第一章 21 『どこにいたい?』
好きなところを選べばいいと言われたはずなのに、リゼルヴェートの前へ並べられた選択肢は、どれも自分一人の話では終わっていなかった。
王家直属、王廷保護、王国軍への所属、それからイェルシェリナたちと行動を続けながら国の支援を受ける案まで、紙の上には住む場所や警護だけではなく、外交や国家の責任といった言葉まで並んでいる。
自分がどこで暮らし、誰と一緒に過ごすかを決めるだけだと思っていた。ところが《至冠者》になった今では、その答え一つが王国の方針にまで関わるらしい。
左手の甲に残る《至冠印》へ目を落とすたび、自分自身は何も変わっていないつもりなのに、周囲だけが急にずっと遠くまで動き始めたような感覚があった。
「……これ、やっぱり全部から選ぶんですよね?」
机上の文書を見比べながら尋ねると、向かい側に座るガルヴェインが頷いた。
「ああ。少なくとも軍から出している案については、俺から直接説明する」
「お願いします」
王国軍総司令を前にしていると思えば、さすがにイェルシェリナたちと話す時とまったく同じ調子にはならない。それでも、必要以上に堅苦しくしてしまえば内容まで頭へ入らなくなりそうで、リゼルヴェートは普段の話し方を残しながら軍編入案へ視線を戻した。
ガルヴェインは細かな条文を一つずつ読み上げるのではなく、軍へ入ることで何が変わるのかを、リゼルヴェートにも分かる言葉へ置き換えて説明した。
「一番分かりやすいのは訓練環境だ。お前の力が強いことは、もう疑いようがない。だが、自分でもまだ把握できていない部分があるんだろう」
「あります。かなり弱くしたつもりでも、訓練用の標的を貫いちゃったので」
「聞いてる。だから、壊しても問題の出にくい場所、十分な距離、周囲を閉鎖する人員、記録を取る者が必要になる。軍ならそれをまとめて用意できる」
その説明はリゼルヴェートにも納得しやすかった。王国軍の訓練施設で一枚の花弁だけを使った時も、自分ではかなり抑えたつもりだったのに、強化された標的をあっさり貫通し、その先の安全壁まで浅く傷つけている。
あの時は途中で軌道を上へ変えられたから大事にはならなかったが、普通の広場や街中で同じ確認を繰り返すわけにはいかない。どこまで抑えればどれくらいの威力になるのか、自分自身でもまだ分からない以上、安全に試せる場所があるのは確かに助かる。
「それと護衛だ」
「護衛……ですか? 私、自分のことならたぶん守れますよ?」
「だろうな」
あまりにも迷いなく返され、リゼルヴェートは少しだけ目を丸くした。
「そこは否定しないんですね」
「昨日の報告を読んだあとで否定したら、俺の方が現実を見ていない。大型魔獣を倒しながら集落全体を守った人間に、一般兵が前へ立てば安心だなんて話をするつもりはない」
ガルヴェインの言う護衛は、リゼルヴェートが最初に思い浮かべたものとは少し違っていた。移動先を先に確認し、人が集まりすぎれば整理し、見知らぬ相手が勝手に近づかないようにする。
襲われた時に戦うだけではなく、その前後まで含めて余計な問題へ巻き込まれないようにする仕事も護衛に含まれるらしい。
「……それなら、少し分かる気がします」
「戦闘環境も同じだ。お前が強いから全部一人でやれ、じゃ軍じゃない。敵の情報を集める者、住民を避難させる者、道を確保する者、戦闘後を処理する者がいる。お前が戦闘を担当するなら、周りはそれ以外を受け持つ」
その言葉を聞くと、集落で起きたことが自然と思い返された。
大型魔獣を倒すだけなら、自分一人でもできたと思う。けれど実際には、崩れかけた建物も、逃げる住民も、別の場所から迫る魔獣もいた。
イェルシェリナが人と兵士の動きを整理し、ゼルディヴァンが危険な場所を拾い、ルシェルトが避難するための道を確保してくれたからこそ、リゼルヴェートも力をどこへ広げればいいのか迷わずに済んだ。
