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第8話「王都からの傲慢な使者と、返り討ちの契約書」

 グレンツ辺境伯領が『氷蜜リンゴ』や『黄金ジャガイモ』の大豊作に沸き返っていた十月中旬のある日。

 グレンツ城の正門前に、派手な金色の紋章を掲げた一台の馬車が乗り付けた。馬車にはオルコット侯爵家の家紋が刻まれており、中から降りてきたのは、見覚えのある傲慢な顔つきの男――セドリック様の腹心である執事のギルバートと、数名の護衛騎士たちだった。


「ふん、なんて泥臭くて寒々しい田舎町だ。おい、門番! 王都のオルコット侯爵家から、その家に拾われたフィーネ・ヴァルハイトに慈悲の通達を持ってきてやったぞ。さっさと領主の広間へ案内しろ!」


 横柄な態度で怒鳴り散らすギルバートを、アシェル様はあえて追い返さず、城の謁見の間へと通させた。

 広間の正面には、漆黒の軍服に身を包んだアシェル様が氷の彫像のような威圧感を放って座り、そのすぐ隣の特別席には、清楚な深緑のドレスを着た私が並んで腰を下ろしていた。


 広間に入ってきたギルバートは、私の顔を見るなり、値踏みするような嫌らしい笑みを浮かべた。


「やあ、久しぶりだなフィーネ嬢。実家からも勘当され、こんな北の果ての蛮地に追いやられて、さぞかし惨めに泣き暮らしていることだろうと思っていたが……ほう、意外と血色がいいではないか」


 私は表情一つ変えず、静かに応じた。


「ご機嫌よろしゅうございます、ギルバート殿。私はアシェル様と領民の皆様に温かく迎えられ、毎日とても幸せに暮らしております。して、本日オルコット侯爵家が私に何の御用でしょうか?」


 するとギルバートは、懐から一通の羊皮紙を取り出し、尊大に胸を反らせた。


「実はな、我がオルコット侯爵領では今年、天候不順のせいか、少しばかり畑の収穫が芳しくなくてな。セドリック様が『そこまで言うなら、フィーネの得意な土いじりで畑を元通りにする機会を与えてやってもよい』と、寛大にも仰せなのだ!」


 ギルバートは羊皮紙を広げて読み上げ始めた。


「もちろん、正妻の座は偉大なる『花の乙女』ミリアム様のものゆえ、貴様を正妻に戻すことはできん。だが、特別にオルコット侯爵家の『農政顧問兼・側室《めかけ》』として屋敷の離れに住まわせ、我が領地とヴァルハイト伯爵領の畑の管理をすべて任せてやる! さらに、最近この辺境で採れているという甘いリンゴと新種の小麦の種も、手土産としてオルコット家にすべて献上することを許可する! どうだ、涙が出るほどありがたいお話だろう!」


 広間の隅に控えていたマルクスさんや騎士たちが、あまりの厚顔無恥な言い分に顔を真っ赤にして怒りに震えた。

 私は呆れ果ててため息をつくよりも先に、思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、一歩前へと進み出た。


「……ギルバート殿。いいえ、セドリック様への伝言として、はっきりとお答えいたしますわ。『断固としてお断りいたします』」


「なっ……!? き、貴様、自分がどういう立場か分かっているのか!? 実家から勘当された行き遅れが、天下のオルコット侯爵家からの温情を断るだと!?」


 顔を真っ赤にして怒鳴るギルバートに、私は冷ややかな視線を向けた。


「温情ですって? 半年前の夜会で、セドリック様は皆の前でこう仰いましたわね。『我が領地の豊作は俺の経営手腕であり、貴様の書いた泥臭い計画書など焚き付けにしかならない』と。そして私の父も、私と完全に縁を切ると一筆書いてよこしました。法的にも道義的にも、私にはオルコット侯爵家やヴァルハイト伯爵家の畑を助ける義務など、塵《ちり》ほどもございません」


「ぐっ……! だ、だが、貴様が三年前に作った計画書は、我が侯爵家の財産だ! 続きの計画書を提出する義務があるはずだ!」


「残念ながら、私が三年間無償で提供していた計画書は、婚約期間中のみの『個人的な貸与』という取り決めになっております。そして今年の最新版は、あの夜会の場でセドリック様が受け取りを拒んで暖炉に捨てようとされたところを、こちらのアシェル様が正当に引き取られました。――それともオルコット侯爵家は、『泥人形』と罵って追い出した女の知恵を借りなければ、ご自分の領地の麦一つ満足に育てられないほど無能だと、王都中に触れ回ってほしいのですか?」


「き、貴様ぁっ……!! 女だと思って増長しおって! おい、護衛ども! この女を無理やりにでも馬車へ――」


 ギルバートが護衛騎士に命じて私の腕を掴もうと踏み出した、その瞬間だった。


 ――ガァンッ!!


 凄まじい金属音と共に、アシェル様が腰の氷剣を鞘《さや》ごと床に突き立てた。

 同時に、広間全体の空気が瞬時に凍てつくような、凄まじい『氷狼』の覇気が迸《ほとばし》った。


「ひっ、ひいいいっ!?」


 護衛騎士たちは一歩も動けずにその場に膝から崩れ落ち、ギルバートは喉をかきむしりながら尻餅をついた。

 アシェル様がゆっくりと領主席から立ち上がり、氷刃のような氷碧の瞳でギルバートを見下ろす。


「……俺の城で、俺の最愛の婚約者の指先一つにでも触れてみろ。その瞬間に、貴様らの首を北の国境に晒し、オルコット侯爵家が辺境伯領へ武力侵攻を企てたとして王都の最高法院へ突き出すぞ」


「あ、あわわ……っ! へ、辺境伯閣下、わ、私はただセドリック様の命令で……!」


「セドリック・オルコットにこう伝えろ。『君がゴミのように捨てた女性は、今や北の大地を黄金に変えるグレンツ辺境伯の唯一無二の正妃《せいひ》候補だ。二度とその汚れた口でフィーネの名を呼ぶな。次に使者を寄越した時は、我が氷狼騎士団の槍の穂先で返事をする』とな!」


「ひぃぃっ! わ、分かりました! お伝えしますぅっ!」


 ギルバートは失禁せんばかりの有様で這いずるように広間から逃げ出し、馬車に飛び乗って王都の方角へと全速力で駆け去っていった。

 嵐のように去っていった使者の背を見送り、マルクスさんや騎士たちから「ざまあみろだ!」「お館様、フィーネ様、最高に胸がすく思いでございました!」と大喝采が上がった。


 私は少しだけ緊張の糸を緩め、隣に立つアシェル様を見上げた。


「ありがとうございます、アシェル様。……でも、オルコット侯爵家があんなにも焦って使者を寄越したということは、向こうの畑は私が予想していた以上に深刻な状態になっているようですわね」


「ああ。王都に放っている密偵からの報告でも、オルコット領とヴァルハイト領の秋の収穫は壊滅的だと聞いている。……だがフィーネ、君は本当に心を痛めなくていいのか?」


 心配そうに覗き込むアシェル様に、私は凛として微笑み返した。


「私が心を砕くべき大地は、もう王都にはありません。私の持てるすべての力と愛情は、私を信じ、愛してくださったアシェル様と、このグレンツ領の土のためだけに捧げると決めたのですから」


 私の言葉に、アシェル様の瞳から険しい氷の色が消え、とろけるような甘い熱が灯った。

 彼は周囲に家臣たちがいるのも構わず、私の手を取ってその甲に熱い口づけを落とすと、「俺も生涯、君だけを守り抜く」と力強く誓ってくれたのだった。

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