第一章 19 『王国が動く』
リゼルヴェートたちが退出し、応接室の扉が閉じた直後、その向こうで待っていた二人がほとんど同時に口を開いた。
「陛下、あの少女は王廷の管理下へ移すべきです」
「軍へ入れるべきだ」
扉越しでも誰なのかは分かっていたが、アルヴェディオは一度だけ深く息を吐いてから入室を許した。
先に入ってきたのは、黒灰色の長衣型官服を一分の乱れもなく着込んだエルグレディオ・ヴァルセインだった。五十一歳になる宰相は、灰褐色の短髪に混じる白髪も、銀縁眼鏡の奥の暗緑色の瞳も、普段と変わらず落ち着いている。
その隣には、鉄灰色の軍礼装をまとったガルヴェイン・ディルグレスが続いた。四十三歳の王国軍総司令は大柄な体格を隠す気もなく立ち、濃鉄紺の短髪と左眉付近の古傷も相まって、同じ部屋へ入っただけで空気が一段重くなる。
どちらも、リゼルヴェートとの会談が終わるまで外で待たせていた相手だった。
「二人とも、せめて入室してから意見を言ってくれ」
「失礼いたしました。しかし、時間を置く理由もございません」
「同感です。状況はもう動いています」
エルグレディオとガルヴェインは互いへ視線を向けたものの、譲る様子はなかった。
アルヴェディオには、その対立そのものが意外ではない。リュネヴァルト建国以来初の《至冠者》が現れた。しかも王家でも軍でも中央行政でもなく、実働三人しかいないノルシェリア派のもとにいる十六歳の少女として。
何も起こらないと考える方が無理だった。
「まず私から申し上げます」
エルグレディオが一歩だけ前へ出た。
「リゼルヴェート殿は、現時点で身元の大半が確認できておりません。国内出生記録なし、既存組織への所属歴なし、保護以前の移動記録もなし。その状態で《至冠印》が発現し、《序冠碑》へ第五十一位として登録された。国家として最優先すべきは、彼女を王廷の直接管理下へ置き、保護・身分保証・外交対応を一本化することです」
「管理、か」
「言葉が気になるのであれば、保護でも構いません。しかし責任の所在は明確にする必要があります」
いつものエルグレディオだった。
理念を笑うのではなく、数字と責任を並べ、その先に結論を置く。ノルシェリア派を好いてはいないが、それも彼らが弱小であること自体を嘲っているからではない。国家存続を任せるには力の裏付けが足りない。それだけを一貫して問題視している。
「現在、リゼルヴェート殿の生活も対外窓口も、事実上クロヴェリア殿たち三人へ依存しています。彼らの政治判断、情報処理、移動実務に見るべきものがあることは認めます。しかし、それと《至冠者》一人に伴う国家的責任を負えるかどうかは別問題です」
「なら軍が負えばいい」
ガルヴェインが割って入る。
「王廷で囲って書類を増やしても、あの力を守れるわけじゃない。戦力として扱うなら、戦力を扱える場所へ置くべきです」
「私は書類の話をしているのではありません、ディルグレス総司令」
「俺も訓練だけの話をしてるわけじゃない」
公務の場では「私」を使うこともある男だが、意見が明確に割れるとガルヴェインは早々に普段の一人称へ戻る。それを咎めるほど、アルヴェディオも余裕のない話ではなかった。
「昨日の集落で、あの少女は大型魔獣を消しながら住民避難を成立させ、倒壊を止め、複数箇所へ同時に力を届かせた。報告を読む限り、普通の部隊一つと比較する話ですらない。だったら必要なのは、戦闘訓練、護衛、実戦運用の知識、それを用意できる軍だ」
「本人は軍人ではありません」
「今はな」
「本人の希望も確認せず、今後そうなることを前提に話を進めるべきではありません」
「王廷管理も同じだろう」
二人の言葉がぶつかったところで、アルヴェディオは口を挟まなかった。
エルグレディオの言い分には理がある。身元不明の新規《至冠者》を、国家の正式管理体系から外したままにする危険は大きい。国内政治だけではなく、国外への説明責任まで含めればなおさらだった。
ガルヴェインにも理がある。
実際にリゼルヴェートの力が戦闘へ向いた時、王廷官僚だけでは扱えない。軍なら訓練場所も護衛体制も、戦闘時の指揮系統も持っている。
そして、どちらを採っても問題が残る。
「お二人とも」
それまで黙っていたセレヴィナが静かに口を開いた。
「前提が一つ抜けています」
第一王女の声は大きくない。それでもエルグレディオとガルヴェインの双方が止まった。
「リゼルヴェート本人は、まだ何も選んでいません」
「だからこそ、国家側から適切な選択肢を提示する必要があります」
エルグレディオがすぐに返す。
「提示することには反対していません。ただ、本人を抜きに所属先だけ先に決めるべきではないと言っています」
「危険が迫ってから選ばせていては遅い場合もある」
ガルヴェインの言葉にも、セレヴィナは引かなかった。
「だから急ぐことと、本人の意思を飛ばすことは別です。昨日まで《至冠者》ですらなかった十六歳の少女に、今日のうちに国家側だけで所属を決めて通知するのですか?」
「俺はそんな話はしていない」
「ですが、軍へ入れるべきだとは最初に断定しました」
「最善だと思ってるからな」
「その最善を本人が選ぶとは限りません」
ガルヴェインの眉がわずかに動いたが、反論はすぐには返らなかった。
アルヴェディオは三人の顔を順番に見る。
誰か一人だけが正しく、残りが間違っているなら簡単だった。
エルグレディオは国を守ろうとしている。
ガルヴェインも国を守ろうとしている。
セレヴィナはリゼルヴェート本人を守ろうとしている。