軍へ入るというのは、そうした仕組みをもっと大きな規模で用意してもらえるということなのだろう。
「でも、その代わり軍人になるんですよね?」
「ああ。軍の設備も人員も使う。必要な情報も受け取る。なら、命令だけ全部断るというわけにはいかん」
「そこはちゃんとあるんですね」
「当然だ。ただし、お前が《至冠者》だから何でも命令できるような案にもしていない。俺は軍へ入るのが一番いいと思ってる。それは変わらんが、都合のいい部分だけ話して署名させるつもりもない」
軍へ入れば得られるものは多いが、その分だけ引き受けるものも増える。ガルヴェインはその両方を隠さず話しているように見えたし、少なくとも強いから欲しいという理由だけで誘っているわけではなさそうだった。
「思ってたより、ちゃんと考えてくれてるんですね」
「思ってたより、は余計だ」
「あ……ごめんなさい」
反射的に謝ると、少し離れた席にいるイェルシェリナの口元が僅かに緩んだように見えた。
彼女は軍編入の説明へほとんど口を挟んでいない。リゼルヴェート本人が聞いて、自分で判断できるように待っているのだろう。
軍へ行くなとも、ノルシェリア派に残れとも言わず、必要な時だけ条件を確かめる姿勢は、これまでと変わらなかった。
アシェラも同じだった。少し離れた椅子へ座り、いつもの無表情に近い顔でこちらを見ている。
「アシェラは、どれがいいと思う?」
「……澪桜が決める」
「やっぱりそう言うよね」
「……分かってたなら、聞かなくていい」
「聞きたくなる時もあるの」
それ以上の答えは返ってこなかったが、何も変わらないアシェラの態度に、リゼルヴェートは少しだけ気持ちが軽くなった。
ガルヴェインから一通り説明を聞いたあと、今度はアルヴェディオが向かいへ座った。初めて会った時と同じく、国王だから従えと迫るような雰囲気はなく、机に並ぶ案を一度見てからリゼルヴェートへ視線を向ける。
「軍の説明は聞いたようだな」
「はい。思ってたより……あ、ちゃんと良いところもありました」
「今、言い直したな」
「さっき怒られたので」
「ガルヴェインはあれで、自分の役割については真面目だ」
「王様が『あれで』って言っていいんですか?」
「本人の前では言わない方がいいかもしれんな」
アルヴェディオの口元が僅かに緩み、そのおかげでリゼルヴェートも少しだけ肩の力を抜けた。
「私が王家の保護を提案した理由も、根本は似ている。君の力を取り上げたいからではない。《至冠者》になったことで、君自身が望まなくても多くの相手から注目されるようになったからだ」
「六大国も、ですか?」
「可能性は高い。ただ、今すぐどこがどう動くと決めつける段階ではない。重要なのは、何かが起きてから考え始めるには君の立場が大きすぎるということだ」
リゼルヴェート自身には、昨日までと何かが変わったという感覚がほとんどない。《至冠印》が左手に現れ、《至冠序列》第五十一位という数字を知っただけなのに、王国側の人たちはそれを大きな変化として受け止めている。
自分の中身ではなく、周囲から見た自分の意味が変わった。その違いを、リゼルヴェートはようやく少しずつ理解し始めていた。
「王家の保護下へ入れば、身分も住む場所も王国が保証する。国外から話が来た場合も、まず王家が窓口になれる。君が一人で全て判断する必要はなくなる」
「その代わり、会う人とかも王家が決めることがあるんですよね?」
「ある。安全を増やす代わりに、自由になる部分ばかりではない」
「そこも隠さないんですね」
「隠して選ばせても意味がない。どこまでなら預けてもいいと思えるのか、それも含めて君が決めることだ」
「王様なのに、そこまで私に決めさせていいんですか?」
