第二章 6 『負け続ける第三十八位』
翌朝、ゼルディヴァンが最初に開いたのは、ユルディオ・ネフェルスの順位表ではなく過去の公開戦闘記録だった。第三十八位、累計十四ポイント、そして異様なほど多い降参歴だけでは、この男が何を基準に戦っているのかまでは分からない。
昨夜のうちに拾えた記録を並べ直し、対戦相手の攻撃、命中箇所、決着までの時間を比較していくと、ようやく繰り返し現れる一つの名称へ辿り着いた。ユルディオの真律――《傷界分岐》。
「名前だけなら、かなり分かりやすそうだけど」
「名前通りならな」
隣から記録を覗き込むリゼルヴェートへ答えながら、ゼルディヴァンは一つの戦闘記録を手前へ寄せた。公開されている戦闘記録では、ユルディオは右肩へ直撃を受けている。
ところが、その直後に右肩だけが大きく損傷したわけではなく、離れた地面と左側の防具にもほぼ同時に破損が発生していた。
別の戦いでも、胴へ受けた衝撃の直後に背後の石床が割れ、本人は直撃の規模に対して軽い損傷で動き続けている。
「攻撃を消してるわけじゃない」
「どうして分かるの?」
「周りが壊れてる。完全に無効化してるなら、受けた後に別の場所へ同じタイミングで損傷が出る理由がない」
「じゃあ、攻撃を跳ね返してる?」
「それも違うと思う。相手側へ戻ってる記録がほとんどない」
ゼルディヴァンは別の記録へ切り替えた。剣撃、衝撃、熱、圧力と攻撃の種類が変わっても、ユルディオ本人だけに損傷が集中していない事例が繰り返されている。
ただし、どの記録でも本人が完全な無傷というわけではなく、戦闘が長引けば負傷や動作低下も確認できた。そこまで揃えば、少なくとも《何でも消せる防御能力》ではない可能性が高い。
「受けた損傷そのものを、別の場所へ分けてるんじゃないか」
イェルシェリナが外交文書から顔を上げたことで、ゼルディヴァンは推測と確定情報を改めて切り分けた。地面、防具、周囲の構造物へ損傷が出ている記録はあるが、何を対象にできるのかまでは公開情報だけでは見抜けない。
距離や数、本人が必ず一部を引き受けるのかどうかも不明であり、真律名だけから仕様を決めつけるのは危険だった。
「場所だけ?」
「そこまでは断定できない。地面、防具、周囲の構造物へ損傷が出てる記録はある。でも、何を対象にできるか、どこまで離せるか、本人が必ず一部を受けるのかは分からない」
「生き物へ移した記録は?」
「公開分では確認できない。できないのか、やってないのかも不明だ」
分からない部分は、そのまま残しておくしかない。《群鏡演算》で記録をいくら並べても、存在しない情報まで作ることはできない。
真律名と現象から仮説を立てることはできても、それを能力の全仕様だと思い込めば実戦で最初に崩れる。特に至冠者相手なら、公開されていない使い方が一つあるだけで前提そのものが変わりかねなかった。
「でも、それなら結構強くない?」
「強いと思う」
「なのに、いっぱい降参してるんだよね?」
「ああ。だから、そっちも合わせて見てる」
ゼルディヴァンは昨夜確認した戦績一覧をもう一度開いた。敗北記録の中には、大きな負傷を負う前に終わっているものがかなりある。
相手の攻撃を一度か二度受け、何らかのやり取りをした後、まだ立って動ける状態で降参している例も珍しくない。
敗北したという結果だけを見れば弱く映るが、戦闘不能になるまで追い込まれた敗北とは明らかに性質が違っていた。
「これ、見て」
ゼルディヴァンが一つの記録をリゼルヴェートへ示すと、そこには開始から決着までの短さと、降参時の状態が残されていた。
ユルディオはまだ自力で動けており、真律の使用も続けられる状態だった。それでも戦いを止めている以上、身体が動かなくなったから負けたわけではない。
「開始から決着までかなり短い。ユルディオはまだ動けるし、能力も使えてる。でも途中で降参してる」
「もう勝てないって思ったのかな」
「たぶん。ただ、それを判断した理由までは記録にない」
「私だったら、もうちょっとやってみるかも」
「お前はそうだろうな」
リゼルヴェートなら、相手が強いと分かった後も勝ち筋を探すだろう。実際、それができるだけの戦闘判断も力も持っている。
