第二章 2 『第三十一位の値段』
祝辞、外交、商業、研究、勧誘、至冠戦。机を埋めていた書簡を分類し直すと、最初はただ多いだけに見えた山が、少しずつ別の意味を持ち始めた。
イェルシェリナは封書の端へ簡単な印を付けながら、内容だけでなく、誰が何を求めているのかを一つずつ確認していく。第三十一位になったリゼルヴェートへ向けられているものは、祝いの言葉よりも、その先にある条件の方がずっと重かった。
「これは外交。こっちは商業。研究機関からの照会は一度まとめるわ。至冠戦申請は別にして」
「勧誘ってどれ?」
「これと、これ。それから一見すると研究協力だけど、実質的には所属まで求めてるものもあるわね」
「同じじゃないの?」
「書き方が違うだけで、最終的に何を求めているかは同じ場合があるのよ」
リゼルヴェートが首を傾げた横で、ゼルディヴァンは差出人ごとの情報を確認していた。国家機関を名乗っていても、その内部でどこまで決定権を持つ部署なのかまでは別問題になる。
ルシェルトも滞在条件や移動距離を見ながら、実際に受けられる提案かどうかを別に分け始めていた。書簡の内容を読むだけではなく、その後に必要となる現実まで見なければならない。
イェルシェリナが次に開いた書簡には、最初から具体的な金額が並んでいた。年間報酬、個人用住居、従者、移動費、装備費、任務ごとの追加手当まで用意するとある。
条件だけ見れば、この小王国で暮らすより遥かに豊かな生活を約束しているように見えた。
だが、末尾まで読めば、その待遇が何と交換されるのかも明確だった。
「これ、すごい額?」
「かなりね。少なくとも生活に困るような金額ではないわ」
「じゃあ、いい話?」
「報酬だけならね。問題はその後よ」
イェルシェリナは契約条件の一部へ指を置いた。一定期間の専属契約、国外任務への優先参加、同種組織との並行契約制限まで書かれている。
高い金を払う代わりに、第三十一位を自分たちの側へ縛る構造は分かりやすかった。条件そのものが違法だとまでは言えなくても、本人が理解せずに受けるには重すぎる。
「専属って、ずっと?」
「期間は決まってる。でも、その間に他から同じ種類の依頼を受けることは制限されるわ」
「じゃあ、私が別のところでも何かしたいって思っても?」
「内容によっては断ることになる」
「うーん……それは嫌かも」
「なら、その感覚は覚えておいた方がいいわ」
イェルシェリナは否定も誘導もせず、書簡を《本人確認必須》の束へ移した。リゼルヴェートが嫌だと思うなら、それは十分に意味のある判断材料になる。外交や契約の知識がないからといって、本人の意思まで軽く扱っていい理由にはならない。
必要なのは代わりに決めることではなく、何を選ぶことになるのか分かる状態へ整えることだった。
次に出てきたのは、金銭よりも地位を前面に出した勧誘だった。正式な爵位を用意し、一定の領地収入まで保証するとある。
さらに住居と身分保障まで付ける一方で、その爵位を受けた時点から当該国への一定の忠誠義務が発生する文面になっていた。名誉だけを与える話ではなく、所属そのものを変える提案だった。
「爵位って、そんな簡単にもらえるものなの?」
「普通は簡単じゃないわ。だからこそ条件として強いの」
「でも、もらったらその国の人になるの?」
「完全にそうなるとは限らないけど、少なくとも何の義務もない飾りでは済まないわね」
「なんか、どれも後ろにいっぱい付いてくるね」
「その後ろを見るのが大事なのよ」
リゼルヴェートは条件欄をもう一度読み返していた。豪華な言葉だけなら嬉しく見えても、受けた後に何が変わるのかまで考えれば、意味はまるで違ってくる。
そこを自分で確かめようとしているなら、イェルシェリナとしては十分だった。理解できない部分は説明すればいいし、判断まで代わる必要はない。
軍籍を提示する書簡はさらに直接的だった。特別階級、専用部隊、個人装備、訓練施設、十分な報酬を用意すると書かれている。
その代わり、所属後は軍の命令系統へ入ることが前提で、任務拒否に関する扱いはかなり狭い。第三十一位という力を、国家戦力として扱いたい意図が最も分かりやすい文書だった。
