第一章 1 『日常は、そこで終わった』
耳を裂くようなブレーキ音が響いた時、天城澪桜は何が起きたのか理解するより先に振り向いていた。夕暮れの道路を横切るように大きな影が迫り、視界いっぱいに何かが膨れ上がる。
避けなければと思ったはずなのに、身体が動くより早く凄まじい衝撃が全身を貫き、肺の空気をまとめて叩き出された。
足元が消え、身体が宙へ放り出される。灰色の道路も、赤みを帯びた空も、見慣れた店の看板も、何が上で何が下なのか分からないまま激しく回転し、次に背中へ硬い衝撃が走った瞬間、澪桜は声を出そうとして、それすらできないことに気づいた。
息が吸えないうえ、身体のどこが痛いのかも分からないほど感覚が入り乱れている。それなのに頭の中では、事故の直前までの出来事だけが妙にはっきり残っていた。
学校が終わり、友達と別れ、いつもの道を歩いて帰ろうとしていただけだ。誰かを助けようとしたわけでも、危険なことをしていたわけでもない。本当に、いつも通り帰るだけだった。
遠くで誰かが叫び、複数の足音が近づいてくる。澪桜は顔を上げようとしたものの、首が動いたのかさえ分からず、その間にも身体の感覚は急速に薄れていった。さっきまで全身にあったはずの痛みまで遠ざかっていくことが、むしろ何より怖い。
これはまずい。
理由を考えられるほど頭は働いていなかったが、それだけは分かった。指を動かそうとしても感触がなく、息を吸おうとしても胸が応えてくれない。救急車を呼んでほしいとか、家族に連絡してほしいとか、何か一つでも伝えなければと思うのに、口を動かせているのかどうかさえ自分では判断できなかった。
不意に母親の顔が浮かんだ。朝、何を話しただろう。今日の夕飯は何だっただろう。帰りに何か買ってきてと言われたような気もするし、違ったような気もする。
今までなら忘れていても困らなかったようなことばかりが次々と浮かび、肝心なことだけが何一つまとまらない。
やがて視界の端から暗さが広がり始めた。それは眠気とは違い、意識そのものが手の届かないところへ引き離されていくような感覚だった。何が起きたのかさえ分からないまま終わるのは嫌だ。
まだ帰りたい。家にも学校にも、さっきまで当たり前にあった日常にも戻りたい。その思いだけははっきりしているのに身体は何一つ応えてくれず、遠くに残っていた声も音も次第に聞こえなくなり、最後には光まで失われた。
そこで、天城澪桜の意識は途切れた。
◇
――澪桜が意識したのは、痛みではなく、自分の身体がどこにもないという奇妙な感覚だった。
目を開けたつもりなのに瞼を動かした感触がなく、それでも何かは見えている。白とも黒ともつかない曖昧な空間がどこまでも続いているように感じられるのに、壁も床も天井も、光源らしいものすら存在しなかった。
起き上がろうとして、澪桜はそこでようやく異常をはっきり認識した。手も足も感じない。背中が何かへ触れている感覚もなく、呼吸している感覚も心臓が動いている感覚もない。
事故の直後には確かにあった痛みまで完全に消えていて、身体を探そうとすればするほど、そこに何もないという事実だけが強くなっていく。
「……え?」
自分の声は聞こえた。しかし喉を震わせた感触はなく、そのことが余計に澪桜を混乱させる。
「なに、ここ……?」
返事はなかった。病院ならこんな場所であるはずがないし、意識不明で夢を見ているのだとしても、ここまで身体の感覚が完全に消えていることをどう受け止めればいいのか分からない。どうにか別の可能性を探そうとしていた時、不意に背後から小さな声が落ちた。
「――澪桜」
「ひゃっ!?」
反射的に振り向いたつもりになった瞬間、澪桜の認識だけが声の方角へ向き、そこに一人の少女がいることへ気づいた。
七歳くらいに見える小さな少女だった。月の光を思わせる白い髪は顎の下ほどで揃えられ、内側には淡い水青色が覗き、毛先にはごく薄い金紫色が溶けるように混じっている。左右から伸びた細い編み込みは後頭部で交差しているのに、右側だけ一本、腰近くまで届くほど長い髪束が垂れていた。