だがユルディオは、可能性が薄いと判断した瞬間に戦いそのものを切っているように見えた。勝敗への考え方が、最初から違う。
逆に、ユルディオが勝っている戦いは妙に堅実だった。危険な賭けへ出た記録が少なく、相手の攻撃を《傷界分岐》で凌ぎながら状況を削り、自分が優位になった後は決着を逃していない。
十四ポイントという累計がある以上、ただ逃げ回っているだけではなく、勝てる戦いでは実際に勝っている。その勝利と大量の降参を同じ人物のものとして見れば、一つの考え方で繋がり始めた。
「こいつ、順位を守ることを一番にしてないな」
「じゃあ、何を一番にしてるの?」
「生き残ること」
リゼルヴェートが少し目を丸くしたが、ゼルディヴァンにはそれが一番自然に思えた。勝てるなら戦って勝ち、ポイントも取る。勝てないと判断したら、順位が落ちようと恥をかこうと、致命傷を負う前に降参する。
それを何度も繰り返した結果が、第三十八位と十四ポイント、それから長い至冠者歴なのだとすれば矛盾はない。
「至冠戦には殺害決着まである。負けた時に毎回限界まで粘ってたら、長く続けるほど死ぬ可能性は上がる」
「だから先に降参する?」
「そう見える。少なくとも戦歴は全部そっちへ向いてる」
「でも、そんなにすぐ降参してたら勝てないんじゃない?」
「勝てると思った戦いでは降参してない」
そこが重要だった。ユルディオは敗北を嫌っていないわけではないだろうが、敗北そのものを最悪の結果とは考えていない可能性がある。
順位を落としても、生きていれば次に戦える。ポイントも敗北では減らない制度なら、その考え方はさらに合理的になる。
少し離れた場所で施設資料を確認していたルシェルトも、話を聞きながら戦績へ目を向けた。昨夜持ち帰った候補施設の中から、少人数の面会なら使えそうな場所をすでに絞っているらしい。
正式な大使節団を迎える準備にはまだ足りないが、ユルディオ一人との面会なら現在の拠点でも対応できる。拠点問題と至冠戦申請を同時に処理するという意味では、相手が大人数を連れていないことだけでも助かった。
「つまり、生きて帰るのが最優先ってことか」
「記録上はな」
「至冠者としては珍しいのか?」
「降参そのものは珍しくない。でも、こいつは回数が目立つ。それでも申請する側にも何度も回ってる」
「そこが変なんだよな。死にたくないなら、そもそも戦わなきゃいいのに」
「俺もそこがまだ分からない」
危険を避けたいだけなら、至冠戦への参加そのものを減らせばいい。だがユルディオは、降参して生き残った後も再び戦場へ戻っている。
今回に至っては、第三十一位へ上がったばかりのリゼルヴェートへ自分から正式申請を送り、返答を待ちながらリュネヴァルトへ向かっている。
その行動には、《死にたくない》だけでは説明できない別の理由がある。
「会ったら聞いてみたいな」
リゼルヴェートは申請書の名前をもう一度見ながら、戦うかどうかより先に相手そのものへ興味を向けていた。
大量に並んだ数字だけでは掴めない理由があるなら、本人から聞くのが一番早い。ゼルディヴァンとしても、公開記録の分析だけで結論を出すつもりはなかった。
「なんで私と戦いたいのか」
「その前に能力の確認もする。公開記録だけで全部分かったと思わない方がいい」
「うん。でも、ちょっと楽しみになってきた」
「まだ受けるって決まってないからな」
「分かってるよ」
返事の明るさを見る限り、戦うことへの興味自体はかなり強そうだった。イェルシェリナもそれを止めるのではなく、正式申請の条件を確認し直している。本人が戦いたいと思っても、会場、日時、安全管理、国家側の手続きが揃わなければすぐには成立しない。
戦闘だけならリゼルヴェート一人でできても、至冠戦を正式に成立させるには四人それぞれの仕事が必要だった。
◇
昼が近づく頃、ルシェルトへ王都側から連絡が入った。ユルディオ・ネフェルス本人がリュネヴァルトへ到着し、正式な到着手続きを済ませたという通知だった。昨日の時点で移動中なのは分かっていたが、予想より早い。
しかも本人側から、至冠戦の返答を急かすのではなく、まずノルシェリア派へ挨拶したいという希望が添えられていた。
「来たな」
「もう?」
「近くまで来てたんだろうな。面会だけなら今日できる」
「ここで?」
