第一章 26 『ノルシェリア所属』
昨日までなら、王国中枢の誰も気に留めなかったはずの一行を、今日は国王、宰相、軍総司令、それに中央官僚までが何度も確認していた。
《所属――ノルシェリア派》。
イェルシェリナの前へ置かれた正式登録書には、リゼルヴェート・アルシェノアの名と並んで、その文字がはっきり記されている。たったそれだけなら書類一枚で済みそうな話なのに、机の上へ積み上がっている関連文書はすでに十枚を超えていた。
「所属欄そのものは、これで問題ありません」
リュシェリアが確認済みの書類を一枚横へ移し、次の文書を開いた。
「次は王家との保護協定です。通常の派閥所属者とは扱いが異なるため、リゼルヴェートさん個人への身分保証と、ノルシェリア派に対する国家支援を分けて記載しています」
「その分け方でいいわ。混ぜると、あとで派閥への支援を本人への権利みたいに解釈されかねないもの」
イェルシェリナが条文へ目を走らせる横で、リゼルヴェートは自分の登録書を覗き込んでいた。
「これが終わったら、正式にノルシェリア派になるんだよね?」
「ええ。昨日はあなたが残るって決めて、王国がそれを認めた段階。今日はそれを制度の上でも確定させるの」
「じゃあ、今日から本当に四人?」
「そこだけ聞くと、ずいぶん簡単な話に聞こえるわね」
実際には、リゼルヴェート一人が加わるだけで処理しなければならないことが多すぎる。
通常の所属登録だけなら、代表の承認と本人の署名で終わる。だが今回加わるのは、建国以来初の《至冠者》だ。国外から正式照会まで届き始めている以上、活動中の警護、国外組織との接触、王国施設の利用、国家から要請が出た場合の手順まで決めておかなければならない。
だからといって、必要以上の権限を王国側へ渡すつもりもなかった。
「活動範囲について確認します」
エルグレディオが別の文書を開いた。
「国内での通常活動については、ノルシェリア派の既存権限を基準とする。ただし、国家安全保障上の重要地域へ立ち入る場合は事前申請を必要とする。国外へ移動する場合は王廷への届け出を義務化。ここまでは?」
「問題ないわ」
「国外勢力との正式交渉については、王廷へ事前通知。国家間条約、軍事協定、領土、王国全体へ義務を発生させる約束については、本人およびノルシェリア派だけで締結できないものとする」
「それも当然ね。私たちに王国全体を勝手に代表する権限はないもの」
逆に、そこを拒む理由はなかった。
リゼルヴェートが強いからといって、ノルシェリア派が突然国家そのものになるわけではない。彼女が国外から誘われたり、面会を求められたりした時に本人の意思を守ることと、王国全体へ影響する条約を勝手に結べることはまるで別の話だった。
イェルシェリナが気にしているのは、その境界だった。
「この次ね」
指先で条文を押さえる。
「《王国は、リゼルヴェート・アルシェノアの真律、戦闘能力その他本人に属する能力について、所属または保護を理由とする所有権を主張しない》」
読み上げると、ガルヴェインが腕を組んだまま眉を上げた。
「そこまで書く必要があるか?」
「あるわ」
「誰も本人を物扱いするとは言ってない」
「今ここにいる人たちが言わなくても、文書はあとに残るのよ」
イェルシェリナはガルヴェインから条文へ視線を戻した。
「今の国王陛下も、宰相も、あなたも、本人を所有物にしないつもりなのは分かってる。でも十年後、二十年後に別の人間がこの協定を読んだ時、《国家が保護している至冠者だから、その力も国家資産だ》なんて解釈を始めない保証はないでしょう?」
「随分先まで疑うな」
「契約ってそういうものでしょう。今の善意だけで穴を残したら、あとで困るのは当事者よ」
ガルヴェインは何か言い返しかけたが、アルヴェディオが先に文面を確認した。
「残して構わない。私も昨日まで、本人の力は王家の所有物ではないと明言している。文書にして困る内容ではない」
「ありがとうございます」
そのまま次の条項へ進む。
「それから離脱権」
リゼルヴェートが顔を上げた。
「離脱?」
「ノルシェリア派を辞めたいと思った時に、辞められる権利よ」
「今、入る手続きしてるのに?」
「入ったら一生出られません、なんて契約の方が嫌でしょう?」
「それは嫌かも」
「でしょう?」
リゼルヴェートが素直に頷き、ルシェルトが横から書面を覗き込む。
「本人の意思による離脱を認める。ただし、保護協定と国外対応の切り替えに必要な期間は王国と協議する、か。いきなり今日辞めます、明日から国も何も知りません、にはしないってことだな」
「そう。離脱できることと、その瞬間に責任関係を全部消せることは別よ」
