第一章 15 『それ、本当に一つ?』
王国軍の強化標的を前に、リゼルヴェートは昨日よりも慎重に自分の右手を見下ろした。
昨日の能力確認では、壊さないつもりで放った一枚の花弁が訓練標的を大きく割っている。今回は最初から攻撃を見せるために用意された頑丈な標的とはいえ、エリゼナから求められているのは最大威力ではなく、安全な範囲で一撃を見せることだけだった。
「軽くで構いません。標的へ一撃だけお願いします。どこまで壊せるかを競うわけではありませんから」
「うん。昨日よりもっと弱くするね」
背後ではイェルシェリナたちが十分な距離を取り、ゼルディヴァンは観測のために《群鏡演算》の鏡を複数展開している。ルシェルトも標的の射線から大きく外れ、アシェラだけはいつもと変わらない様子で少し離れた場所からリゼルヴェートを見ていた。
胸の奥へ意識を向けると、《常世星桜》の力は昨日までと同じように自然に応じた。指先の前へ白桃色の光が集まり、桜金から薄藤へ色を揺らめかせながら、一枚だけ薄い星桜花弁の形を取る。
昨日はこれでも標的を壊した。だから今回は、それよりさらに弱く、表面へ小さな傷をつける程度でいいと意識する。
「——『星桜千華』」
花弁が飛んだ。
リゼルヴェート自身には、昨日よりかなり遅く、力も抑えられている感覚があった。白桃色の軌跡を残した星桜花弁は正面から標的へ触れ、大きな爆発も轟音も起こさないまま、接触した一点へ力を集中させていく。
今度こそ上手く抑えられたと思った直後、標的の中央から乾いた破砕音が響いた。
花弁は止まっていなかった。
軍用の強化標的を真正面から貫通した光が、そのまま奥の安全壁へ向かっている。標的の向こう側まで完全に抜けたことを理解した時には、白桃色の光はすでに壁の目前まで迫っていた。
壊したくない。
その意識へ反応するように星桜花弁の軌道が持ち上がり、安全壁へ正面から突き刺さる寸前で進路を変えた。表面を浅く削りながら上方へ抜け、最後には淡い光の粒となって空中へほどけていく。
壁そのものは無事だったが、表面には細長い傷が残っていた。
リゼルヴェートは伸ばしていた右手をゆっくり下ろし、穴の開いた強化標的と、その奥の安全壁を順番に見る。
「……かなり弱くしたんだけど」
すぐには誰からも返事がなかった。
標的の中央には向こう側が見えるほど綺麗な穴が開いている。昨日よりさらに出力を落としたつもりなのに、今度はより頑丈な標的を貫き、その先まで届きかけた。
「本当に?」
最初に確認したのはエリゼナだった。
「うん。昨日の標的を壊した時より弱くしたよ」
「昨日の標的?」
そこでリゼルヴェートは、前日の能力確認についてエリゼナには詳しく話していなかったことを思い出した。
ゼルディヴァンが鏡を強化標的の破損箇所へ寄せながら説明を補う。
「昨日も一度、出力を抑えて訓練標的へ使ってる。その時は半分に割った。今日は本人の感覚では、それよりさらに出力を落としてるらしい」
「それで軍用の強化標的を貫通したんですか」
エリゼナは標的へ歩み寄り、開いた穴の縁を確認してから、その奥の安全壁へ視線を移した。驚いてはいるものの、ただ圧倒されているというより、目の前で起きたことを自分の知っている基準へ当てはめようとしているように見えた。
「私の《鋼迅武装》でも、攻撃へ力を集中させれば、この程度の標的を破壊すること自体はできます」
「エリゼナの真律って、さっき三人と戦った時に使ってたの?」
「ええ。身体と装備を一体として強化して、速度や武装の性能を引き上げる近接戦闘向けの真律です。ですから、真律の攻撃力が高いというだけなら、それ自体を異常だとは言いません」
先ほどの模擬戦を思い返せば納得できた。ゼルディヴァンが動きを読み、ルシェルトが退路を作っても、その判断を押し切るほど速く間合いを詰めていたのがエリゼナだった。
ただ、彼女は標的へ残った穴をもう一度確認したあと、リゼルヴェートへ向き直る。
「ですが、あなたは武器も使っていませんし、身体ごと踏み込んだわけでもない。それに、今の一撃が本当に抑えた出力なら、どこまで威力を上げられるのかも現時点では分かりません」
「上げるつもりはなかったんだけど……」
「それは見れば分かります。むしろ今は、これ以上上げないでください」
「うん。私もそう思う」
安全壁まで傷つけかけた以上、リゼルヴェートにも異論はなかった。
エリゼナは今度はゼルディヴァンへ視線を向ける。
「旧採石路でも、今と同じ攻撃を使ったんですか?」
「基本は同じ『星桜千華』だ。ただ、あの時は複数の星桜花弁を同時に展開して、別々の魔獣へ向けてる。攻撃を受けた魔獣は切断されたあと、身体そのものが残らず消えた」