「一人なら入る。正式交渉じゃなくて挨拶程度なら問題ない」
イェルシェリナも条件を確認し、短時間の面会を受けることを決めた。リゼルヴェート本人も会いたいと答え、ゼルディヴァンに反対する理由はなかった。
紙の上でどれだけ戦歴を読んでも、本人の判断基準までは分からない。むしろ今なら、記録を確認した直後だからこそ聞けることが多かった。
それから大きく時間を置かず、ノルシェリア派の拠点へ来客があった。扉の向こうに立っていたのは二十代前半ほどの男で、第三十八位という肩書から想像するほど張りつめた雰囲気はない。
こちらの人数と室内を一度確認した後、無理に威圧することもなく、どこか肩の力が抜けた様子で中へ入ってきた。戦う相手の拠点へ来たというより、知人を訪ねてきたような自然ささえある。
「――初めまして。ユルディオ・ネフェルス。急に来ちゃって悪いね」
「ゼルディヴァン・アルネグラートだ。申請は確認してる」
「それならよかった。でも、返事を急かしに来たわけじゃないよ。その辺は気にしなくていい」
口調も態度も柔らかく、必要以上に礼儀を飾る様子はなかった。第三十一位になったばかりのリゼルヴェートを軽く見て挑発しに来た人間にも見えず、かといって過剰に下手へ出てもいない。
ユルディオはイェルシェリナとルシェルトにも順に名乗り、最後にリゼルヴェートへ向き直った。
「君がリゼルヴェート・アルシェノアさんだよね」
「うん。申請、見たよ」
「ありがとう。まあ、まだ受けてもらえるとは思ってないけどね」
「ユルディオさんって、いっぱい降参してるんだよね?」
初対面でそこから聞くのか、とゼルディヴァンは思ったが、もう止めるには遅かった。ところがユルディオは気を悪くするどころか、少しだけ笑って肩を竦めた。公開記録に残っている以上、取り繕う気そのものがないらしい。
「うん、多いよ。僕、勝てないと思ったら降参するから」
「負けそうだから?」
「そう。まだ動けても、能力が使えててもね。このまま続けたら負けるなって思ったら、そこで終わり」
「悔しくない?」
「そりゃ悔しいよ。でも、死ぬよりはいいでしょ」
あまりにも自然に認めたことで、ゼルディヴァンは逆に注意を強めた。恥じている様子もなければ、降参を格好のいい生存術として誇る様子もない。
ただ本人にとっては、勝てない戦いをやめることが普通の判断なのだろう。記録から立てた仮説と、目の前の本人の態度がほとんどずれていなかった。
それならなおさら、リゼルヴェートへ自分から挑戦した理由が残る。少なくともユルディオは、第三十一位へ上がった相手が危険だと知らずに来たわけではないはずだった。
レグシェリアとの至冠戦が公開されている以上、何も調べずに申請したとも考えにくい。
「一つ聞いていいか」
「いいよ」
「それだけ生存を優先するなら、なぜリゼルヴェートへ申請した。レグシェリアとの戦闘記録くらい見てるだろ」
「もちろん見たよ」
「危険だとは思わなかったのか?」
「思った。かなり強いよね」
言い方に強がりはなく、むしろリゼルヴェートの強さを素直に認めている。それでも申請を取り下げる気はないらしい。
ゼルディヴァンには、その自然さの方がかえって気になった。勝てないと判断すればすぐ退く男が、戦う前から勝算のない相手を選ぶとは思えない。
「それでも申請したんだな」
「うん」
「何か勝てると思う理由がある?」
ユルディオは少しだけリゼルヴェートへ視線を移した。戦歴について聞かれた時と変わらず、態度は穏やかなままだった。降参を繰り返してきたことも、自分より上位の至冠者へ挑むことも、本人の中では矛盾していないらしい。
「僕は勝てないと思ったら降参するよ。そこは、戦歴を見れば分かると思う」
そこで無理に格好をつけることもなく、ユルディオはごく普通の調子で続けた。
「でもさ、勝ち目がないなら最初から来てない」
第三十八位という数字も、十四ポイントという数字も、大量の降参歴も、その一言だけではまだユルディオという男を説明しきれなかった。
ゼルディヴァンは目の前の穏やかな至冠者を見ながら、公開記録には残らない判断基準こそ、次に確かめるべきものだと理解した。
負けると分かれば即座に退く男は、それでもリゼルヴェートに勝てる何かを、自分の側に見つけてここまで来ていた。