そして国王であるアルヴェディオには、その全部を無視しない責任があった。
「先ほど、私は王家直属の保護下へ移ることを考えてほしいと本人へ伝えた」
「それが妥当かと」
「私は反対です」
エルグレディオとガルヴェインの返答がまた重なる。
アルヴェディオは額へ指を当てそうになるのを堪えた。
「最後まで聞け。私は命令していない。今すぐ答える必要もないと伝えた」
セレヴィナだけが小さく頷く。
「彼女はノルシェリア派と一緒にいることを、自分の意思だとはっきり答えた。それを無視して引き離せば、王家が最初に教えることになるのは、この国では本人の意思より国家の都合が優先されるという事実だ」
「ですが陛下、選択の自由には、選択した結果を負う責任が伴います」
エルグレディオの返答は穏やかだった。
「ノルシェリア派を選ぶ自由を認めるのであれば、その選択によって生じる外交・安全保障・国内統治上の責任を、誰が引き受けるのかまで決めなければなりません。クロヴェリア殿たち三人だけへ負わせることは現実的ではない」
「そこは同意する」
アルヴェディオは否定しなかった。
ノルシェリア派は弱い。
少なくとも国家戦力として見れば、そう評価せざるを得ない。イェルシェリナには政治判断があり、ゼルディヴァンには分析力があり、ルシェルトには移動と現場実務がある。だが、彼ら三人だけで外敵から《至冠者》を守る体制が成立するかと問われれば、答えは別だった。
もっとも、昨日の報告を読む限り、戦闘になった時に誰が誰を守るのかという問題だけは、すでに逆転している可能性が高かったが。
「俺が三人を評価してないと思ってるなら違う」
ガルヴェインは腕を組んだまま言った。
「クロヴェリアは交渉ができる。アルネグラートは頭が回る。ヴァルネイドは現場を動かせる。だが戦場じゃ、それだけで敵は止まらない。至冠者一人を置いたから完成した組織だと考える方が危険だ」
「珍しくあなたと意見が合いますね」
「珍しくは余計だ」
エルグレディオとガルヴェインの目的は異なる。
それでも、《現状のまま何も変えない》という一点だけは、どちらも認めるつもりがないらしい。
アルヴェディオ自身も同じだった。
本人の意思を尊重することと、国家が何もしないことは同義ではない。
「問題は、こちらに時間があるかどうかだな」
その一言で室内の空気が変わった。
エルグレディオが眼鏡越しに視線を上げる。
「ございません」
短い返答だった。
「《序冠碑》の更新は、我が国だけが確認できるものではありません。新規の《至冠者》が第五十一位として登録された以上、六大国を含む国外勢力も、遅かれ早かれ――いえ、すでに把握していると考えるべきです」
「具体的に誰が動くかまではまだ分からん」
ガルヴェインが続ける。
「だが、何もしない国はいないでしょう。少なくとも、何者なのかは探る」
それがアルヴェディオにとって最も重い部分だった。
リュネヴァルトは大国ではない。
建国以来初の《至冠者》を得たからといって、一夜で国力まで変わるわけではない。むしろ現時点では、世界的に価値のある存在が突然国内へ現れただけとも言える。
国外から見れば、確認したいことはいくらでもある。
本人は何者なのか。
どこへ所属するのか。
王家との関係は。
軍との関係は。
ノルシェリア派は彼女へどの程度影響を持っているのか。
そして、リュネヴァルトはその存在を管理できているのか。
「こちらが何も決めないまま外から選択肢を積まれれば、本人にも国にもよくない」
アルヴェディオは机上の記録へ視線を落とした。
「だからといって、国外より先に決めるためだけに本人の意思を無視すれば、本末転倒だ」
「では、複数案を正式化し、本人へ提示するべきでしょう」
セレヴィナが言う。
「王家直属。王廷管理。王国軍所属。そして、現状のノルシェリア派との関係を維持する場合に、国家がどこまで支援と責任を持つのか。その条件を並べた上で、本人が判断できるようにするべきです」
エルグレディオがすぐには答えず、ガルヴェインも腕を組んだまま黙った。
アルヴェディオにも、それが最も筋の通った形に思えた。
ただし、自由に選べと言うだけでは足りない。
どの選択肢に何が伴うのか。
何を得て、何を負うのか。
国家として許容できる範囲はどこまでなのか。
それを明文化しなければ、十六歳の少女へ国家責任まで丸投げすることになる。
「エルグレディオ」
「はい」
「王廷管理案を正式な文書にしろ。身分保証、警護、対外交渉、居住、能力情報の扱いまで含めろ。ただし本人の真律が王廷へ帰属するような書き方は認めない」
「承知いたしました」
「ガルヴェイン」
「はい」
「軍編入案も同じだ。訓練、警護、任務権限、指揮関係を明記しろ。至冠者だからという理由だけで無制限に軍命令へ従わせる案は却下する」
「分かりました」
二人とも迷いはなかった。
エルグレディオは持参していた書類を机上へ置き、ガルヴェインも軍側で準備していた文書をその隣へ並べる。どうやら二人とも、意見を言いに来ただけではなく、最初から正式案へ進むつもりでいたらしい。
紙面へ記された条件はまだ草案にすぎない。
採用もされていない。
リゼルヴェート本人にも見せていない。
それでも、建国以来一人も存在しなかった《至冠者》を巡り、王廷と王国軍の双方が正式に所属変更を求める文書を国王の前へ提出した瞬間、昨日まで存在しなかった政治問題は、もはや可能性ではなく王国そのものが処理しなければならない案件へ変わっていた。




