第二章 4 『外交権限』
王廷から戻ったイェルシェリナは、拠点の机へ正式文書を広げる前に、まず全員が揃っていることを確認した。リゼルヴェート、ゼルディヴァン、ルシェルト、それから少し離れた椅子に座るアシェラ。
机の上にはまだ処理しきれていない国外からの封書が残っており、その中央へ王家の正式印が押された文書を置くと、昨日までとは意味の違う紙に見えた。
ノルシェリア派は今から、リゼルヴェートを抱える小派閥ではなく、彼女に関する対外交渉を正式に扱う窓口になる。
「決まったの?」
「ええ。あなたの所属は今のまま。王家直属にも軍属にもならないわ」
「よかった」
「ただし、私たちの側にも正式な責任が増える。そこまで含めて説明するから、ちゃんと聞いて」
「うん!」
返事だけは元気だったが、途中で分からなくなればその場で聞くだろう。イェルシェリナはそれでいいと思いながら、文書の最初の項目を示した。
今回認められたのは、国家そのものを自由に代表する権限ではない。リゼルヴェート本人とノルシェリア派に関する案件を、自分たちが正式な窓口として扱えるというものだった。
「まず本人同意。リゼルヴェート個人への面会、研究協力、所属変更、私的契約、至冠戦。あなた自身の意思が必要なものは、私たちだけで受諾しない」
「前と同じだね」
「考え方は同じ。でも今度は、それが王廷にも正式に認められたの」
「じゃあ、知らないところで勝手に決まることはない?」
「少なくとも、私たちが窓口になっている限りはさせないわ」
そこだけは、これまで以上に明確にしておく必要があった。国外から届いている文書の中には、第三十一位という戦力を先に見て、本人の意思を後回しにしているものもある。
だからこそ、国内側まで同じ扱いを始めれば意味がない。正式な外交権限を得た最初の仕事が、本人を交渉から外すことになるのだけは避けたかった。
「次に報告義務。全部を王廷へ逐一見せるわけじゃない。でも国家へ影響する可能性がある案件は、途中で共有する必要がある」
「国家へ影響って、どの辺だ?」
ゼルディヴァンが確認し、イェルシェリナは該当箇所へ指を滑らせた。
「条約、領土、軍事行動、国家予算、外交上の正式保証。それから、相手が個人契約の形を取りながら実質的に王国へ義務を負わせるものも含むわ」
「形式じゃなく中身で見る必要があるな」
「そう。名前が私的契約でも、結果として国を拘束するなら王廷へ戻す」
「そこは俺の方でも分ける。差出人と所属だけじゃなく、過去の交渉形式も見た方がいい」
ゼルディヴァンはすでに机の端へ自分用の分類紙を寄せていた。書簡に書かれた肩書をそのまま信用するのではなく、誰がどの立場で送ってきたものかを確認するつもりらしい。
国家機関、軍、商会、研究機関、至冠者個人では、同じ一文でも意味が違う。情報の確度を分けるという彼のやり方は、戦闘前だけでなく外交でもそのまま使える。
「機密は?」
今度はルシェルトが尋ねた。
「そこも分けるわ。こっちで知った情報を全部王廷へ渡すわけでもないし、王廷から借りた情報を相手へ流していいわけでもない。誰が見ていい情報なのか、最初に決めておく必要がある」
「保管場所も要るな」
「そうね。今までみたいに、全部同じ棚へ入れるのは無理になる」
「鍵付きの棚、一つじゃ足りないかもな」
まだ説明の途中なのに、早くも物理的な問題が一つ見えた。今までノルシェリア派で扱う文書は、任務記録や予算、備品、行政通知が中心だった。
それなら今の小さな棚でも管理できたが、今後は国外組織との交渉記録や機密指定された文書まで混ざることになる。イェルシェリナはその話を後回しにせず、別紙へすぐ書き留めた。
「契約責任についても確認するわ。誰が何を承認したか、後から分からなくなる形にはしない。私が交渉したからといって、リゼルヴェートの同意が必要な部分まで私の判断で成立したことにはしないし、逆も同じよ」
「私が『いいよ』って言っただけじゃ駄目な時もある?」
