第一章 20 『力の帰属』
会議卓の中央へ並べられた三通の文書を前にして、イェルシェリナが最初に確認したのは、それぞれの案が王家直属なのか、王廷保護なのか、王国軍編入なのかという違いではなかった。最後の頁まで順番にめくり、本人確認の欄へ目を通すと、どの文書にもリゼルヴェート・アルシェノアの署名を書き込むための空白が残されている。
少なくとも、本人の知らないところで所属だけを決定し、あとから承認させる形にはなっていない。その一点を確かめてから、イェルシェリナはようやく一番上の文書を最初の頁へ戻した。
「署名欄を真っ先に確認されると思っていました」
向かい側に座るセレヴィナが静かにそう言うと、イェルシェリナは手元の文書から顔を上げた。
「当然でしょう。そこが埋まっていたら、中身を読む前に話が違うと言っていたわ」
「クロヴェリア代表、ここは王国の緊急会議です」
「分かっているわ、エルグレディオ宰相。だからこそ確認したのよ。本人不在で所属を決めて、最後に署名だけ求めるなら、それは選択じゃなくて通知でしょう?」
「そのような手続きを行うつもりはありません」
「なら、その点について争う必要はないわね」
エルグレディオの表情はほとんど変わらなかったが、それ以上この件を続けるつもりもないらしい。イェルシェリナは視線を文書へ戻し、三つの案がリゼルヴェートに何を与え、代わりに何を求めるのかを一つずつ拾っていった。
王家直属案では、王家が身分と居所を直接保証し、対外折衝も王家の名義で引き受ける。その代わり、誰と接触するか、どのように行動するかについて、一定の制約を受ける内容になっていた。
王廷保護案はそれより緩い。生活基盤、警護、外交窓口を王廷側が用意しながら、普段の行動には比較的大きな自由を残す。ただし、国家的な緊急事態が発生した際には、王廷からの要請へ応じる義務が記されている。
王国軍編入案だけは性質が明確に違った。訓練環境、警護、人員、戦場情報、任務時の支援を軍が用意する代わりに、リゼルヴェート自身を正式な軍属として指揮系統へ組み込む案である。
「一番、今の生活から変わるのは軍編入ね」
「軍人になるんだから当然だ」
ガルヴェインは即答した。
「軍の設備も人員も使う、必要な情報も受け取る、それで命令だけは全部断れるとなったら組織として成立せん」
「そこは理解しているわ。でも、リゼルヴェート本人は軍人になりたいなんて一度も言っていない」
「だから選択肢として出してる。昨日の時点で強制的に編入するなら、こんな会議はしてない」
「それならいいのよ。本人が選べる軍編入案と、至冠者だから軍へ入れるべきだという話は別だから」
イェルシェリナがそう返すと、ガルヴェインは少しだけ眉を上げた。軍編入という言葉だけで反対すると予想していたのかもしれないが、彼女にとって問題なのは案の名称ではない。
王家直属には明確な利点がある。リゼルヴェートはこの国での出生記録も身分証明も持っていないため、王家が直接身分を保証すれば、現在の不安定な立場は大きく改善されるだろう。
王廷保護なら、ノルシェリア派との関係をある程度残しながら、三人では到底用意できない警護体制や対外交渉の窓口を国家へ任せられる可能性がある。軍編入についても、戦闘訓練の設備、敵情報、人員、現場への輸送力まで考えれば、今のノルシェリア派とは比較にならない環境が用意される。
だからこそ、単純にどれか一つを悪と決めつける方が危険だった。
「大事なのは、それぞれの案で誰に何の権限が移るのかよ」
イェルシェリナは王家直属案の該当箇所を指先で示した。
「この案だと対外交渉の窓口は王家に一本化される。本人を守るという意味では合理的だけど、運用次第では誰と会うかまで王家側の判断へ寄りすぎるわ」
続けて王廷保護案へ視線を移す。
「こっちは自由度が高い代わりに、緊急要請への応諾義務が曖昧ね。何をもって緊急とするのか、誰が判断するのかを書かないと、必要だと言えばいつでも呼び出せる条文になる」