「これは保留じゃなくて、かなり慎重に見る必要があるわ」
「危ない?」
「危険というより、決定権が大きく移るの。今まで自分で決めていたことを、所属先の命令で動く形に変える契約だから」
「戦いたくない相手でも?」
「条項次第では、そうなる可能性があるわ」
「それは嫌」
返事は早かった。イェルシェリナはそこで改めてリゼルヴェートを見たが、迷っている様子はない。戦うこと自体を嫌がっているわけではなく、自分が戦う相手を他人に決められることを嫌っている。そこを混同しなければ、この少女の意思は分かりやすかった。
研究機関からの提案は、軍籍ほど露骨ではない代わりに曖昧さが多かった。専用研究棟、測定環境、生活費、研究協力金まで用意しながら、測定結果の利用範囲は機関側へ広く認める内容になっている。
《常世星桜》そのものへ強い関心を持っていることは明らかだが、どこまで記録し、誰へ共有するのかが不十分だった。研究に協力することと、自分の能力情報を無制限に渡すことは同じではない。
「ここは本人同意。ここは情報利用。これは退出条件……」
「分けるの?」
「分けるわ。一つの書類に全部入っていても、判断する時は別々に見るの」
「どう違うの?」
「研究に参加したいか。結果を誰まで見ていいか。途中でやめたくなった時にやめられるか。その三つは別の話でしょう」
「……確かに」
イェルシェリナは紙の余白へ簡単に項目を書き足した。本人が参加に同意しても、研究結果の利用まで無条件に認めたことにはならない。
契約を結んだからといって、永遠に退出できない仕組みにする必要もない。所属を認めることと、人生そのものの支配を渡すことも別だった。
リゼルヴェートを欲しがる側の文書には、その区別が意図的に曖昧なものも混ざっていた。第三十一位という戦力を確保することが先にあり、本人の自由や退出については後から調整すればいいという書き方になっている。
イェルシェリナには、その順序が最も気に入らなかった。強いから価値があるという評価と、強いから本人の権利を狭めていいという判断はまったく別のものだった。
「これなんか、本人同意がかなり薄いな」
ゼルディヴァンが一通を差し出してきた。内容を読むと、一定期間の滞在中は外部活動を制限し、その代わりに住居と研究環境を全面提供するとある。
文面上は保護と安全確保を理由にしているが、外出や他組織との接触まで管理できる余地が広い。イェルシェリナは最後まで読み、別の束へ置いた。
「これはそのまま受けないわ。本人同意の範囲が曖昧すぎる」
「断る?」
「条件を修正できるなら再検討。それができないなら断る」
「完全に切らないんだな」
「使える部分まで捨てる理由はないもの。ただし、相手の都合で本人の自由を削るなら話は別よ」
ゼルディヴァンはそれ以上何も言わず、次の書類へ移った。彼が見ているのは相手の情報と文面の矛盾であり、最終的な権利判断はイェルシェリナへ任せている。
その役割の切り分けは、普段の任務で互いの得意分野を使う時と変わらない。扱っている相手が魔獣から国家へ変わっただけで、四人の基本まで変える必要はなかった。
ルシェルトから回ってきた書類には、居住権と住居提供を中心とした提案が並んでいた。生活費や移動支援まで含めて厚遇されている一方、長期滞在中は国外移動に事前許可が必要とされている。
軍籍ほど強い拘束ではないが、居住を理由に行動範囲を管理する構造になっていた。別の形で囲い込もうとしていることに変わりはない。
「これ、家をくれるってこと?」
「正確には住む権利を与える、ね」
「いい家?」
「たぶんかなりいいところでしょうね」
「でも外に行く時は許可がいる?」
「この文面だとそう読めるわ」
「じゃあ、やっぱりいらないかも」
リゼルヴェートは残念そうに書類を置いた。豪華な家そのものには少し興味があったらしいが、自由に出られない条件まで付くなら話は別なのだろう。
その判断を聞いて、イェルシェリナは書面の横へ本人意向を書き添えた。後から相手と交渉するなら、どこが問題なのかを明確に伝えられる。
