第一章 16 『だったら全部守ればいい』
大型魔獣より先にリゼルヴェートの目へ入ったのは、崩れかけた家屋の下で泣いている子供だった。
王国軍に続いて集落へ着いた時には、すでにあちこちから煙が上がっていた。道沿いの家屋は何棟も壁を失い、傾いた屋根から瓦礫が落ち続けている。広場側では王国兵が住民を誘導していたが、その反対側では大型魔獣が建物より高い身体を揺らして進み、そのたびに地面へ重い振動が伝わってきた。
けれど、リゼルヴェートが足を止めた理由はそれではない。
「待って、あそこにいる!」
半壊した家屋の一階部分。折れた柱と崩れた壁材の隙間に、小さな子供がしゃがみ込んでいる。その頭上では傾いた二階部分を支えていた梁が軋み、今にもまとめて落ちそうになっていた。
リゼルヴェートが走り出すより早く、ゼルディヴァンの《群鏡演算》が周囲へ広がる。
「右側から入れる! 正面は崩れる、そっちへ行くな!」
「分かった!」
指示された側へ回り込むと、ルシェルトもすぐに別方向へ走った。
「俺は避難路を見る! ここへ人を集めすぎたら詰まる!」
イェルシェリナは到着していた王国兵へ状況を確認しながら、住民をどこへ動かすかを整理している。エリゼナはすでに大型魔獣へ向かう部隊の前へ出ており、周囲の兵士へ短く指示を飛ばしていた。
誰も立ち止まってはいない。
それでも、足りなかった。
リゼルヴェートが家屋へ踏み込んだ瞬間、頭上の梁が大きく沈んだ。
子供までの距離は数歩しかない。間に合うと判断した身体はそのまま前へ出たが、同時に背後から別の悲鳴が聞こえた。通りの向こうでは火の回った家屋から住民が逃げ出しており、そのさらに奥では別の魔獣へ王国兵が対応している。
子供を助けるだけなら簡単だった。
リゼルヴェートは落下してきた梁の下へ入り、片腕で受け止めた。重さは感じるが、押し潰されるほどではない。そのままもう片方の手を伸ばして子供を抱き寄せ、崩れかけた家屋の外へ飛び出す。
「もう大丈夫だよ」
泣き続ける子供を近くの兵士へ渡したところで、集落の反対側から轟音が響いた。
大型魔獣が前脚を振り下ろし、地面が大きく抉れている。エリゼナが《鋼迅武装》でその懐へ踏み込んでいたが、一撃で押し返すほどの差はない。周囲の兵士たちは住民を巻き込まないよう位置を変えながら攻撃しており、そのため大型魔獣へ集中しきれていなかった。
リゼルヴェートなら倒せる。
そう判断するのに迷いはなかった。
昨日まで試していた《常世星桜》を使えば、あの大型魔獣一体だけなら問題にならない。むしろ、どうすれば周囲を壊さずに倒せるかを考える方が先だった。
だが、視界へ入ってくる危険は一つではない。
大型魔獣。
火の回った家屋。
崩れかけた屋根。
逃げ遅れている住民。
狭い道へ集中し始めた避難者。
別方向から近づく魔獣。
どれか一つを選んでいる間にも、別の場所では状況が悪くなる。
「リゼルヴェート!」
イェルシェリナの声へ振り向くと、彼女は広場側へ住民を流しながらこちらを見ていた。
「大型魔獣だけを見ないで! 今は集落全体が崩れてる!」
「うん、分かってる!」
分かっているからこそ、リゼルヴェートは周囲を見渡した。
ゼルディヴァンは《群鏡演算》で危険地点を次々に拾っている。ルシェルトは避難経路を繋ぎ直し、住民が詰まらない道を作っている。イェルシェリナは兵士と住民の動きを整理し、エリゼナは大型魔獣を集落中心部へ入れないよう正面から押さえていた。
三人も、エリゼナも、王国兵も動いている。
それでも危険が多すぎる。
自分だけなら大型魔獣を倒せる。
だが、それでは足りない。
大型魔獣を倒している間に家が崩れれば意味がない。火を消している間に別の住民が襲われても駄目だ。避難路を守っている間に瓦礫が落ちれば、そこへ人を通せなくなる。
なら、一つずつ選ばなければいい。
全部守ればいい。
その考えに辿り着いた瞬間、《常世星桜》が昨日までとは違う深さで応えた。
新しい力を覚えた感覚ではなかった。
最初からそこにあったものへ、今までより広く手を伸ばしただけだった。
名前も、自然に分かった。
「——『天花照臨』」
白桃色の光が、リゼルヴェートを中心に一気に広がった。