最後に軍編入案をめくると、内容自体は三案の中で最も分かりやすかった。
「軍編入は逆に明確ね。正式な軍人になる以上、指揮命令系統へ入る。それを本人が望むなら私は反対しないけれど、《至冠者》になったという理由だけで当然の進路みたいに扱うのは違うでしょう」
「本人の意思だけで決められない事情があることも理解していただきたい」
エルグレディオが静かに言葉を挟んだ。
「リゼルヴェート殿は、すでに個人だけの問題ではありません。国外から直接接触を受けた場合、誰が交渉を担当するのか。何らかの組織が好条件を提示した場合、それが王国全体へ与える影響を誰が判断するのか。現在のノルシェリア派三人だけで、その全てを処理できますか?」
「できないでしょうね」
イェルシェリナがあっさり認めると、隣のルシェルトがわずかにこちらを見た。しかし、そこを意地で否定しても意味はなく、むしろ三人だけで国家規模の問題まで引き受けられると主張する方が現実を見ていない。
ノルシェリア派には、それぞれできることがある。イェルシェリナは交渉と契約を扱い、ゼルディヴァンは情報と条件を整理し、ルシェルトは移動や物資、人の流れを現実に成立させる。けれど、大国を相手にした恒常的な外交窓口や、何十人もの警護人員まで三人だけで用意できるわけではない。
「だから国家の支援が必要だという話そのものには反対していないわ。でも、支援する側へ本人の力まで移るわけじゃない」
「所有権の問題として扱うのは適切ではありません」
「だったら、なおさら簡単よ」
イェルシェリナはエルグレディオから視線を外さず、そのまま言葉を続けた。
「リゼルヴェートの力は、リゼルヴェート自身に帰属するものよ」
会議卓を囲む誰もが黙ったが、イェルシェリナには特別な理念を掲げたつもりはなかった。どれだけ強大な真律を持とうと、《至冠者》として《序冠碑》へ名を刻まれようと、そのことだけで本人まで国家や組織の所有物になる理由にはならない。
「ノルシェリア派と一緒にいるからといって、あの子の力が私たちのものになるわけじゃない。王家へ移れば王家の所有物になるわけでも、軍へ入ったら軍の兵器になるわけでもない。そこを曖昧にした案なら、私は反対するわ」
「その前提については、私も異論はない」
これまで各案を聞く側に回っていたアルヴェディオが、そこでようやく口を開いた。
「昨日、本人にも王家直属の保護下へ移ることを《命令》ではなく《提案》として伝えた。今すぐ答える必要もないと明言している」
「そこは評価しています」
「ずいぶん上から言うな」
ガルヴェインの声に、セレヴィナの口元がわずかに緩んだ。
「国王陛下だからって、全部を褒める必要はないでしょう?」
アルヴェディオもそれを咎めなかったが、続く言葉から柔らかさは消えた。
「ただし、クロヴェリア代表。本人の意思を尊重することと、現在の状態をそのまま無条件で認めることは別だ」
「その理由を聞かせてください」
「国家安全保障だ。彼女を危険人物と判断しているわけではない。昨日の行動を見る限り、少なくとも我が国や住民へ害意を持つ人物だとも考えていない」
国王は机上の記録へ目を落としながら続ける。
「だが、《至冠者》が国内に誕生した以上、彼女自身に敵意がなくとも周囲が動く。国外からの接触、国内組織からの勧誘、情報収集を目的とした接近、場合によっては本人ではなく周囲を利用しようとする者も出るだろう。本人が強いから警護は不要だという理屈では、そうした問題には対処できない」
そこには、イェルシェリナも反論できなかった。
リゼルヴェート本人を正面から襲って勝てるかどうかと、彼女が安全に生活できるかどうかは別問題である。食事をし、眠り、街を歩き、誰かと知り合い、どこかへ移動する以上、その全てを《常世星桜》の強さだけで解決するわけにはいかない。
