第5話「根粒菌の魔法と、凍土を覆う緑の絨毯」
試験圃場での『紅白丸大根』と『雪割りほうれん草』の大成功は、瞬く間にグレンツ辺境伯領の村々へと知れ渡った。
これまで「王都から来たお姫様の気まぐれ」と遠巻きに見ていた各村の村長や篤農家たちが、毎日のように城の試験圃場へと詰めかけ、黒々と輝く畝と瑞々しい野菜を見ては驚嘆の声を上げていた。
「フィーネ様、どうかおらたちの村の畑も診てくだせえ!」
「わしらの村でも、あの白い灰と暗渠ってやつをやりてえのです!」
五月の爽やかな風が吹く城の中庭で、集まった三十人以上の村長たちを前に、私は大きな領地地図を広げていた。
私の隣には、領主であるアシェル様が腕を組んで立ち、頼もしい眼差しで私を見守ってくれている。
「皆様、熱意を持って集まってくださりありがとうございます。ですが、領地全体の広大な畑を一度に改良するには、ひとつ大きな問題があるのです」
私が地図上の広大な農地を指差すと、村長たちは首を傾げた。
「問題と申しますと? 北の崖の石灰岩なら、お館様が兵を出して掘り出してくださると聞きましたが……」
「はい、酸度を直す石灰は足ります。けれど、決定的に足りないものがあります。それは、作物の体を作るために一番必要な『窒素』――つまり、厩舎の馬糞や家畜の堆肥ですわ」
私は分かりやすく説明を続けた。
「城の小さな試験圃場なら、軍馬の厩舎から出る堆肥だけで足りました。しかし、グレンツ領全体の何千町歩という畑に撒くには、領内の家畜をすべて集めても堆肥が十分の一も足りません。かといって、石灰だけを撒いて作物を育てれば、土の中に元々あった栄養を一度で使い果たし、翌年にはもっと酷い痩せ地になってしまいます」
「そ、そんな……。では、どうすればいいのですかい?」
不安そうにざわめく村長たちに、私はニッコリと微笑み、足元の麻袋から小さな茶色い種をすくい上げて見せた。
「そこで使うのが、この『白詰草』と『紫雲英』、そして『寒地エンドウ』といったマメ科の植物たちです! 今年、領内の畑を三つの区画に分けます。一つの区画には主食の麦と芋を植え、もう一つの区画には根菜を植え、そして残りの三分の一の休耕地には、このマメ科の種を一面に蒔いて『緑の絨毯』を作るのです!」
「はあ……? せっかく石灰を撒いた畑の三分の一に、人間が食えねえ雑草の白詰草を蒔くんですかい!?」
老農夫のマルクスさんまでが目を丸くした。
私は、あらかじめ試験圃場の隅で育てておいた白詰草の株を鉢から抜き、その根っこをみんなの前に掲げて見せた。
「皆様、この根っこについている、小さな白い粒々が見えますか?」
村長たちが身を乗り出して覗き込む。細い根のあちこちに、直径一ミリほどの小さな丸いコブがたくさんついていた。
「おや、本当だ。虫の卵かね?」
「いいえ、これが大地の魔法使い――『根粒菌』のお家です! 私たちが吸っているこの空気の中には、実は植物の大好物である『窒素』が無尽蔵に漂っています。でも、普通の麦や野菜は、空気中の栄養を直接吸うことができません。ところが、このマメ科の根に住み着く根粒菌だけは、空気中の栄養を吸い取って、植物が食べられる極上の肥料へと変える特別な力を持っているのです!」
私が『土壌対話』と微細な魔力をその根に注ぎ込むと、淡い緑色の光の粒子がふわりと浮かび上がり、根のコブがいかに活発に養分を生み出しているかが視覚的にも伝わった。
「おおお……! 根っこが光ってやがる!」
「白詰草やエンドウを育てて花が咲いた頃に、それを抜かずにそのまま畑の土へと鋤き込んでしまうのです。これを『緑肥』と呼びます。家畜の糞が足りなくても、空から無限に栄養を集めて土をふかふかにしてくれる、天然の肥料工場です! さらに、来年はそこに麦を植え、麦を刈った跡にはまたマメ科を植える……という風に順番に作物を回す『輪作』を行えば、グレンツ領の土は毎年どんどん豊かになっていきます!」
「空から肥料を集める草……! そして畑を順番に回す輪作……!」
村長たちの顔が、みるみるうちに希望で紅潮していく。
そこへ、アシェル様が低く力強い声で言葉を添えた。
「今年、緑肥を植えるために三分の一の畑を休ませることで減る分の食料は、すべて城の備蓄庫から無償で補填する。さらに、石灰の運搬と暗渠の掘削には、国境警備の非番の騎士団をすべて動員すると約束しよう。皆、フィーネの言葉を信じて、この大改革に力を貸してくれるか!」
「もちろんでございます、お館様! フィーネ様!」
「おらたちの手で、死の灰土を黄金の大地に変えてみせますだ!」
村長たちの力強い鬨の声が、青空へと響き渡った。
それから一ヶ月後。六月の訪れと共に、グレンツ領の風景は劇的な変化を遂げていた。
かつて黒々と荒れ果てていた広大な休耕地が、見渡す限りの『白詰草』の白い花と、『紫雲英』の紅紫色の花で埋め尽くされ、まるで極彩色の絨毯を広げたような絶景へと変わったのである。
さらに嬉しい副産物もあった。その広大な花畑にミツバチたちが群がり、驚くほど透明で香り高い『白詰草の百花蜜』が大量に採れるようになったのだ。そして、一部を刈り取って牛や羊に与えたところ、栄養満点の牧草のおかげで、家畜たちの乳の出までが倍増したのである。
「すごいな、フィーネ……。花が咲いて領地が美しくなっただけでなく、蜂蜜とミルクまで手に入り、そのうえ来年の土まで肥えるとは、一石三鳥どころか四鳥ではないか」
花の香りに包まれた丘の上で、アシェル様が感嘆の息を漏らした。
私の髪に舞い落ちた白詰草の花びらを、アシェル様の長い指がそっと摘み取る。その指先が私の耳元に触れ、私は思わずドキリとして顔を上げた。
「アシェル様……」
「……昔、母が生きている頃、よくこの白詰草で花冠を作ってくれたのを思い出した。だが、今こうして花畑の真ん中で微笑んでいる君は、どんな花よりも俺の目を奪って離さない」
真面目な顔でそんな甘い言葉を口にするアシェル様に、私の頬は紫雲英の花よりも真っ赤に染まってしまった。
冷たい風が吹いていた北の大地に、今、確かな春の息吹と、甘く温かい風が吹き始めていた。