桜金と薄藤を帯びた星桜花弁が数え切れないほど空へ舞い上がり、そのまま集落全体へ広がっていく。昨日までの《星桜千華》とは、ただ花弁の数が増えただけではない。空中、地上、家屋の隙間、避難路の周囲まで《常世星桜》の光が行き渡り、集落そのものが一つの巨大な花へ変わったように感じられた。
けれど、リゼルヴェートには一枚一枚が遠くなった感覚はなかった。
むしろ、全部が近い。
右手を伸ばす必要さえなかった。
大型魔獣がエリゼナへ振り下ろそうとしていた前脚へ花弁が殺到し、その動きを外側から弾く。同時に別の花弁が胴体へ回り込み、集落側へ踏み込もうとした巨体を押し戻した。
それだけではない。
別の通りへ入り込んだ魔獣の進路へ花弁が回り、住民へ届く前にまとめて迎撃する。崩れかけた家屋では、落下した瓦礫の下へ星桜光が広がり、住民へ届く寸前で受け止めた。
「こっち! 今なら通れる!」
ルシェルトの声が響く。
彼が確保した避難路へ、花弁が道を作るように並んでいく。倒れかけた柵を押さえ、路上へ崩れた瓦礫を端へ寄せ、住民が通る空間を維持する。
火災の熱が頬へ届いた。
燃えている家そのものをどうすればいいかは分からない。だが、崩れれば隣の建物まで巻き込む場所だけは見える。
そこへ意識を向ける。
白桃色の光が亀裂へ染み込み、崩れかけていた壁の一部が本来あるべき形へ組み直されていく。時間が戻ったわけではない。失われた部分を《常世星桜》が再び成立できる形へ整え、今すぐ崩れない状態へ繋ぎ直していた。完全に元通りにする必要はない。ただ、今すぐ倒れなければいい。避難が終わるまで支えられれば、それで十分だった。
別の場所でも同じことをする。
折れた柱。
崩れた塀。
落ちかけた屋根。
必要な場所だけを再構成し、住民が逃げるための時間を作る。
リゼルヴェート自身は一歩も動いていなかった。
それでも、視界へ入る範囲だけでは足りないほど広がった星桜花弁と光が、ゼルディヴァンの指示、ルシェルトの作った道、イェルシェリナが誘導した住民の流れに合わせるように動いていく。
「東側、二棟目が崩れる!」
ゼルディヴァンの声が届けば、そちらへ花弁を回す。
「南の路地はもう人を通せる!」
ルシェルトの声が聞こえれば、そこを塞いでいた瓦礫を支える必要はなくなる。
「広場側の避難を優先! そっちは兵が入れる!」
イェルシェリナの判断に合わせて、花弁の密度を別の場所へ移す。
一人で全部判断する必要はなかった。
三人が見ているものを聞けばいい。
その先に、自分の力を届かせればいい。
大型魔獣が再び咆哮した。
今度は迷わなかった。
住民の避難路から外れた位置へ巨体を押し戻し、周囲に誰もいないことを確認してから、戦場各所へ展開していた星桜花弁の一部を一斉に収束させる。桜金と薄藤を帯びた光の奔流が大型魔獣を包み込み、巨体は抵抗する間もなく星桜の中へ沈んだ。
轟音も、集落を巻き込む爆発も起きなかった。
光が散った後には、大型魔獣の姿だけが消えていた。
それでも花弁は止まらない。
残った魔獣を迎撃し、落下物を防ぎ、避難路を維持し、必要な場所だけを応急的に再構成していく。攻撃、防御、救援、再構築が別々に切り替わるのではなく、集落全体の異なる場所で同時に成立していた。やがて住民が危険区域から離れ、王国兵が残る魔獣を排除し終え、崩落しかけていた建物もその場で止まった。
集落を覆っていた騒音が、少しずつ小さくなる。
最後の一枚が淡い光となって消えた時、リゼルヴェートはようやく周囲を見回した。
大型魔獣はいない。
住民たちは避難できている。
崩れかけていた家屋も、少なくとも今すぐ倒れる状態ではなくなっている。
エリゼナも、王国兵たちも、少し離れた場所にいるイェルシェリナたちも、しばらく誰も言葉を発さなかった。
リゼルヴェート自身には、先ほどまでより大きな力を使ったという実感はあっても、立っていられないほどの疲労はなかった。呼吸も乱れていない。だから、これで全部止められたのならよかったと息を吐きかけた、その時だった。
左手の甲へ、突然、焼けるような熱が走った。
傷を負った覚えはない。それなのに皮膚の奥から直接熱を押しつけられたような感覚が広がり、リゼルヴェートは反射的に左手を胸元へ引き寄せた。
大型魔獣も、崩落も、住民を追う魔獣も止まった直後。
今度はリゼルヴェート自身の左手で、これまで一度も感じたことのない異変が始まっていた。




