第6話「冷害を越える『琥珀小麦』と、星空の温室」
七月に入ると、緑肥を鋤き込んでふかふかに熟成された畑の区画では、いよいよグレンツ領の命運を握る主食――春に蒔いた小麦と『馬鈴薯』の本格的な育成期に入った。
しかし、北方の夏には、領民たちが何よりも恐れる最大の試練が待ち受けていた。
それは、北東の氷海から山脈を越えて吹き下ろしてくる、冷たく湿った偏東風――通称『氷霧風』である。この風が数日間吹き続けると、真夏であっても気温が十度近くまで急降下し、日照不足と低温によって小麦が実らなくなる「冷害」が発生するのだ。
「フィーネ様、北東の空に鉛色の雲が出始めましたぜ……。今年も『氷霧風』がやってきますだ」
畑の畔で、マルクスさんが険しい顔で空を見上げた。
肌を刺すような冷たい風が吹き始め、せっかく穂を出し始めたばかりの小麦たちが、ブルブルと震えるように揺れている。
「大丈夫です、マルクスさん。この風が来ることは、過去の気象記録と土の記憶から分かっていました。だからこそ、私たちは三つの対策を準備してきたのですから!」
私は力強く頷き、畑の北東側を指差した。
まず一つ目の対策は、春先からアシェル様の騎士団に協力してもらい、畑の北東の境界線に沿って幾重にも築いた『防風林と石垣の土塁』だ。植えたばかりの白樺と針葉樹の若木の風上に、暗渠工事で掘り出した大量の石を積み上げた防風壁が立ち、冷たい風の直撃を遮って、風速を半分以下に弱めている。
二つ目の対策は、畝の作り方だ。
「見てください。小麦とジャガイモの畝を、通常よりも五寸(約十五センチ)高く盛り上げ、さらに太陽の光が一番よく当たるように『南北方向』へ真っ直ぐ並べてあります。そして株元には、熱を吸収しやすい『黒い炭の粉(くん炭)』と完熟堆肥を厚く敷き詰めてあるので、わずかな日差しでも土が温まり、夜になっても根元の温度が下がらないようになっているのです!」
そして三つ目の、最も重要な対策が――私がここ数ヶ月、『土壌対話』の応用で種子の生命力を一つずつ確かめながら選び抜いた、特別な小麦の品種だった。
「この畑に植えてあるのは、普通の小麦ではありません。グレンツ領のさらに北、雪山の麓の厳しい岩場で奇跡的に自生していた野生の麦と、粒の大きい小麦を掛け合わせ、私が一粒ずつ寒さに強い種だけを選抜した新種――『琥珀小麦』です!」
私は小麦の穂にそっと手を触れ、自分の魔力を細く優しい糸のようにして、一株一株の根へと巡らせた。
ミリアムのように「無理やり花を咲かせて栄養を奪う」魔術ではない。植物自身が本来持っている「寒さに耐えて糖分とデンプンを蓄える力」を、後ろからそっと支えて励ますような微細な魔力付与だ。
さらに、川の水をそのまま畑に入れると水温が低すぎて根を傷めてしまうため、畑の脇に浅く広い『温水溜め池』を掘り、太陽の熱で水を温めてから畑へと引き込む工夫も施していた。
「す、すげえ……! 冷たい風が吹いているのに、防風壁の内側の畑は風が穏やかで、しかも土に触るとほんのり温かいぞ!」
「小麦の茎も、今までのひょろひょろした麦と違って、太くて青々としてやがる!」
農夫たちが歓声を上げた。
しかし、私は昼間の畑仕事だけでは終わらなかった。城の敷地内に新設した『ガラス温室』で、さらなる特産品の研究を続けていたのだ。
グレンツ城の地下には、火山地帯特有の『温泉脈』が流れていた。これまでは城の浴場にしか使われていなかったその温泉の湯を、粘土を焼いて作った土管に通してガラス温室の床下へと巡らせることで、真冬でも室温を二十五度以上に保てる『地熱温室』を完成させたのである。
その夜、夜更けの鐘が深夜の十二時を告げた頃だった。
ランタンの明かりを頼りに、温室の中で赤い『甘露トマト』と『黄金メロン』の花の受粉作業を続けていた私の背後に、静かな足音が近づいてきた。
「――やはりここにいたか、フィーネ」
振り返ると、そこには執務を終えたばかりのアシェル様が立っていた。
彼は手に湯気の立つマグカップを二つ持ち、少し困ったように眉を寄せて私を見下ろした。
「もう夜中の十二時を過ぎているぞ。昼間は氷霧風の対策で領内の畑を駆け回り、夜は温室にこもりきりでは、いくら君でも体を壊してしまう」
「あ、アシェル様……! すみません、つい夢中になってしまって。このトマトの花、明日の朝までに受粉させておくと、ずっと実つきが良くなるものですから……」
私が照れくさそうに筆を置くと、アシェル様はため息をつきながらも、自分の肩にかけていた濃紺の騎士団長マントを外し、私の肩へと優しく包み込むように羽織らせてくれた。
マントから漂う、アシェル様の清潔な白檀と温かい体温の香りに、私の胸がキュッと高鳴る。
「ほら、これを飲みなさい。君が先日作ってくれた『白詰草の蜂蜜』と、生姜を入れたホットミルクだ」
「まあ……アシェル様がご自分で淹れてくださったのですか?」
「ああ。料理長のハンナに作り方を教わった。……少し生姜を入れすぎたかもしれないが」
手渡されたマグカップを両手で包み込み、一口飲むと、濃厚なミルクの甘みと蜂蜜の華やかな香り、そして生姜のポカポカとした温かさが喉の奥へと広がった。
温室のガラス天井を見上げれば、冷たい氷霧風が雲を吹き飛ばした後の、こぼれ落ちそうな満天の星空が煌めいている。
ベンチに並んで腰を下ろすと、アシェル様が私の肩をそっと引き寄せ、自分の広い肩へと私の頭をもたれかけさせた。
「フィーネ。領民たちは皆、君のことを『豊穣の聖女様』と呼んで感謝している。俺も同じだ。……だが、俺にとって君は聖女である前に、世界でたった一人の大切な婚約者だ」
アシェル様の大きな手が、私の少し冷えた指先を包み込むように握りしめる。
「領地が豊かになるのは嬉しい。けれど、それで君が倒れてしまったら、俺は何のためにこの地を守っているのか分からなくなる。どうか、俺のために、もう少しだけ自分の体を甘やかしてはくれないか。……君が頑張りすぎてしまうことが、今の俺の唯一の心配なのだ」
耳元で囁かれた、不器用で、けれど痛いほど真っ直ぐな愛の言葉。
「もっと働け」「成果を出せ」としか言われなかった王都での日々が、遠い昔の悪夢のように溶けていく。
「……はい、アシェル様。今日からは、毎日必ずあなたと一緒に夕食をとって、同じ時間に眠ると約束します。だから……あと五分だけ、こうしてあなたの肩を貸していただけますか?」
私が上目遣いに尋ねると、アシェル様は耳まで真っ赤に染めながら、私を抱く腕にぎゅっと力を込めた。
「……五分と言わず、朝まででも構わない」
星空の温室の中で、私たちは互いの温もりを確かめ合うように、静かで甘い時間を分かち合ったのだった。




