第一章 17 『第五十一位』
左手の甲を焼く熱へ視線を落としたリゼルヴェートは、そこに昨日まで存在しなかったものが浮かび上がっていることに気づいた。
傷ではない。火傷のように皮膚が赤くなっているわけでもなく、白桃色を基調とした淡い光が皮膚の内側から滲み、ゆっくりと一つの紋様を形作っている。中心にあるのは桜の花を思わせる星型で、その周囲を三つの細い環が冠のように取り囲んでいた。
「なに、これ……」
指で触れても盛り上がりはない。それなのに熱だけは確かにあり、紋様が完成へ近づくほど左手の奥から脈打つような感覚が強くなっていく。
少し離れた場所では、つい先ほどまで集落を覆っていた『天花照臨』の光が完全に消え、王国兵が住民の確認や倒壊箇所の警戒へ移っていた。大型魔獣も残る魔獣もいなくなり、緊急だった戦闘そのものは終わっている。それなのに、今度は自分の身体で何かが始まっている。
最初に近づいてきたのはイェルシェリナだった。
「リゼルヴェート、どうしたの?」
「左手が急に熱くなって……これ」
差し出した手を見た瞬間、イェルシェリナの表情が変わった。
その反応だけで、ただの魔法による痕ではないと分かる。ゼルディヴァンとルシェルトもこちらへ集まり、アシェラも少し遅れて隣へ立った。
だが、最も早く言葉を出したのはエリゼナだった。
「……その紋様、まさか」
彼女は数歩の距離を残したまま足を止め、リゼルヴェートの左手を凝視している。先ほど『天花照臨』で集落全体を覆った時より、今の方が明らかに声が硬かった。
「知ってるの?」
「見せてください。もう少し近くで」
リゼルヴェートが手を向けると、エリゼナは触れずに紋様を確認した。
中心の桜花型の星。その周囲を巡る三つの冠環。淡く光る線はすでに形を変えなくなっており、熱だけがまだ皮膚の奥へ残っている。
「間違いないと思います。これは《至冠印》です」
「しかんいん?」
聞いたことのない言葉だった。
「《至冠者》として認められた者に現れる印です」
「認められたって、誰に?」
「それを簡単に説明できるものではありません。ただ、《至冠印》が出たという事実そのものは、見間違えようがない」
分からない言葉へ、さらに分からない話が重なった。
リゼルヴェートが助けを求めるようにイェルシェリナを見ると、彼女も珍しくすぐには説明を返さなかった。左手の紋様を確認したあと、エリゼナへ視線を移す。
「本当に?」
「私が見た資料と一致しています。中心紋は本人ごとに違いますが、三つの冠環を持つ構造は同じです」
ゼルディヴァンも横から左手を確認していたが、いつものように即座に結論を出そうとはしなかった。
「発現前に兆候は?」
「なかったよ。さっき全部止まって、それから急に熱くなっただけ」
「『天花照臨』を使ってる間は?」
「左手は何ともなかったと思う」
「なら、発動中に見落とした可能性は残るけど、少なくとも本人の認識では戦闘後に出たわけか」
そこまで聞いても、リゼルヴェートには重大さがまだ分からなかった。
確かに自分の身体へ急に知らない印が出たのは驚く。それでも周囲の四人の反応を見る限り、単に珍しいという話ではなさそうだった。
「その至冠者って、そんなに大変なの?」
ルシェルトが何とも言えない表情でこちらを見る。
「リゼル、それは……大変って言葉で済ませていいか分からないやつだ」
「そんなに?」
「少なくとも、王国軍だけで話を閉じられる内容じゃない」
イェルシェリナがそこで言葉を引き取った。
「《至冠者》は、真律を持っている人間の中でもごく一部だけが該当する特別な存在よ。ただ強い真律を持っているだけで自称できるものじゃない。《至冠印》が現れて、初めて正式にそう扱われる」
「じゃあ、私も今日からそれってこと?」
「印が本物なら、そういうことになるわ」
説明を聞いても、実感はほとんどなかった。
朝起きた時まで、自分は昨日と同じリゼルヴェートだった。集落へ来たのも、誰かが危ないと聞いたからだ。『天花照臨』を使ったのも、全部同時に守りたかったからで、何かの資格を得ようと思ったわけではない。
それなのに、戦闘が終わった途端に知らない印が現れ、周囲の空気まで変わっている。
「これ、消えないの?」
「少なくとも普通の傷みたいには扱えません」
エリゼナがそう答えた直後、集落の入口側から複数の王国兵が駆けてくるのが見えた。
大型魔獣の追加出現かと思い、リゼルヴェートは反射的にそちらへ身体を向けた。だが兵士たちが急いでいる理由は、魔獣ではなかった。
