第一章 幕間 『第三十一位』
《序冠碑》の第三十一位から、一つの名前が消えた。石面を削ったわけでも、誰かが文字へ触れたわけでもない。
それまで確かに刻まれていた《レグシェリア・ヴァルディナ》の名が淡い光へほどけ、その場所へ新しい文字が浮かび上がっていく。
広間にいた神官と観測員たちが息を呑む中、セラフィネア・ルクシェリアは最後の一文字が定着するまで黙って碑を見ていた。
《第三十一位――リゼルヴェート・アルシェノア》
見覚えのない名前だった。ただし、完全に情報がないわけではない。数日前、長く至冠者を持たなかった小国で新たな《至冠印》が発現し、第五十一位へ登録されたという報告はセレフィア聖統国にも届いている。
そこに記されていた新規至冠者の名が、今、二十もの位置を飛び越えて第三十一位へ刻まれていた。
「第五十一位を確認してください。あわせて、直前まで第三十一位だった方も」
セラフィネアが告げると、近くにいた観測員たちがすぐに動いた。驚いている時間がないわけではないが、序列が動いたなら先に見るべきものがある。
誰かが上がったということは、少なくとも正式な《至冠戦》でその位置にいた者との勝敗が成立した可能性が高い。新しい名前だけを眺めていても、何が起きたのかは半分しか分からなかった。
「第五十一位、更新を確認しました」
観測員の一人が、少しだけ上ずった声で報告した。
「《レグシェリア・ヴァルディナ》です。第三十一位から第五十一位へ移動しています」
「では、順位交換ですね」
セラフィネアはもう一度、第三十一位の名を見た。レグシェリアについては知っている。ヴァルグレシア帝国所属の至冠者で、若く真面目な軍人という印象が強く、第三十一位という位置も偶然手にしたものではない。
少なくとも、新規登録された相手だからという理由だけで簡単に崩れる人物ではないはずだった。
だからこそ、見るべきなのは《第五十一位から第三十一位へ上がった》という数字だけではない。その間にいる十九人を順番に倒したのではなく、第三十一位だったレグシェリアへ勝ち、一度の順位交換でそこへ入った。
しかも登録からほとんど時間が経っていない。序列変動そのものは珍しくなくても、その経過まで含めれば話は変わってくる。
「リュネヴァルト小王国、でしたね」
「はい。六大国には属していません。これまで至冠者の登録記録もありません」
返答を聞きながら、セラフィネアは自分が知っている範囲でその国を思い返した。六大国の情勢を追う中で名前を見ることはあっても、至冠戦争の中心として扱われる国ではない。
軍事力でも国力でも、世界の大勢を一国で動かすような位置にはなく、少なくともこれまでは至冠者を一人も持たない側に分類されていた。
その国から、突然一人の至冠者が現れた。
しかも、現れた直後に第三十一位を倒した。
そこまで揃えば、さすがに偶然の一言で横へ置くことはできない。セラフィネア自身の名は、この《序冠碑》のさらに上、第三位へ刻まれている。
だからといって第三十一位を低い位置だと軽く見る気にはならず、むしろ世界に五十名前後しかいない至冠者の中で、その位置まで一戦で上がった事実の方が気になった。
「戦闘記録は届いていますか?」
「まだ詳細はありません。順位更新が先です」
「分かりました。推測で埋める必要はありません。確認できた事実だけをまとめてください」
観測員が一礼して離れていく。強かったから勝った、というところまでは間違っていなくても、どう強かったのかはまだ分からない。
速度なのか、火力なのか、真律の相性なのか、それとも複数の要素が重なった結果なのか。
情報がない以上、自分ならどうだと比較することにも意味はなかった。
今分かっているのは、リゼルヴェート・アルシェノアという新規至冠者が、レグシェリア・ヴァルディナとの正式な勝敗を成立させ、第三十一位へ上がったことだけだ。
それ以上を勝手に足せば、事実ではなく願望になる。セラフィネアはそういう混ぜ方を好まなかった。
「セフィラ?」
そこでようやく、傍らの少女が先ほどから一度も視線を動かしていないことに気づいた。序列変動そのものを珍しがっているようには見えず、第三十一位へ新しく刻まれた名前だけを長く見つめている。
普段なら順位が一つ二つ動いた程度で、ここまで一つの名前へ意識を留めるような反応はしない。その違いが気になり、セラフィネアも碑ではなく少女の横顔を見た。
「どうしました?」
返事はなかった。
聞こえていないとは思えない距離だったし、無視をするような関係でもない。それでもセフィラは視線を碑へ置いたまま、第三十一位の文字を追うように黙っていた。
何かを思い出そうとしているのか、それとも別のものを見ているのか、表情だけでは判断できない。
セラフィネアは急かさず数秒待った。長い付き合いだからこそ、黙る時に無理やり言葉を引き出しても意味がないことは知っている。
もっとも、曖昧なまま終わらせるつもりもなかった。相手が何かに気づいているなら、少なくとも何へ反応したのかくらいは確認したい。
「知っているの?」
今度は少しだけ問いを絞った。リゼルヴェート本人を知っているのか、という意味で聞いたつもりだったが、セフィラはそれにもすぐ答えなかった。
第三十一位の名を見たまま、ほんのわずかに視線を細める。その反応は、石碑へ刻まれた本人ではなく、その名前から別の何かへ意識を辿っているようにセラフィネアには見えた。
「リゼルヴェート・アルシェノアではない?」
問いを変えても、沈黙は続いた。
ならば何に反応しているのか。新規至冠者が現れたことなのか、リュネヴァルトという土地なのか、それとも報告にはまだ載っていない何かなのか。
候補はいくつも浮かぶが、どれも証拠がない以上、今ここで一つへ決めるべきではない。
セラフィネアは碑へ視線を戻し、第三十一位の名と、少し離れた第五十一位へ移ったレグシェリアの名を順番に確認した。
広間の中では、観測員たちが新しい序列を書き写し始めていた。明日になれば聖統国内の各所へ正式な更新が伝わり、リュネヴァルト小王国から現れた少女の名前も、今よりはるかに多くの者の目へ入るだろう。
けれどセラフィネアにとっては、順位の急上昇そのものとは別に、すぐ隣で黙り続けている少女の反応が引っかかっていた。
セフィラが何かに気づいている。
そこまでは分かる。
だが、それが何なのかは分からない。
問いを重ねようとセラフィネアが口を開きかけた時、長い沈黙の末に、ようやくセフィラの唇が動いた。
「……アシェラ」




