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第一章 12 『真律というもの』





 訓練用の標的を前に立ってから、リゼルヴェートはすでに三回ほど「壊さないように」と念を押されていた。


 昨日、旧採石路で十体を超える魔獣をまとめて消してしまったことを考えれば、三人が慎重になる理由は分かる。それでも目の前に置かれているのは攻撃を受けるための訓練標的なのだから、多少傷つけるくらいなら問題ないのではないかと思っていたところへ、イェルシェリナから四度目の注意が飛んできた。


「確認しておくけれど、今日は標的を壊すことが目的じゃないからね」


「分かってるよ。昨日よりずっと弱くする」


「それならいいけれど、昨日と比べて弱いでは基準にならないわよ」


 イェルシェリナの横では、ゼルディヴァンが《群鏡演算》で生み出した複数の鏡を標的の正面や側面へ配置している。リゼルヴェートが何を起こしたのか少しでも多く観測するためらしく、鏡面の一つは標的へ、別の一つはリゼルヴェート自身へ向けられていた。


「昨日と同じ出力をそのまま使われたら、標的どころか確認そのものが一瞬で終わる。今回は威力を見るんじゃなく、どこまで抑えられるかを確認する」


「ちゃんと抑えるよ」


「その台詞を信じたいから、俺は少し遠くにいるな」


 ルシェルトはそう言いながら、すでに十分離れていた位置からさらに数歩下がった。


「標的に向けるんだから、ルシェルトには当てないよ?」


「昨日、その標的よりずっと動く魔獣を何体もまとめて消した奴に言われても、安心材料としては弱いんだよ」


「私、ちゃんと助けたのに……」


「それとこれとは別だ」


 昨日噛まれかけた本人に言われると強く反論しづらく、リゼルヴェートは少しだけ頬を膨らませながら標的へ向き直った。


 アシェラはその少し後ろに立っている。昨日の力について何か知っていそうだったにもかかわらず、結局「今は話さない」としか答えなかった少女は、今日も普段と変わらない表情のまま能力確認へついてきていた。


 いざ始めようとしたところで、イェルシェリナがリゼルヴェートを呼び止める。


「使う前に、昨日ほとんど説明できなかった《真律》について少しだけ話しておきましょう。自分の力を確かめるなら、それがこの世界でどう扱われているものなのかくらいは知っておいた方がいいわ」


「真律って、ゼルディヴァンたちが使ってた特別な力だよね?」


「そう。普通の魔法とは別に、その人自身が持つ固有の力よ。ただ、真律だけ説明するより、先に普通の魔法がどういうものなのか知っていた方が分かりやすそうね」


 そう言ってイェルシェリナが視線を向けると、ゼルディヴァンは手元へ鏡を一枚寄せながら説明を引き継いだ。


「この世界の人間は、基本的に全員が源素(オリジア)を持ってる。普段は単に魔力って呼ばれることも多いけど、魔法を使う時に扱ってる力の元がそれだ。体の中には《源環》っていう源素を巡らせる仕組みがあって、だから得意不得意はあっても、魔法そのものと完全に無縁な人間はほとんどいない」


 王都で荷物が勝手に宙を進んでいたことや、店や建物の中で当たり前のように使われていた小さな魔法を思い出す。日本では特別だったはずの光景が、この世界では生活の一部として扱われている理由も、全員が何らかの形で魔法を使えるなら理解しやすかった。


「じゃあ、真律は全員が持ってるわけじゃないんだ?」


「ああ。一部の人間だけだ。それに、普通の魔法みたいに誰かから術式や使い方を習って、同じものを再現する力でもない。俺の《群鏡演算》とルシェルトの《道界標》がまるで違うように、基本的にはその人だけの固有能力だと思えばいい」


「イェルシェリナの《誓環律》も同じ?」


「ええ。私の真律も私自身のものよ」


 イェルシェリナの指先へ、昨日見たのと同じ細い光の輪が一瞬だけ浮かんだ。


「それと、真律は原則として一人につき一つ。だから、昨日あなたが使った《常世星桜》も、今の段階ではあなた自身の真律だと考えるのが一番自然ね」


「一人に一つ……」


 リゼルヴェートは自分の右手を見る。


 昨日まで、自分にそんなものがあるとは知らなかった。ルシェルトを助けたいと思った瞬間、《常世星桜》という名前と——『星桜千華(アストラ・フロレア)』という技の使い方が、昔から知っていたもののように自然と浮かんだだけだ。


 それを自分だけの力だと言われても、まだ実感より疑問の方が大きかった。


「でも、昨日分かったのって、花びらで攻撃できることくらいだよね? それだけでどんな真律なのか分かるの?」


「分からない。だから今日確認する」


 ゼルディヴァンは迷わず否定した。


「昨日見た一回だけで、能力全体を決めつけるつもりはない。攻撃できることは分かったけど、同じ攻撃をどこまで弱くできるのか、それ以外に何ができるのかもまだ不明だ。ただし今日は限界を調べるんじゃなく、安全な範囲で扱えるかを見る」