「複数を同時に?」
「ああ。少なくとも十体を超える相手を短時間で処理してる。しかも、本人が一枚ずつ細かく操作してたわけじゃないらしい」
エリゼナの視線が再びリゼルヴェートへ向いた。
「覚えていないんですか?」
「何体に何枚飛ばしたかまでは分からないの。止めなきゃって思ったら、花びらがそれぞれ動いてくれた感じだったから」
「……それだけでも十分に変わっていますね」
率直な言い方だったが、嘲るような響きはなかった。自分でも普通ではなさそうだと感じ始めていたので、リゼルヴェートは否定せずに小さく頷いた。
エリゼナは少し考えたあと、イェルシェリナへ目を向ける。
「旧採石路の報告で、能力詳細を書かなかった理由は理解しました。本人がまだ自分の真律を把握していないなら、軍側で勝手に性質を決めるべきではありません」
「分かってもらえて助かるわ」
「ただし、戦闘力についての評価は大きく修正する必要があります。少なくとも、極端に高い破壊力を持つ真律としてなら、今の結果だけでも説明はできます」
そこでゼルディヴァンが鏡を下げる。
「破壊だけならな」
エリゼナが振り返った。
「まだ何かあるんですか?」
「昨日、リゼルヴェートが壊した標的は、そのあと元に戻った」
「修理したという意味ですか?」
「違う。本人が直せないかと思っただけで、《常世星桜》の光が出て、失われた部分そのものが再び成立する形へ組み直された。割れて落ちた破片は地面に残ったままだったから、接着でもない」
今度こそ、エリゼナはすぐには返事をしなかった。
強化標的を貫通した時でさえ、自分の《鋼迅武装》と比較しながら何が異常なのか整理していた。それが再構成について聞いた途端、リゼルヴェートと標的の穴を交互に見るだけになっている。
「本当に直ったよ。私も、どうして直ったのかは分からないけど」
「攻撃に使ったのと同じ真律で?」
「うん。《常世星桜》だったと思う。別の力を使った感じはしなかったよ」
「再構成用の技名は?」
「ない。少なくとも本人は知らないし、俺たちも勝手に名前は付けてない」
ゼルディヴァンの補足を聞き終えたあとも、エリゼナはしばらく黙ったままだった。
リゼルヴェートには、そこまで変なことなのかまだ完全には分からない。昨日、《原象》について教えられた時、一つの真律でも使い方によって複数の現象を起こすことはあると聞いた。ただし、ゼルディヴァン自身も《常世星桜》については一つの真律として説明がつかないと言っている。
どうやら、軍人であるエリゼナから見ても同じらしい。
「……それ、本当に真律一つなの?」
「一つだと思うんだけど……」
そう答えながらも、リゼルヴェート自身には断言できるだけの知識がなかった。
その直後、訓練施設全体を切り裂くような鋭い警報音が響いた。
演習区画で訓練していた軍人たちの動きが一斉に変わる。武器を交えていた者たちは即座に手を止め、待機していた者たちも装備を確かめながら出入口や施設奥へ走り始めた。
リゼルヴェートが周囲を見回す間にも、エリゼナの表情から先ほどまでの困惑が消え、模擬戦の時よりさらに鋭いものへ切り替わっていく。
近くを駆け抜けた軍人の声が訓練場へ響いた。
「――王都近郊の集落付近に大型魔獣! 現地から緊急要請!」
大型魔獣がどの程度の脅威なのか、リゼルヴェートにはまだ分からない。それでも訓練施設全体が迷いなく動き始めたことで、普通の魔獣とは扱いが違うことくらいは理解できた。
「私は現場へ向かいます」
エリゼナが即座に出入口へ身体を向けると、イェルシェリナも続いた。
「私たちも状況を確認するわ。情報が足りないまま勝手に戦闘へ入るつもりはないけれど、ここで何も知らずに待っている理由もない」
ゼルディヴァンはすでに《群鏡演算》の鏡を展開し、ルシェルトも移動経路を確認するため周囲へ視線を巡らせている。
リゼルヴェートには、自分だけ残るという選択肢は最初から浮かばなかった。
「私も行く」
イェルシェリナが一度だけこちらを見る。
「危険な状況なら、まず私たちと情報を共有すること。勝手に一人で飛び出さない。それを守れる?」
「うん。でも、誰かが襲われてるなら助けたい」
「分かったわ。アシェラも一緒ね?」
「……うん」
警報はまだ鳴り続けていた。
エリゼナを先頭に軍人たちが次々と訓練施設を飛び出し、その流れへ続くようにイェルシェリナたちも走り出す。つい先ほどまで、自分の一撃が強すぎることを気にしていたリゼルヴェートも、その力が必要になるかもしれない場所へ向かうため、三人とアシェラと共に訓練場を後にした。