「王だからこそだ。国の都合だけで一人の意思を消していいなら、それは保護とは呼べん」
軍には軍の理由があり、王家には王家の理由がある。どちらも嘘ではなく、どちらもリゼルヴェートを困らせるための話ではないからこそ、簡単には決められなかった。
国にとって何が一番いいのかと聞かれても、まだ分からない。王家と軍のどちらが正しいのかも判断できないし、そもそも国全体のことを考えるには、この世界について知らないことが多すぎる。
そんなリゼルヴェートへ、アルヴェディオの隣に座っていたセレヴィナが静かに視線を向けた。
「リゼルヴェート、一つだけ聞いてもいい?」
「はい」
「王国にとって何がいいか、軍が何を用意できるか、王家が何を心配しているか。そういう話は、もうたくさん聞いたでしょう?」
「聞きました。いっぱい」
思わず正直に返すと、セレヴィナの表情が少しだけ和らいだ。
「だったら最後に、それとは別のことも考えてほしいの」
そこで向けられた問いは、机の上に並んだどの文書より短かった。
「あなた自身は、どうしたいの?」
リゼルヴェートはすぐに答えられなかった。
難しい制度について聞かれたわけでも、知らない国の事情を尋ねられたわけでもない。それなのに、自分のことを聞かれただけで、言葉が出てこない。
どうしたいのかを考えようとすると、紙に書かれた条件より先に、この世界へ来てからのことが次々と思い浮かんだ。
森の中で最初に会った三人は、何者なのかも分からない自分へ水を渡してくれた。帰る場所も、お金も、身分証明もないと分かっても追い出さず、拠点へ連れていき、着る服がなければ王都まで付き合ってくれた。
危険な任務についていきたいと言った時も、駄目だと一方的に切り捨てるのではなく、守るべき条件を決めたうえで一緒に行かせてくれた。
旧採石路では、三人とも自分たちの直接戦闘力が高くないと分かっていても、誰か一人を置いて逃げようとはしなかった。
初めて《常世星桜》を使ったあとも、怖がって距離を置くのではなく、一緒に確かめようとしてくれた。
イェルシェリナは何度も本人の意思を先に置き、ゼルディヴァンは分からないことを勝手に分かったことにはせず、ルシェルトは能力がどれだけ異常だと分かっても、それまでと同じように接してくれた。
アシェラは、その三人に会うより前からずっと隣にいる。
だからといって、王家が嫌なわけではなかった。話を聞けば、軍にも王家にも自分を守ろうとする理由があり、それぞれ本当に役に立つものを用意しようとしてくれていることが分かる。
そのせいで、単純に一番条件のいいところを選べば終わる話ではなくなっていた。
「今すぐ答えなくても大丈夫よ」
考え込んだリゼルヴェートへ、セレヴィナは急かさずに言葉を続けた。
「どれが王国にとって一番便利かだけで決めなくていいの。あなたがどこで過ごしたいのかも、ちゃんと理由になるから」
リゼルヴェートは隣にいるイェルシェリナへ目を向けたが、残ってほしいとも、王家へ行かないでほしいとも言われなかった。ただ、自分で選ぶのを待つように、いつも通りこちらを見ている。
この世界へ来た時、リゼルヴェートには何もなかった。帰る場所も、この世界の常識も、お金も、身分もなく、三人についていくことを選んだのも、そこにしか道がなかったからではなく、一緒にいてもいいと言ってもらえたことが嬉しかったからだった。
今は違う。王家も軍も、自分を受け入れる選択肢として正式に目の前へ並んでいる。だからこそ今度は、条件の良さや国の都合だけではなく、自分が誰のそばで、どんな毎日を送りたいのかまで考えて選ばなければならない。
まだ答えを口にしないまま、リゼルヴェートは《自分はどこにいたいのか》という問いを、初めて自分自身の選択として真剣に見つめ始めていた。