「フォルグレイス! 緊急連絡です!」
先頭の兵士がエリゼナの前で足を止め、息を整える間も惜しむように報告を続ける。
「王都の《序冠碑》が更新されました! 新規登録を確認、王国内です!」
エリゼナが一瞬、リゼルヴェートを見る。
「登録名は?」
「リゼルヴェート・アルシェノア!」
今度は、その場にいた全員の視線がリゼルヴェートへ集まった。
「……私?」
聞き返しても名前は変わらない。兵士も左手の印へ気づいたらしく、途中で言葉を失ったまま目を見開いている。
リゼルヴェートには《序冠碑》が何なのかも分からなかった。
「その、じょかんひって何?」
「《至冠者》の登録と序列を示す碑よ」
イェルシェリナが答えた。声は落ち着いているものの、視線はリゼルヴェートから外れない。
「《至冠印》が発現して正式に至冠者として認識されると、《序冠碑》にも自動的に反映される。誰かが役所で申請するものじゃないわ」
「自動で私の名前が出たの?」
「そういうことになる」
「名前まで?」
そこが妙に気になった。
印だけならまだ身体の変化として受け止められるが、離れた王都にあるという碑へ自分の名前まで勝手に出たとなると、さすがに普通ではない。
兵士がさらに報告を続ける。
「王都側でも再確認中ですが、誤作動ではないとのことです。それと……王国記録に、過去の国内至冠者登録はありません」
その言葉の意味を、リゼルヴェートはすぐには掴めなかった。
だがエリゼナは完全に動きを止め、ルシェルトが低く息を吐く。ゼルディヴァンも、何かを分析する時の顔ではなく、起きた事実そのものを受け止めるように黙っていた。
「建国以来、初めてってこと?」
リゼルヴェートが尋ねると、イェルシェリナがゆっくり頷いた。
「そうよ。少なくとも、正式記録に残る範囲ではね」
「そんなに珍しいんだ……」
「珍しいで終われば楽なんだけどな」
ルシェルトの声が重い。
「国内で初めてなんだぞ。王国が放っておくわけないだろ」
その言葉で、ようやく別の問題が見えてきた。
自分の左手に印が出ただけではない。王国に今まで一人もいなかった存在が、突然ここに生まれた。しかも、それが王家でも軍でもなく、つい数日前まで身元さえなかった自分だという。
イェルシェリナがわずかに眉を寄せる。
「王廷、軍、中央官僚……少なくとも、その全部が動くでしょうね」
「ノルシェリア派も無関係じゃいられない」
ゼルディヴァンが続けた。
「今のリゼルヴェートが俺たちと行動してることは、調べればすぐ分かる。《序冠碑》の更新が王都で確認されたなら、ここへ照会が来るまで長くない」
「そんなにすぐ?」
「建国以来初なら、遅い方がおかしい」
話が自分の理解より速く大きくなっていく。
リゼルヴェートはもう一度左手を見る。
桜花型の星と三つの冠環。
さっきまで知らなかった《至冠印》。
見つめていると、不意に紋様の奥から何かが伝わってきた。
声ではない。文字を読んだわけでもない。それでも意味だけが、最初から知っていたように頭の中へ落ちてくる。
――第五十一位。
リゼルヴェートは瞬きをした。
「……五十一?」
「何が?」
イェルシェリナへ視線を上げる。
「第五十一位って、今、分かった」
周囲の空気がまた変わった。
エリゼナが左手の印を見る。
「《至冠序列》……」
「それも至冠者のもの?」
「ええ。《序冠碑》に登録された至冠者には序列が付く。順位情報を本人が《至冠印》から認識することもあると聞いています」
「じゃあ、私が五十一番目ってこと?」
「少なくとも、今はそういう意味でしょう」
五十一位。
数字だけなら大きいのか小さいのかも分からない。何人いる中の五十一なのか、何を基準に並んでいるのか、そこまで説明されなければリゼルヴェートには判断できなかった。
けれど三人は違った。
イェルシェリナはすでに王都へ戻った後のことまで考えているように、兵士から追加情報を聞き始めている。ゼルディヴァンは《至冠印》と先ほどの天花照臨を安易に結びつけず、確認できた時系列だけを整理していた。ルシェルトは王都までの移動と、途中で連絡が入った場合の経路を確かめている。
ついさっきまで集落の危険を止めるために動いていた三人が、今度はリゼルヴェートを中心に動き始めている。
大型魔獣を倒したことで終わるはずだった一日は、左手に浮かんだ小さな紋様一つで、王国全体を巻き込む話へ変わってしまったらしい。
その中で、アシェラだけは何も尋ねず、リゼルヴェートの左手をじっと見つめていた。
「……予定より早い」