右眼は淡い金色、左眼は薄い星紫色。その左右で色の違う瞳が、真っ直ぐに澪桜を見つめている。
「……なんで、私の名前知ってるの?」
少女はしばらく澪桜を見つめてから、ほとんど表情を変えないまま答えた。
「……知ってるから」
「答えになってないよ!?」
「……そう」
「そう、じゃないよ!」
思わず声を上げてから、澪桜は妙なところで少しだけ落ち着いている自分に気づいた。何も分からない場所で一人きりだと思っていたのだから、会話できる相手がいるだけでもましだったのかもしれない。
「あなた、誰?」
「……アシェラ」
「アシェラ……?」
「……うん」
会話が短すぎる。それ以上説明するつもりもなさそうなアシェラから一度意識を外し、澪桜は改めて周囲を見渡そうとした。どこまで見ても病室らしいものはなく、事故現場でもない。そもそも自分に身体の感覚がない以上、普通の場所ではないと考えた方が自然だった。
そこでようやく、事故の記憶が改めて浮かび上がった。
「私……事故に遭って……」
「……うん」
アシェラは否定しなかった。
「ここ、病院じゃないよね?」
「……違う」
「じゃあ、夢とか?」
「……違う」
「意識不明になってるとか……」
「……違う」
否定されるたび、澪桜の中から逃げ道が一つずつ消えていく。特殊な治療を受けている、頭を打って夢を見ている、薬の影響で変な感覚になっている――そういう説明であってほしかったのに、呼吸も鼓動も痛みも何一つ感じない今の状態が、それらを簡単には信じさせてくれなかった。
考えたくない答えだけが、最後まで残った。
「……私、もしかして死んだの?」
アシェラはすぐには答えなかった。ほんの少しだけ視線を落としたように見えた後、いつもと変わらない静かな声が返ってくる。
「……うん」
その一言で、澪桜の思考は止まった。もっと大きく取り乱すと思っていたし、嘘だと言うかもしれない、泣き叫ぶかもしれないとも思っていた。それなのに実際には何もすぐには出てこなくて、自分でも驚くほど現実感だけが遠かった。
「……そっか」
口から出たのは、そんな弱い言葉だけだった。
頭の中には自分の部屋や学校、友達の顔、家族の姿が順番もなく浮かんでくる。今日までそこにあったものが、明日も当然続くと思っていた。宿題も、次の日の授業も、何を食べるかという話も、全部まだ先があるつもりだった。
「……帰れないの?」
澪桜がそう尋ねると、アシェラはすぐには答えなかった。その沈黙が長く感じられた時点で、澪桜はもう返事の内容を半分理解していた。
「……澪桜。もう、元の世界には戻れない」
胸など今はないはずなのに、そこだけを強く掴まれたような感覚がした。
「どうして?」
「……戻れないから」
「いや、それは理由じゃないよ……」
いつもならもっと勢いよく言えたのかもしれない。しかし今は、その程度の言葉を返すだけでも妙に疲れた。
「私、本当に死んだんだよね?」
「……うん」
「お母さんたちにも、もう会えない?」
「……うん」
「友達にも?」
「……うん」
短い返答が重なるほど、曖昧だった現実が少しずつ形を持っていく。帰れない。今日の続きを過ごすこともできず、明日の朝を迎えることも、家の扉を開けることも、学校で友達に会うこともできない。それを理解した途端、何もない空間がさっきよりずっと広く感じられた。
「……そっかぁ」
澪桜には、それ以上の言葉が出てこなかった。
アシェラは慰めようとはしなかった。大丈夫とも言わず、仕方ないとも言わず、ただ澪桜の前に立っている。そのことが今はかえってありがたく、澪桜も無理に何かを言おうとはしなかった。
どれだけそうしていたのかは分からない。この場所に時間が流れているのかどうかすら判断できなかったが、やがて澪桜は、ずっと引っかかっていた疑問を口にした。
「じゃあ……アシェラは、なんでここにいるの?」
「……澪桜に、聞くため」
「私に?」
「……うん」
「何を?」
アシェラは少しだけ間を置いた。表情も声も、それまでとほとんど変わらない。それでも次の言葉だけは、澪桜の中へはっきりと届いた。
「――別の世界なら、生きられる」




