第一章 2 『白い世界の小さな少女』
「――生きられるなら、生きたい」
答えは、思っていたよりも簡単に口から出た。
元の世界には戻れない。家族にも友達にも、もう会えない。その事実を受け入れられたわけではなく、考えれば胸の奥にはまだ冷たいものが沈んでいる。
それでも、別の世界なら生きられると告げられて、それを拒む理由を澪桜は見つけられなかった。事故の直後まで必死に生きたいと願っていたのだから、差し出された道を選びたいという気持ちだけは迷わなかった。
アシェラは淡金と星紫の瞳で澪桜をしばらく見つめたあと、相変わらずほとんど表情を変えずに答えた。
「……分かった」
「それだけ?」
「……うん」
「もうちょっと何かないの?」
「……生きたいんでしょ?」
「生きたいけど……」
別の世界とはどこなのか。そこで自分はどうなるのか。そもそも死んだ人間がどうやって生き直すのか。聞きたいことはいくらでもあったが、アシェラは説明する気配もなく、澪桜へ小さな手を伸ばした。
「……じゃあ、行く」
「え、今!?」
心の準備をする暇もなかった。
白とも黒ともつかなかった空間が大きく揺らぎ、それまで何の感覚もなかった澪桜の意識へ、外側から一気に何かが押し寄せてくる。最初に戻ったのは呼吸で、冷たい空気が喉を通って肺へ流れ込んだ瞬間、忘れていた身体の存在までまとめて引き戻された。
「――っ、ぁ……!」
思わず何度も息を吸う。胸が上下し、冷気が鼻から喉へ抜け、その直後には背中や腰、腕や脚へ硬い地面の感触が伝わってきた。指先には湿った草が触れ、頬には細い風が当たり、身につけている布地が皮膚へ擦れる感覚まで分かる。
ついさっきまで、呼吸も鼓動も手足も感じられなかった。その何もなかった状態を覚えているからこそ、身体の隅々から押し寄せてくる感覚の一つ一つが、澪桜にはひどく鮮明だった。
「……ほんとに……」
小さく漏れた声と一緒に喉が震える。そのことを確かめるようにもう一度息を吸ってから目を開けると、最初に飛び込んできたのは幾重にも重なる緑だった。
太い木々が周囲へ立ち並び、その向こうまで深い森が続いている。頭上では葉が重なり、隙間から差し込んだ光が湿った地面へまだらな模様を落としていた。土と草の匂いが鼻をくすぐり、どこか遠くからは鳥に似た鳴き声も聞こえてくる。
「……森?」
少なくとも、澪桜が知っている場所ではなかった。
身体を起こそうと地面へ手をついたところで、その手が記憶にあるものと違っていることに気づく。指を曲げても伸ばしても動きに問題はなく、年齢まで大きく変わったようには見えない。それでも指の形や肌の色合いには明らかな違いがあった。
さらに頬へ触れ、髪へ指を滑らせたところで、澪桜の手が止まった。
「え……?」
手の中へ落ちてきた髪は黒ではなかった。白に近い淡い桃色を基調に、先へ向かうほど柔らかな金色が混ざり、毛先では薄い藤色へ移っている。
見間違いかと思って両手で髪を集めても色は変わらず、光の加減でそう見えているだけでもない。そのまま驚いて声を上げたところで、今度は耳へ届いた自分の声にも違和感があった。
「ええっ!?」
女の子の声であることも、年齢に大きな差がなさそうなことも分かる。ただ、十六年間聞いてきた自分の声とは響きが少し違っている。
「アシェラ!?」
「……なに」
すぐそばから返事があった。
振り向けば、白い空間にいた時と同じ姿でアシェラが立っている。見知らぬ森の中に七歳ほどの少女が当然のように立っている光景も十分不思議だったが、今の澪桜には自分の変化の方が重大だった。
「私、なんか変なんだけど!」
「……変?」
「髪も違うし、声も違うし、手も前と違うよね!? たぶん顔も違うよね!?」
鏡がない以上、顔までは確かめられない。しかし髪も手も声も変わっているのなら、顔だけ以前と同じだと考える方が不自然だった。
身体を改めて見下ろせば、着ている服にも覚えがない。装飾らしい装飾のない簡素な白い衣服が身体を包んでおり、事故に遭う直前まで着ていた制服はどこにもなかった。
「これも知らない服だし……」
「……うん」
「うんじゃなくて!」
相変わらず返事が短い。
「私、どうなったの?」
「……生きてる」
「そこは分かったよ!」
そこだけは疑いようがなかった。呼吸も鼓動もあり、手足は思った通りに動く。自分が再び生きていることは、むしろ身体中の感覚がはっきり教えてくれている。
分からないのは、その身体だった。
