も応急的な処置で済む範囲に収まっており、本人は帰国の日程まで変える必要はないと言っている。
戦いの直前まで敵だった相手と普通に話しているのは少し不思議だったが、正式な至冠戦が終われば、それ以上敵対する理由もなかった。
「リゼルヴェート、一つだけ覚えておいた方がいいよ」
先ほどまでより少しだけ真面目な声になり、リゼルヴェートはユルディオを見る。彼は傷んだ装備を外しながらも、何かを脅すような表情ではなかった。ただ、自分が経験してきたことを伝えておきたいらしい。
「なに?」
「これからも至冠者とはたくさん関わると思う。君、第三十一位になったばかりなのにもう申請がいっぱい来てるんでしょ?」
「うん」
「でも、みんなが僕みたいに先に申請して、日程を決めて、正面から始めて、危なくなったら降参するとは思わない方がいい」
「正式な至冠戦じゃないってこと?」
「至冠戦って呼ばれる争い全部が、こういう綺麗な試合の形をしてるわけじゃないってこと」
それ以上、ユルディオは詳しく説明しなかった。リゼルヴェートにも、今すぐ何か具体的な危険が迫っていると言っているわけではないことは分かる。
ただ、今日のように始まりも終わりもはっきりした戦いだけを想定していると、いつか困るという忠告らしかった。
「いきなり戦う人もいる?」
「いるかもしれないね。少なくとも、相手が『正々堂々やろう』って言ってくれる前提では考えない方がいい」
「分かった」
「怖がれって意味じゃないよ。君なら戦うこと自体はたぶん大丈夫だと思う。ただ、強いことと、相手が何をしてくるか知ってることは別だから」
その言い方なら、ゼルディヴァンがいつもしている注意にも少し似ていた。リゼルヴェートは自分が強いことを否定するつもりはないし、戦う時にわざと弱くするつもりもない。
それでも、知らないことまで力だけで先に決めつけない方がいいという意味なら理解できる。
「ありがとう。覚えとく」
「うん。それでいいと思う」
ユルディオはまたいつもの柔らかい調子へ戻った。負けた直後なのに、相手へ忠告を残せる程度には余裕がある。戦う前よりも、リゼルヴェートにはこの人のことが少し分かった。
その後は試合記録、施設側への処理、破損箇所の確認と、ルシェルトを中心に現実的な作業へ戻っていった。
ゼルディヴァンは今日見た《傷界分岐》と《七傷分界》を事前記録と照らし合わせ、イェルシェリナは今回の至冠戦を国外案件としてどこまで記録するかを確認している。
リゼルヴェートも必要な部分だけ答えながら、自分の現在ポイントが二になったことを改めて覚え直した。
そこへ、新しい正式文書が届いた。
国外からのものだと分かった時点で、イェルシェリナが先に受け取り、封と差出人を確認する。リゼルヴェートも何となく横から覗き込んだが、そこに記されていた国名には見覚えがあった。
初めて正式至冠戦を申し込んできた相手と、同じ国だった。
「ヴァルグレシア帝国……?」
「ええ。使節団の来訪通知ね」
先ほどまでの戦後処理とは別の緊張が、机の周りへ戻ってくる。通知そのものは正式なもので、目的や来訪予定、構成員名簿まで添付されていた。
リゼルヴェートには知らない名前がいくつも並んでいたが、その中に一つだけ、読み間違えるはずのない名前がある。
――《レグシェリア・ヴァルディナ》
初めて戦った第三十一位――そして今は第五十一位となった少女。その名が、今度は至冠戦申請ではなく、ヴァルグレシア帝国の正式使節団名簿の中に記されていた。