分類を続けるうち、机の上には新しい束が増えていった。《本人意思確認》《条件修正》《情報不足》《受諾困難》《至冠戦》《単純祝辞》。
最初は内容別に分けていただけだったものが、今では交渉上の扱いまで分かる形になっている。誰か一人が全部読むより、役割ごとに見た方が早く、抜けも少ない。
「結局、一番大事なのは何?」
リゼルヴェートが不意に聞いた。何枚も書類を見たせいで、最初よりは条件の違いが分かるようになっている。それでも金、爵位、軍籍、研究、住居と種類が多すぎて、何を基準に見ればいいのか迷っているのだろう。
イェルシェリナは手元の紙を閉じ、一度だけ整理してから答えた。
「あなたが本当に同意しているか。何に責任を負うのか。嫌になった時に出られるのか。どこへ所属するのか。その四つを混ぜないこと」
「四つ?」
「本人同意、契約責任、退出権、所属権。相手が一つの書類に全部まとめてきても、こっちは分けて考えるの」
「難しいけど……私が決めるところが消えないようにするってこと?」
「そう。それで十分よ」
リゼルヴェートの言葉に、イェルシェリナは小さく頷いた。専門用語を正確に覚えることより、その感覚を失わない方が重要だった。
第三十一位だから価値があると言われても、その価値のために本人の人生を勝手に切り分けられていいわけではない。
交渉とは、豪華な条件を受け取る作業ではなく、何を渡し、何を渡さないのかを決める作業でもある。
その時、拠点の入口から新しい文書が届けられた。国外からの書簡とは違い、封にはリュネヴァルト王廷の正式印がある。
宛先もリゼルヴェート個人だけではなく、ノルシェリア派代表であるイェルシェリナの名まで記されていた。差出人と形式を確認してから封を切ると、内容はこれまでの勧誘とはまるで違っていた。
「王廷から?」
「ええ」
「何て?」
イェルシェリナは最後まで読み、書面の意味を頭の中で整理した。国外からの接触が急増したことで、現在のままでは誰がどこまで返答できるのか曖昧になっている。
リゼルヴェート個人への提案、ノルシェリア派への契約、王国そのものに関わる外交案件を、今後どこで分けるのか。王廷として正式に協議したい、という通知だった。
「今後、あなたに関する対外交渉を誰が扱うのか、正式に決めたいそうよ」
「誰って……イェルシェリナじゃないの?」
「私たちだけで決めていい範囲と、王国全体で決める範囲は別なの。そこが今まで曖昧だった」
「じゃあ、それを決める?」
「ええ。たぶん、かなり重要な話になるわ」
今まではノルシェリア派の中でリゼルヴェートをどう守るかを考えればよかった。だが第三十一位になったことで、相手は六大国や各国組織へ広がっている。
個人への勧誘が国家関係へ発展する可能性もあり、至冠戦一つでも国外との調整が必要になる。小さな派閥の中だけで完結する規模ではなくなっていた。
それでも、王廷へすべて預ければいいとはイェルシェリナには思えなかった。リゼルヴェート本人の意思を最も近くで確認できるのは、自分たちだ。
国家として責任を負う部分は王廷が扱い、本人と派閥の問題はノルシェリア派が扱う。その境界をどう引くかによって、これから届く何百通もの意味が変わる。
「行くの?」
「もちろん。これは避けられないわ」
「私も?」
「必要なら来てもらう。でも最初に制度を詰める話なら、代表として私が出ることになるでしょうね」
「分かった」
リゼルヴェートは素直に頷いたが、イェルシェリナはもう次の段階を考えていた。王廷がリゼルヴェートを国家直属の戦力として扱いたいのか、それとも本人とノルシェリア派へ一定の裁量を認めるのか。
どちらを選ぶにしても、曖昧なままでは済まない。第三十一位という存在は、一つの小派閥だけで抱えるには、もう政治的に大きくなりすぎている。
机の上には、リゼルヴェートを欲しがる世界からの書簡が積み上がっていた。その横へ、新しく王廷からの正式通知が置かれる。
少し前まで国内で最弱と呼ばれていたノルシェリア派が、今度は一人の第三十一位を挟んで、国家と世界の間へ立つかもしれない。
イェルシェリナはその重みを、届いたどの金額や爵位よりも重い条件として受け止めていた。




