第一章 23 『最弱派閥が持つもの』
昨日までなら扉の前で用件だけ告げて帰っていた商人が、今朝は両手いっぱいの資料を抱え、これでもかというほど愛想のいい笑顔でノルシェリア派の拠点を訪ねてきた。
しかも一人ではない。最初の商人を帰した頃には別の業者が入口で待っており、その後ろには見覚えのない商会の使いまで立っている。普段なら半日あっても誰か一人来れば多い場所だけに、応対へ出たルシェルトは三組目を見送った時点で、今日一日まともに別の仕事をするのは諦めた。
「急に人気者になったな、うち」
机へ新しい書類束を置くと、ゼルディヴァンが内容を確認しながら首を横へ振った。
「ノルシェリア派が人気になったわけじゃない」
「分かってる。だから余計に面倒なんだよ」
積み上がっているのは、施設提供、物資供給、輸送契約、情報交換、商取引の優先枠といった提案書ばかりだった。昨日まで存在しなかった種類の話ではないものの、これまでノルシェリア派へ持ち込まれることはほとんどなかった条件が、今朝になって突然こちらを向いている。
理由を考える必要はなかった。
リゼルヴェート・アルシェノア。
建国以来初の《至冠者》。
《至冠序列》第五十一位。
その名前が《序冠碑》へ刻まれた途端、今まで相手にされなかった三人の派閥へ、人も金も情報も集まり始めた。
「さっきの人、すごく親切だったね」
リゼルヴェートが素直に感想を口にすると、ルシェルトは机へ座る前に次の書類を一枚抜き取った。
「昨日から急に親切になった、ってところまで入れるならな」
「やっぱりそこ気になる?」
「気になる。商売してる奴が利益を考えるのは普通だけど、昨日まで断ってた条件を今日になって倍で出してきたら、何が変わったのかは見るだろ」
別に、態度を変えた相手を全員悪人だと思っているわけではない。商人は利益の出る方へ動くし、将来価値があると判断した相手へ早めに近づくことも珍しくない。それ自体は商売として自然だと、金と物資を担当してきたルシェルトにはよく分かっている。
だからこそ、笑顔になったという事実だけでは信用しない。
提示された価格、契約期間、解約条件、優先権、情報の取り扱い。昨日までこちらに無関心だった相手ほど、その全部を先に見る必要があった。
「これは無しだな」
「どれ?」
リゼルヴェートが隣から覗き込み、ルシェルトは紙面の下部を指した。
「最初の三か月は安い。でもその後の更新条件が高い。しかも優先供給の代わりに、他の業者から同じ物を買えなくなる」
「……最初だけ安いってこと?」
「そう。今なら助かるように見えるけど、長く使うほど向こうが強くなる契約だ」
「難しい……」
「全部覚えなくていいよ。こういうのを見るのが俺の仕事だから」
それでもリゼルヴェートは書類から目を逸らさず、分かるところだけでも読もうとしていた。自分の名前が理由で増えた話なら、自分も知っておきたいのだろう。
そういうところは相変わらず素直で、だからこそ余計な契約を本人の前へそのまま通す気にもなれなかった。
少し離れた席では、イェルシェリナが別の提案書を確認している。ゼルディヴァンは条件を種類別に分け、アシェラは窓際でいつものように静かに座っていた。
朝から持ち込まれた提案の半分ほどを整理した頃、また扉が叩かれた。
今度はルシェルトも、開ける前から少し身構えた。ところが外にいたのは豪華な服を着た商会の使者ではなく、見慣れた小さな店の主人だった。
「朝から忙しそうだな」
「見てたなら後でもよかっただろ」
「昨日頼まれてた紙束。なくなりそうだって言ってただろうが」
差し出されたのは、いつも使っている安価な事務用紙だった。新しい契約書でも贈答品でもなく、頼んでいた分を届けに来ただけらしい。
「値段、前と同じ?」
「当たり前だろ。急に値上げする理由がどこにある」
「今なら高くしても払えると思われてるかもしれないぞ」
「払えるようになってから言え」
店主はそれだけ言うと、いつもの代金を書いた紙を渡して帰っていった。