「あるわ。たとえば国の施設を長期で使う話なら、あなたがいいと言っても、それだけでは決められない」
「逆に、国がいいって言っても私が嫌なら駄目?」
「あなた個人のことなら、そう」
「分かった」
少しずつ理解しているようだった。リゼルヴェートは細かい契約用語にはまだ慣れていないが、自分に関する判断と国家に関する判断が別だということは掴み始めている。
その区別さえ分かっていれば、後は必要な時に説明すればいい。分からないことを理由に、本人を判断の外へ置く必要はなかった。
正式文書の説明を終えると、イェルシェリナは次に机の上の書簡へ目を向けた。権限を得たからといって、目の前の仕事が勝手に減るわけではない。
むしろ今まで保留にしていた案件へ、こちら側から正式な返答を作らなければならなくなった。全部を一人で抱えれば、数日も持たないことは明らかだった。
「役割ももう一度決めるわ」
「俺は情報だな」
ゼルディヴァンが先に口にし、イェルシェリナは頷いた。
「差出人の身元、組織の実在性、過去の交渉記録、至冠者なら戦歴。確定情報と推定は分けて。分からないことを分かった扱いにしないでほしい」
「それならいつも通りだ。相手の狙いまで断定はしない。書いてあることと、確認できる事実を分ける」
「助かるわ」
ゼルディヴァンの《群鏡演算》は、何もないところから答えを作る能力ではない。だからこそ、情報が足りない時に足りないと判断できることが強みになる。
外交では、分からない部分を勝手に好意的へ埋める方が危険だった。相手の意図を読んだつもりにならず、確認できる事実から条件を組み立てる役目は彼に向いている。
「俺は?」
「来訪、移動、施設、費用、警備、日程。実際にその提案を受けた場合、動かせるかどうかを見て」
「全部か」
「あなたが一番分かるでしょう」
「まあな」
ルシェルトは面倒そうに言いながらも、すでに別の文書を手に取っていた。招待に応じるなら移動経路が必要で、相手を呼ぶなら宿や会談場所が要る。
人数が増えれば警備と費用も増え、至冠者が関わるとなれば一般客と同じ扱いでは済まない。そうした問題は、条件書だけ読んでいても見えてこない。
「《道界標》で全部済ませるわけにもいかないしな。知らない場所には繋げられないし、使節全員を好き勝手に動かせる能力じゃない」
「そこは最初から当てにしすぎないで。必要なら普通の移動手段も組み合わせる」
「分かってる。むしろ人数が多いなら、馬車と宿の方が先だ」
その判断も早かった。ルシェルトは自分の真律を便利だからと万能扱いせず、使える範囲と使えない範囲を分けている。
イェルシェリナが必要としているのも、派手な解決ではなく、実際に成立する運用だった。相手が六大国だろうと、移動も宿泊も金も消えるわけではない。
「私は外交と契約。条件の整理、返答、権利関係、誰がどこまで責任を負うかを見る」
「一番多くない?」
リゼルヴェートに言われ、イェルシェリナは少しだけ眉を上げた。
「代表なんだから、それくらいはするわ」
「無理しないでね」
「そのために二人へ振ってるのよ」
「そっか」
心配されるとは思っていなかったが、悪い気はしなかった。仕事量が増えること自体は避けられない。それでも、全部を自分だけで抱えるつもりもなかったし、三人に任せられるところは任せる。
ノルシェリア派がここまで持ってきたのは、一人で何でもできたからではない。
「それで、リゼルヴェート」
「うん」
「あなたは本人にしか決められないことを決める」
「私にしか?」
「会うか。行くか。研究に協力するか。どこかと契約するか。至冠戦を受けるか。最終的に本人の意思が必要なところは、あなたが決めるの」
「書類を全部読まなくても?」
「全部読む必要はないわ。明らかな偽造や、実行不可能なものまで毎回見せたら、それだけで一日が終わるもの。ただし、可能性のある正式な提案を、私たちだけで勝手に消すこともしない」
「じゃあ、分かりやすくして教えて」
「そのつもりよ」