ましてリゼルヴェートは、戦闘で危険を見つける判断は異様なほど速い一方で、この世界の政治や国家同士の利害についてはまだ知らないことが多すぎる。力で倒せる敵より、善意の顔をして近づいてくる条件付きの提案の方が、今の彼女には判断しにくい可能性さえある。
「王家として最低限必要だと考えているのは、警護、対外窓口、そして所属状態の明文化だ」
アルヴェディオの言葉に、ゼルディヴァンがわずかに身を乗り出した。
「今のリゼルヴェートは、俺たちと一緒にいるけど正式なノルシェリア派所属ではない。その状態のままにはできない、ってことですか」
「そうだ。本人が今後も君たちと行動することを選ぶなら、その選択自体は検討対象に含める。ただし、国家側が一切関与せず、今までと同じ曖昧な状態を続けることまでは認められない」
ここまで整理されれば、対立点はむしろ分かりやすかった。王家はリゼルヴェートを力ずくで奪うことまでは考えていないが、《本人が望むなら今まで通りでよい》と放置することもできず、本人の意思と国家側の責任を同時に成立させる条件を求めている。
「それなら、案が一つ足りないわね」
イェルシェリナが言うと、エルグレディオが眼鏡越しに視線を向けた。
「一つ?」
「ノルシェリア派との行動を続ける場合の正式案よ。王家直属でも王廷保護でも軍編入でもない。でも、王国が必要な警護や対外窓口を用意して、私たち側にも負うべき責任を設定する」
「それではノルシェリア派が国家支援だけを受け取る形にもなり得ます」
「だから条件を書くのよ。国家がどこまで支援するのか、私たちは何を引き受けるのか、そしてリゼルヴェート本人に何の義務が生じるのか。それを全部見える形にした上で比較すればいいでしょう?」
その言葉を受け、セレヴィナも机上の三案へ視線を落とした。
「私も四案目は必要だと思います。現在の関係を続ける選択肢だけ正式な条件を持たないのであれば、形式上は本人へ選ばせても、実際には移籍案の中からしか選べません」
イェルシェリナは王女へ一度だけ頷いた。
ノルシェリア派残留を既定路線にするつもりはない。王家直属を選ぶかもしれないし、王廷保護を望む可能性も、軍の環境を見てそちらがいいと考える可能性もある。
それなら、それでいい。
守るべきなのはノルシェリア派の人数ではなく、選択する前から道を一つに狭められないことだった。
「分かった」
しばらく考えていたアルヴェディオが、三通の文書を順番に見た。
「王家直属、王廷保護、王国軍編入。それに、ノルシェリア派との関係を維持しながら国家支援を受ける案を加える。どの案を推すかについて各自が意見を持つことまでは止めないが、所属を先に決定することはしない」
「陛下、四案目については国家側の責任範囲をかなり慎重に詰める必要があります」
「当然だ。だから今日決めるのは所属先ではなく、提示する選択肢だ」
エルグレディオはなお検討すべき条件を頭の中で並べているようだったが、それ以上は反対しなかった。ガルヴェインも軍編入が最善だという態度を崩してはいないものの、本人へ他案を見せること自体を拒む様子はなかった。
「国外が本格的に動く前に、できるだけ早く条件を整える。ただし、急がせるために情報を隠したり、特定の案だけ有利に見える形へ加工したりすることは認めない。全てを本人へ正式に提示し、その上で意思を確認する」
会議卓の中央では、三通だった所属変更案の横へ新しい紙が置かれ、ノルシェリア派との関係を維持する場合の条件整理が始まった。国家として放置することも、本人を無視して囲い込むこともしないという方針が決まったことで、議題は《リゼルヴェートをどこへ所属させるか》から《リゼルヴェート本人へ何を選べる形で提示するか》へ明確に変わっている。
どの案を選ぶにせよ、最後に空白の署名欄を埋めるのは王家でも王国軍でもノルシェリア派でもない。その前提を残したまま、王国は建国以来初の《至冠者》へ、全ての選択肢を正式に提示するための準備へ進み始めていた。