「なるほど……だから壊さないようにって何回も言われたんだ」


「ようやく重要さが伝わったか」


「最初から伝わってたよ!」


 反論したところで、イェルシェリナが少し声を柔らげた。


「もう一つ、始める前に決めておきたいことがあるわ。昨日も少し話したけれど、この確認はノルシェリア派があなたの力を調べるための実験じゃない」


「違うの?」


「少なくとも私は、そういう扱いを認めるつもりはない。あなたの力はあなたのものよ」


 イェルシェリナの言葉には迷いがなかった。


「真律がどれだけ強かったとしても、その力の帰属まで勝手にノルシェリア派へ移るわけじゃない。誰に見せるか、どこまで確かめるか、結果を誰へ伝えるかも、まずあなた自身の意思を確認する。本人が了承していないのに実験を続けたり、能力の詳細を勝手にどこかへ提出したりするつもりもないわ」


「私が途中で嫌って言ったら?」


「そこでやめる。もちろん、自分でも分からない力を放置する危険性は説明するし、確認した方がいいと思えばそう勧めるわ。でも、勧めることとあなたの意思を無視することは別でしょう?」


 その答えを聞いて、リゼルヴェートは胸の奥にあった小さな緊張がほどけていくのを感じた。


 自分でも知りたいと思っている。昨日のようなことがまた起こるなら、何ができて何ができないのかくらいは把握しておきたいし、誰かを助けるために使う時、毎回あれほどの威力が出てしまうのも困る。


「じゃあ、やる。私もちゃんと自分の力を知りたいから」


「分かったわ。それなら始めましょう」


 イェルシェリナが場所を空け、ゼルディヴァンは鏡を標的へ向け直した。ルシェルトも十分な距離を保ったまま構え、アシェラだけは最初からほとんど立ち位置を変えていない。


 リゼルヴェートは改めて標的へ向き直り、昨日の感覚を思い返した。ルシェルトを助けたいと思った瞬間、《常世星桜》という名前を認識すると同時に、胸の奥から自然に力が流れ出した。今も意識を向ければ、同じものが自分の中にあることははっきり分かる。


 ただし今日は、昨日と同じ強さでは困る。


「本当に弱くね」


「五回目だよ!」


「ちゃんと数えてたのか」


「ルシェルトまで言わないでよ!」


 背後から返ってきた声に抗議しながらも、リゼルヴェートは右手を標的へ向ける。


 指先の前へ白桃色の光が生まれ、桜金から薄藤へ色を揺らめかせながら、一枚だけ小さな星桜花弁の形を取った。昨日は相手を止めることだけを考えていたが、今日は標的を消したいわけでも、大きく壊したいわけでもない。


 少しだけ傷をつける。


 その程度でいいと意識する。


「いくね」


 花弁が飛び、白桃色の軌跡を残して標的の中央へ触れた。昨日のように視界から消えるほどの速度ではなく、爆発も起きない。これなら上手く抑えられたのではないかと思った直後、接触した一点へ収束した力が標的の内部まで鋭く通り、そこから細い亀裂が左右へ走った。


 乾いた破砕音とともに標的の上半分が大きく割れ、片側が地面へ落ちる。


 リゼルヴェートは割れた標的と自分の指先を見比べた。


「……かなり弱くしたんだけど」


「昨日と比べればな」


 ゼルディヴァンは鏡越しに破断面を確認している。


「比較対象が魔獣をまとめて消した昨日なのがおかしいのよ。標的を壊さないことが今日の目的だったでしょう?」


「だから何回も言っただろ」


「二人とも同時に責めないでよ!」


 壊してしまったものは戻らない。


 リゼルヴェートは申し訳なくなりながら標的へ近づき、地面へ落ちた大きな破片の前でしゃがみ込んだ。花弁が触れた場所を中心に綺麗な亀裂が走っており、このままでは訓練用として使い続けるのは難しそうだった。


 せっかく用意してもらったのだから、元に戻せるなら戻したい。


「これ、直せないかな……」


 誰かへ尋ねたわけではなく、破損した標的を見ながら自然に漏れただけだった。


 その瞬間、地面に落ちた破片の縁へ白桃色の光が滲んだ。


「え?」


 今度は攻撃しようとも、技を使おうともしていない。


 それでも光は桜金と薄藤の輝きを帯びながら破断面へ広がり、欠けた標的の側から失われた部分を補うように形が組み直され始めた。地面に転がっている破片を無理やり接着しているのではなく、残っている形を基準に、壊れて成立しなくなった部分そのものが再び繋がるように再構成されていく。


 リゼルヴェートはしゃがんだ姿勢のまま、その変化から目を離せなかった。


 広がっていた亀裂が塞がり、欠けた面が滑らかに繋がる。最後に淡い光が標的全体をなぞって消えた時には、ほんの少し前まで大きく割れていたことが信じられないほど、本来の形へ再構成されていた。


 攻撃したいと思えば、光の花弁が対象を壊した。


 今度は直したいと思っただけで、その壊れたものが失われた形を補いながら再び成立するように組み直された。


 どちらも自分の中にある《常世星桜》から起きたことだけは感覚で分かるのに、なぜ一つの真律で正反対に見える現象が起きるのかは、リゼルヴェート自身にもまったく分からなかった。


 答えを求めるように振り返ると、イェルシェリナも、ゼルディヴァンも、ルシェルトも、完全に元へ戻った標的を見つめたまま動きを止めていた。


 三人とも、何も言わなかった。





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