リゼルヴェートは安心したように頷いた。戦う場面なら誰より判断が速いのに、契約や外交では知らないことが多い。
それでも、知らないから決めさせないのではなく、必要な情報を分かる形へ整えればいい。そのために三人がいるのだと、イェルシェリナは改めて思った。
そこから実際の案件を使って、処理の流れを試すことになった。ゼルディヴァンが差出人の確認を行い、ルシェルトが来訪人数と日程を見て、イェルシェリナが契約条件を読む。
その上で、本人の意思が必要なものだけをリゼルヴェートへ回す。最初の数通を処理しただけでも、昨日より遥かに流れが見えやすくなった。
「これは研究機関。組織そのものは確認できる。過去にも至冠者への協力要請を出してる」
「来訪人数は六人。護衛を含むなら、ここには入らないな」
「測定内容が曖昧。結果の保管期間も書かれていない。そこは返答前に確認が必要ね」
「じゃあ今は決めなくていい?」
「ええ。質問を返して、条件が揃ってからでいいわ」
次の案件は商会からの面会希望だった。こちらは人数も少なく、内容も比較的単純だったが、提示されている場所が王都中心部の高級施設で、警備費まで相手持ちになっている。
好条件に見える一方で、面会内容を商会側が宣伝に使えるかどうかという一文が含まれていた。イェルシェリナはそこだけ切り離し、本人の了承なしに名前を利用しない条件を追加する必要があると判断した。
「こうやって一個ずつやるのか……」
「そうなるな」
「いっぱいあるね」
「まだ増えると思うぞ」
「えぇ……」
リゼルヴェートが机の上を見て声を落としたが、ゼルディヴァンもルシェルトも否定しなかった。第三十一位になった直後でこれなら、今後さらに接触が増える可能性は高い。今のうちに処理の形を作らなければ、本当に書類の山に埋まる。
何件か進めたところで、今度はルシェルトが書類から顔を上げた。さっきから拠点の入口と机の位置を何度か見比べていたが、ようやく何を気にしているのかイェルシェリナにも分かった。紙の上では処理方法を作れても、実際に相手が来れば、この場所そのものが足りない。
「なあ、正式な使節が来た場合って、何人くらい想定してる?」
「相手次第ね。代表一人だけということは少ないでしょう」
「護衛と随行員を入れたら、十人超えることも普通にあるよな」
「たぶん」
「無理だな」
ルシェルトの返答を聞いて、全員が一度拠点を見回した。今の部屋は四人で使うには困らないし、数人の来客なら何とかなる。
だが十人以上を正式に迎え、双方が座って書類を広げる余裕はない。入口も一つで、護衛を配置すれば通路まで塞がる。
「書類も増えるぞ」
ゼルディヴァンが棚を確認しながら続けた。
「今の棚じゃ、外交記録と機密文書を分けて保管できない。鍵付きも足りない」
「警備も問題ね。正式な国外使節が来るなら、誰でもそのまま入れる状態にはできない」
「待合場所もない。相手が早く着いたら立ってもらうことになるぞ」
「それはさすがにまずいね」
リゼルヴェートまで納得する程度には、問題が分かりやすかった。権限を得るところまでは王廷で決められても、その権限を実際に使う場所までは勝手に広くならない。
最弱派閥として使ってきた小さな拠点へ、第三十一位を巡る世界規模の案件だけが先に押し寄せている。
イェルシェリナは増えた書類、足りない棚、狭い入口を順番に見た。急に大きな建物へ移れば解決する話でもないし、今後どれだけ来客が続くかもまだ分からない。
必要なのは見栄ではなく、費用と利用頻度を考えた現実的な対応だった。そういう問題なら、自分より先に答えを出す人間がいる。
ルシェルトは机から離れると、拠点の入口、壁際の棚、空いている床を順番に確認した。何人まで入れるか、家具を動かせばどこまで空くかを頭の中で計っているらしく、しばらく黙ったまま狭い室内を見回している。
最後に積み上がった国外書簡へ視線を戻した時には、すでに次に処理すべき問題が決まっている顔だった。
「……まず、場所から考えないとな」




