第一章 30 『雷が来る』
至冠者が一人、王都へ来る。それだけのはずなのに、朝から街の空気はまるで戦争前のように変わっていた。
普段なら商人の荷車や通行人で埋まっている大通りには王国兵が一定間隔で立ち、王城へ続く道の一部は通行そのものが止められている。
晴れた初秋の空の下で、街だけが妙に張り詰めているのがリゼルヴェートにも分かった。
ノルシェリア派の拠点を出た時から、いつもと違う場所はいくつもあった。屋台の並ぶ区画には兵士が誘導線を作り、王都外縁へ近づくにつれて民間人の姿が減っていく。
理由は聞いているものの、これほど大掛かりになるとは思っていなかったリゼルヴェートは、隣を歩くルシェルトへ何度目か分からない視線を向けた。
「本当に、一人来るだけなんだよね?」
「一人でも第三十一位だからな。しかも来る目的が観光じゃなくて正式な《至冠戦》だ」
「でも、まだ戦うのは今日じゃないんでしょ?」
「今日はな。それでも何かあった時に、準備してませんでしたじゃ済まない」
ルシェルトの言葉に、少し前を歩いていたイェルシェリナも振り返った。彼女の手には王国側から渡された今日の配置資料があり、到着後の導線から会場周辺の立入制限まで細かく記されている。
ゼルディヴァンも別の資料を見ながら歩いており、今朝からずっと戦う本人より周囲の方が忙しそうだった。
リゼルヴェート自身は、そこまで緊張していない。第三十一位という数字が第五十一位より上なのは分かっているし、レグシェリアが弱い相手ではないことも理解している。
それでも、まだ一度も会っていない相手を想像だけで必要以上に怖がっても仕方がなく、実際に戦うならその時に見ればいいと思っていた。
「……澪桜だけ、遠足みたいな顔」
隣を歩いていたアシェラが淡々と言い、リゼルヴェートは思わずそちらを見た。
「遠足じゃないよ!」
「……緊張感が薄い」
「ちゃんとあるよ。ちょっとだけ」
「……ちょっと」
「だって、まだ会ってもないのにずっと怖い顔しててもしょうがなくない?」
アシェラは否定も肯定もせず、いつもの無表情で前へ向き直った。その反応だけなら会話を終えたように見えるのに、少し間を置いてから「……澪桜らしい」とだけ付け足す。
褒められたのか呆れられたのか分からず、リゼルヴェートは結局そのまま歩くことにした。
王都外縁に設けられた至冠戦用の会場へ到着すると、街中以上に空気が違っていた。広い敷地の周囲には普段の訓練施設より厚い防壁が増設され、その外側にもさらに兵士が配置されている。
観戦用の場所らしい区画まであるものの、今日は関係者以外立入禁止になっており、整備中の観測設備だけが規則正しく並んでいた。
「これ、全部私たちのため?」
「正確には至冠者同士が戦うためだ」
ゼルディヴァンが答えながら、会場中央と防壁までの距離を目で追っていく。戦闘域はかなり広く取られており、通常の模擬戦で使う区画とは明らかに規模が違う。
さらにその外へ退避路まで用意されているのを見て、リゼルヴェートもようやく自分とレグシェリアの戦いが普通の試合とは扱われていないのだと実感し始めた。
「集落の時より準備してるね」
「今回は事前に分かってるからな」
ルシェルトは周囲を見回しながら、退避路と物資置き場の位置を確認していた。突然襲撃された集落では、その場にある道と人員でどうにかするしかなかったが、今回は戦う日時も場所もある程度決められる。
それなら最初から人を遠ざけ、防壁を置き、万が一戦闘域が広がっても巻き込まれないようにする方がいいのだろう。
少し離れた場所では、王国兵を指揮していたガルヴェインが何人かへ指示を出していた。その近くにはエリゼナの姿もあり、追加防壁の配置と兵士の退避位置を確認している。
こちらに気づいたエリゼナが歩み寄ってくると、リゼルヴェートの顔を見た途端、わずかに眉を寄せた。
「……思ったより普通の顔してるのね」
「みんな同じこと言うんだけど」
「第三十一位が来るのよ」
「知ってるよ?」
「その返事がもう普通すぎるのよ」
エリゼナは呆れたように息を吐いたが、責めるつもりではないらしい。そのままリゼルヴェートの後ろにいる三人へ視線を移し、準備状況を共有し始めた。