ゼルディヴァンも文面へ目を通し、条件同士の矛盾がないかを確認している。本人意思を優先しても、国家側の警護や対外窓口まで一瞬で消せば別の問題が生まれる。だから必要なのは、辞められない拘束ではなく、辞める場合の手順だった。
「では、この条文で確定します」
リュシェリアが修正版へ印をつけた。
その後も、施設利用、警護要請、緊急連絡、国外照会の受領経路、王国軍との共同任務時に誰が何を決めるのかを順番に詰めていく。
話が戦闘へ寄ればガルヴェインが条件を確認し、行政手続きへ寄ればエルグレディオとリュシェリアが修正を入れ、本人意思に関わるところではセレヴィナも文面を確認した。
時間はかかったが、必要な手間だった。
最後に残ったのは、成立させた約束をどう残すかだった。
イェルシェリナは完成した協定書を自分の前へ引き寄せた。
「リゼルヴェート。最後にもう一度確認するわ」
「うん」
「ノルシェリア派へ所属すること。王国から保護と必要な支援を受けること。国外との正式交渉では王廷へ連絡すること。王国全体へ義務を負わせる約束を、あなた一人や私たちだけでは結ばないこと」
一つずつ、紙に書かれた内容と本人が聞いている内容を合わせていく。
「その代わり、王国はあなた自身や《常世星桜》を所有物として扱わない。ノルシェリア派も同じ。あなたが辞めたいと思った時には、必要な引き継ぎをした上で離脱できる。ここまで全部、自分の意思で同意する?」
「うん。大丈夫」
「本当に?」
「昨日からいっぱい説明してもらったし、自分でここにいたいって決めたから」
答えに迷いは見えなかった。
イェルシェリナはアルヴェディオへ視線を向ける。
「陛下。王国側も、この内容で?」
「ああ。王家として同意する」
「王廷側も異議ありません」
エルグレディオが続き、ガルヴェインも軍に関わる条件について了承を示した。
全員の意思が揃ったところで、イェルシェリナは《誓環律》を働かせた。
派手な光は起こらない。
書面そのものが別の何かへ変わるわけでもない。
ただ、互いに確認し、自分の意思で受け入れた約束が、イェルシェリナには明確な条件のまとまりとして認識できるようになる。
誰が何を約束したか。
どこまでが権利で、どこからが責任か。
どんな場合に変更が必要で、どこに同意が要るのか。
口頭だけなら曖昧になり得る境界が、合意した内容として整理されていく。
「……成立したわ」
リゼルヴェートが書類とイェルシェリナを交互に見た。
「これが《誓環律》?」
「そう。約束そのものを無理やり守らせる能力じゃないわ。お互いに合意した内容を、条件と責任が分かる形で扱えるようにするの」
「破ったら動けなくなったり?」
「ならない」
「雷が落ちたり?」
「落ちない」
「よかった」
「何を想像してたのよ……」
ルシェルトが笑いを堪え、ゼルディヴァンは「説明してなかったなら、そのくらい想像する可能性はある」と妙に冷静な補足を入れた。アシェラは興味があるのかないのか分からない顔で、リゼルヴェートの隣から一連の手続きを眺めている。
リュシェリアが最後の署名位置を確認し、まずリゼルヴェートへ文書を差し出した。
「こちらへお願いします」
「はい」
リゼルヴェートが自分の名を書き、その次にイェルシェリナが代表として署名する。王国側の承認も順に加えられ、最後の確認印が押された時点で、机上に置かれていた書類はもう案ではなくなった。
リゼルヴェート・アルシェノア。
《至冠者》。
《至冠序列》第五十一位。
正式所属――ノルシェリア派。
昨日までなら、国の中枢でまともに取り上げられることすら少なかった名前の横へ、建国史上初の《至冠者》が正式に並んだ。
イェルシェリナ自身、その組み合わせがどれだけ異例なのかは分かっている。
予算も少ない。
専用施設もない。
軍事力も乏しい。
中央での発言権だって、昨日までなら限られていた。
そんな国内最弱派閥を、リゼルヴェート本人が選んだ。
だからこそ、ここから先は《最弱だから仕方がない》では済まなくなる。
文書確認を終えたガルヴェインが席を立ち、退出する前にイェルシェリナの前で足を止めた。
「俺は今でも、軍に入れた方が安全だと思ってる」
「知ってるわ」
「だが本人が選んで、国王陛下も認めた。ならもう所属そのものに文句を言う気はない」
そこで一度、彼は正式文書へ視線を落とした。
「選んだ以上は、守り切れ」
イェルシェリナはすぐには返さず、机の上に確定した所属書類を見た。
それはリゼルヴェート一人を抱え込む権利を得た証明ではない。彼女自身がここを選んだ結果として、ノルシェリア派にも相応の責任が生まれたことを示す文書だった。
建国史上初の《至冠者》が国内最弱派閥へ正式所属したその日、ノルシェリア派は初めて、選ばれた側として背負う責任を明文化された形で受け取ることになった。