ルシェルトは閉じた扉をしばらく見たあと、手元の伝票を新規提案の山とは別の場所へ置いた。今朝初めて、昨日までと何も変わらない取引だった。
その後も、同じような相手が何人か顔を出した。以前から少量の食料を回してくれていた店。急な移動が必要な時に荷車を空けてくれた業者。金にならない小口の話でも、条件さえ合えば聞いてくれていた商人。
誰も大口の支援を申し出たりはしない。
王城と繋いでやるとも言わない。
ただ、頼んでいた物を持ってきて、いつもの値段を確認し、最近忙しそうだなと少し話して帰っていく。
派手さはなかったが、ルシェルトにはそちらの方がずっと扱いやすかった。
「……俺たち、何も持ってなかったわけじゃないんだよな」
書類を整理しながら漏らすと、ゼルディヴァンが鏡から目を上げた。
「急にどうした?」
「いや。予算も施設も発言権も、数字にすると笑えるくらい少ないだろ。昨日の資料見てたら、本当に何もない派閥みたいに見えてきたからさ」
実際、金はない。
大きな建物もない。
兵士もいない。
中央へ顔を出したところで、優先して話を聞いてもらえる立場でもなかった。
それでも十二年続いてきた派閥が、完全な空っぽだったわけではない。
大きな契約を結んでくれる商会はいなくても、困った時に少量なら融通してくれる店はあった。安い依頼でも約束を守ってきたから、次も話を聞いてくれる相手がいた。表立って支持してくれる者はいなくても、中央の資料に妙なところがあれば教えてくれる人間もいた。
どれも国を動かすほどの力ではない。
だが、三人で何年も動いてきた中で、一つずつ積み上がった関係だった。
「それ、なくならない方がいいね」
リゼルヴェートが言うと、ルシェルトはそちらを見た。
「新しい人が来るのは嬉しいけど、前から知ってる人まで変わっちゃったら、ちょっと寂しいかも」
「まあな。新しく来た奴を全部追い返す必要もないけど、昨日まで付き合ってくれたところを忘れる理由もない」
「だったら両方大事にすればいいんじゃない?」
「簡単に言うなあ」
そう返しながらも、たぶん方向としては間違っていない。金が増えたから昔の取引先を切る必要もなければ、昔から知っているというだけで条件の悪い相手を優先する必要もない。
人付き合いも物流も、全部同じだった。
増えたものを使いながら、今まで積み上げたものを捨てない。その調整をするのが自分の役目だと考えれば、急に増えた書類の山も少しだけ意味が変わって見えた。
昼を過ぎる頃には訪問者もようやく減り、机の上には採用候補、保留、却下の三つに分けた資料が残った。イェルシェリナが最終審議へ持ち込む条件を確認し、ゼルディヴァンが矛盾のある提案を弾き、ルシェルトが実際に使える業者だけを残していく。
その整理が終わりかけた頃、再び入口で音がした。
今度の訪問者は商人ではなく、公的な使送だった。
手渡された封筒は、それまで机へ積まれていた提案書とは紙質から違っていた。厚手の封蝋が施され、宛先にはノルシェリア派代表と、リゼルヴェート・アルシェノアの名が並んでいる。
「国外から?」
イェルシェリナの声に、使送が短く肯定した。
正式な照会。
内容は開封後に確認する必要があるが、少なくとも商会からの売り込みではない。国外の公的組織から、王国を通して正式な形で届けられた文書だった。
リゼルヴェートが《至冠者》になってから、いつかは来ると考えていた。
ただ、思っていたより早い。
使送が退出したあと、ルシェルトは封筒を机の中央へ置いた。触れる必要もなく、それが今朝から届いていたどの紙束より重い意味を持っていることは分かる。
封蝋の中央には、リュネヴァルトのものではない紋章が刻まれていた。
王都の商人たちが態度を変え始めたばかりの朝から半日も経たないうちに、リゼルヴェートの名はすでに国内だけでは収まらなくなっている。その事実を示すように、閉じられた封筒には六大国の一角が用いる紋章が、はっきりと刻まれていた。