周辺住民の退避はほぼ完了し、会場の防壁確認も残り僅かで、あとは帝国側の到着後に細かな条件を詰める段階まで進んでいるという。
ガルヴェインも指示を終えると、こちらへ歩いてきた。普段より周囲へ向ける視線が鋭く、戦闘そのものだけでなく、王都全体へ何か起きないかを警戒しているように見える。
リゼルヴェートが挨拶すると、ガルヴェインは短く返したあと、会場中央へ視線を向けた。
「今日ここで始めることはない。帝国側が到着したら条件を確認し、正式な戦闘日は王国側と双方で決める」
「はい」
「だから今日のところは、相手を見ておけ。どんな奴か知るだけでも違う」
「分かりました」
ガルヴェインの説明は簡潔だったが、リゼルヴェートにはそのくらいで十分だった。今すぐ戦わないなら、まず会ってみればいい。第三十一位という数字だけでは分からないことも、本人を見れば少しは分かるかもしれない。
ゼルディヴァンはその横で、帝国使節団が通る予定の経路を確認していた。イェルシェリナは王国側の受け入れ条件を読み直し、ルシェルトは到着後にノルシェリア派がどこまで同行するかを兵士と話している。
戦うのはリゼルヴェート一人だが、その一戦を成立させるまでに必要な仕事は思っていた以上に多かった。
「みんな大変そう」
「……澪桜のせい」
アシェラの一言に、リゼルヴェートは即座に振り返った。
「私だけのせいじゃないよ!」
「……半分くらい」
「半分もある?」
「第五十一位になった」
「それは勝手になったんだよ」
「……強かったから」
「それは……そうかもしれないけど」
言い返しきれずに口を閉じると、近くで聞いていたルシェルトが笑いを堪えていた。リゼルヴェートがじっと見ると、すぐ真面目な顔を作るものの遅い。緊張していた周囲と違い、ノルシェリア派の中だけは少し普段の空気が戻っていた。
昼を過ぎる頃には、会場側の準備はほとんど終わった。帝国使節団が王都へ到着する予定時刻も近づき、リゼルヴェートたちは会場ではなく、王都外縁の受け入れ地点へ移動する。
空は朝から変わらず澄んでおり、薄い雲が遠くに浮かぶだけで雷雨の気配などどこにもなかった。
それなのに、受け入れ地点へ着いてしばらくした頃、リゼルヴェートは微かな違和感に足を止めた。耳に雷鳴が聞こえたわけではないし、空が暗くなったわけでもない。
ただ、少し離れた街道の先から、肌を細く撫でるような刺激が断続的に伝わってくる。
「……何か来る」
隣にいたイェルシェリナがリゼルヴェートを見る。
「使節団じゃなくて?」
「それも来てると思う。でも、なんか……ぴりぴりする」
戦闘が始まったわけではない。それでも身体の方が先に反応していた。危険だから避けたいという感覚ではなく、強い何かが近づいている時に自然と意識がそちらへ向くような感覚で、リゼルヴェートは街道の先から目を離せなくなった。
やがて帝国の旗が見え、その下から整然と進む使節団の姿が現れた。先導する兵士、その後ろに続く護衛たちのさらに前方寄りに、一人の少女がいる。青黒紫の髪を高い位置でまとめ、白い高襟と黒紫の短丈軍装に身を包んだ姿は、遠目でも周囲の兵士とは明らかに違って見えた。
そして、その少女が一歩進むたび、足元を微弱な青銀の光が走っていた。
晴天の下だった。
空には雷雲などない。
それでも石畳の上では、細い雷が彼女の足元を這うように現れては消えている。自然現象ではないことくらい、リゼルヴェートにも説明されなくても分かった。
「……あの人?」
誰へともなく漏らすと、ゼルディヴァンが資料と接近してくる少女を見比べた。
「レグシェリア・ヴァルディナ。第三十一位」
名前を聞いた瞬間、リゼルヴェートの意識が完全に一人へ絞られた。相手もこちらへ気づいたらしく、使節団の先で足を止めることなく顔を上げる。
青紫の瞳がまっすぐこちらへ向き、その視線には戸惑いも軽視もなく、ただ戦う相手を確認するような鋭さだけがあった。
リゼルヴェートも目を逸らさなかった。第五十一位と第三十一位――まだ一度も刃を交えていない二人の《至冠者》は、晴れた王都の入口で初めて直接互いの姿を捉え、そのまま静かに視線を重ねた。