澪桜は落ち着こうとしながら、自分の記憶を辿った。日本で暮らしていたことも、家族や友達のことも、学校での出来事も覚えている。事故の瞬間から、あの何もない空間でアシェラと話したことまで途切れていない。
天城澪桜として過ごした十六年間は、何一つ失われていなかった。
その確認をしたところで、記憶とは別の場所から一つの名前が自然に浮かび上がった。
「……リゼルヴェート・アルシェノア?」
誰かから聞いた覚えはない。アシェラもまだ口にしていない。それなのに、その名前を知らないとは思えなかった。
口にした瞬間、自分とは無関係の名前ではなく、今ここにいる自分自身を示すものとして不思議なほど自然に受け入れられる。天城澪桜であった記憶が消えたわけでも、別の誰かになった感覚があるわけでもない。ただ、現在の自分には《リゼルヴェート・アルシェノア》という名前があることだけが、最初から知っていた事実のように理解できた。
「なんで私、この名前知ってるの?」
「……名前だから」
「それは分かるけど、そうじゃなくて……」
「……そういうもの」
「説明する気ないでしょ?」
「……ある」
「本当に?」
「……少し」
「少しなんだ……」
リゼルヴェートは思わずアシェラを見つめた。少なくとも彼女が慌てていない以上、この変化自体は想定外ではないらしい。
「じゃあ、アシェラも私のことリゼルヴェートって呼ぶの?」
「……呼ばない」
「え?」
「……澪桜」
「そっちは変わらないんだ?」
「……澪桜は、澪桜」
あまりにも当然のことのように言われ、リゼルヴェートはしばらく返事ができなかった。
身体も変わった。名前も変わった。日本へ戻ることもできない。それでもアシェラから以前と同じ名前で呼ばれると、自分まで全部別のものへ置き換わってしまったわけではないと感じられた。
「……そっか」
「……うん」
今度の返事は、不思議と少しだけ心地よかった。
リゼルヴェートは地面へ手をついて立ち上がり、身体の動きを確かめるように数歩進んだ。見慣れない身体であるにもかかわらず、足運びに迷うことも、思った場所と違うところへ手が動くこともない。身体そのものが最初から自分のものであったかのように、立つことも歩くことも自然にできた。
森には細い風が通り、頭上で木の葉が擦れ合っている。見覚えのない植物も混じっていたが、周囲を眺めただけでは現在地を判断できそうになかった。
「それで、ここってどこなの?」
何気なく尋ねた直後、リゼルヴェートは自分の口から出た言葉に違和感を覚えた。意味は何の抵抗もなく理解でき、それどころか考えるより先に自然と使っていたのに、耳へ残った響きは十六年間使ってきた日本語とは明らかに違っている。
そこで初めて、さっきからアシェラが話していた言葉も同じだったことに気づいた。聞いたことのないはずの言語なのに、意味を取り違えることなく理解でき、自分でも同じ言葉を使って会話している。
「……待って。私、普通に喋れてる」
「……喋ってる」
「そうじゃなくて! これ、日本語じゃないよね?」
「……違う」
「でも意味は分かるし、私も普通に喋れてるよね?」
「……うん」
「どうして?」
アシェラは数秒ほどリゼルヴェートを見上げたあと、いつもの調子で答えた。
「……そういうもの」
「またそれ!?」
身体も名前も言葉も、一度に分からないことが増えすぎている。生き直せたことには感謝しているし、それがどれほど大きなことなのかも分かっている。それでも説明不足は説明不足だった。
「せめてもう少し教えてよ。ここがどこなのかとか、なんで私がこの名前になってるのかとか、なんで言葉が分かるのかとか!」
「……あとで」
「本当に?」
「……たぶん」
「またたぶん!?」
さらに問い詰めようとした、その時だった。
森の奥から枝を踏み折る音が届き、リゼルヴェートは言葉を止めてそちらへ顔を向けた。少し遅れて葉を踏む音も重なり、一定の間隔でこちらへ近づいてくる。獣が無秩序に駆け回っている響きとは違い、誰かが森の中を進んでいる足音に聞こえた。
やがて木々の向こうから、人のものらしい声まで混じり始める。姿はまだ見えないものの、重なる足音から一人ではないことだけは分かった。
「……三人。来る」
隣で同じ方向を見ていたアシェラが短く告げる。
この世界へ来てから、アシェラ以外の誰かと出会うのは初めてだった。まだ何者なのかも、こちらへ向かっている理由も分からないまま、三人分の足音だけが木々の向こうから確実に近づいてきていた。




