第4話「二十日大根の奇跡と、辺境伯の不器用な笑顔」
試験圃場に種を蒔いてから、五日が過ぎた。
北方のグレンツ領では、四月に入っても朝晩は氷点下近くまで冷え込み、日中の日差しも王都に比べればずっと弱い。普通の畑なら、種を蒔いてから芽が出るまでに二週間以上かかり、その間に遅霜にやられて腐ってしまうことも珍しくなかった。
しかし、六日目の早朝。
まだ朝霧が立ち込める試験圃場へと足を運んだ私を待っていたのは、驚くべき光景だった。
「フィーネ様っ! で、出ましたぜ! 本当に芽が出やがった!」
畑の入り口で、老農夫のマルクスさんが腰を抜かしたようにへたり込み、畝の上を指差して叫んでいた。
私が駆け寄って夜露よけの藁のトンネルをそっと持ち上げると、真っ黒でふかふかな土の表面を押し上げて、鮮やかな緑色をしたハート型の双葉が、何百、何千と一斉に顔を出していたのである。
「まあ……! なんて力強い双葉かしら!」
私はしゃがみ込み、小さな双葉の脇の土に指先を触れさせた。
『土壌対話』を通じて伝わってくるのは、地下の醸熱温床が保つ二十度前後の心地よい地温と、石灰によって中和された土からリン酸や窒素をゴクゴクと吸い上げる、若々しい根の歓喜の声だった。
「信じられねえ……。お館様の領地で、種を蒔いてたった五日でこんなに見事な芽が揃うなんて、わしは六十年百姓をやってきて一度も見たことがねえだ……!」
マルクスさんが目尻の皺に涙を浮かべて震えている。
それからさらに十九日間、私は毎日欠かさず畑に通い、日中の気温に合わせて藁のトンネルを開閉し、草木灰の上澄み液を薄めた手作りの液体肥料を与え、間引きを行った。
そして、種を蒔いてからちょうど二十五日目の朝。
畝の上には、太陽の光を浴びてツヤツヤと輝く濃い緑色の『雪割りほうれん草』の葉が茂り、その隣の畝では、土の表面からルビーのように真っ赤で丸々とした『紅白丸大根』の根が、いくつも窮屈そうに肩を並べて飛び出していた。
「すごい……! マルクスさん、見てください! もう収穫できます!」
私が一株の紅白丸大根を引き抜くと、根の先端まで真っ白な細根がびっしりと張った、直径一寸(約三センチ)を超える見事な丸大根が姿を現した。
通常の北方栽培では、栄養不足でスが入ってしまい、親指の先ほどの大きさで辛味ばかり強くなるはずの品種が、まるで宝石のように瑞々しく、はち切れんばかりに太っているのだ。
「早速、井戸水で洗って味見をしてみましょう!」
私が洗い桶の冷たい水で泥を落とすと、赤い皮がキュッと音を立てて輝いた。
包丁で半分に切り、マルクスさんに手渡す。断面は透き通るような純白で、切り口から甘い水分がじゅわっと溢れ出した。
「い、いただきますだ……」
マルクスさんが口に放り込むと、シャクッ! という小気味よい音が畑に響いた。
その瞬間、老農夫の目がカッと見開かれた。
「あ、甘え……!! なんだこりゃあ!? 大根の嫌な辛みや苦みがちっともなくて、まるで果物の梨みてえに瑞々しくて甘いぞ! それに、こっちのほうれん草の茎の根元は、噛むほどに蜜みてえなコクがある!」
集まってきた他の農夫たちも次々と試食し、「うめえ!」「これが本当にあの呪われた黒土から採れた野菜なのか!?」と大騒ぎになった。
「土壌の酸度を正して、リン酸とミネラルをしっかり吸えるようにしてあげたからです。それに、北方の『昼と夜の激しい寒暖差』は、本来なら作物にとってストレスになりますが、根が温かく健康であれば、作物は夜間の凍結から自分の身を守るために、葉や根の中に『糖分』をたくさん蓄えるんです! つまり、このグレンツ領の厳しい寒さこそが、野菜を世界一甘くする最高のスパイスだったんですよ!」
私の言葉に、農夫たちは雷に打たれたような顔になり、やがて誰からともなく大きな拍手が沸き起こった。
その日の夕刻、私は収穫したばかりの紅白丸大根と雪割りほうれん草を籠いっぱいに抱えて、城の厨房へと向かった。
厨房を仕切る料理長のハンナさんは、籠の中身を見るなり「ひゃあ! なんて色鮮やかなお野菜だい!」と歓声を上げた。
「ハンナさん、今夜のアシェル様のお食事に、この野菜を使った料理を私が作ってもよろしいでしょうか?」
「もちろんさ、フィーネ様! お館様はいつも、保存用の塩漬け肉と筋張った干し芋のスープばかりを、味気なさそうに召し上がっていたんだ。こんな素晴らしい新鮮な野菜が出たら、どれほどお喜びになるか!」
私はハンナさんに手伝ってもらいながら、手際よく調理を進めた。
一つは、紅白丸大根を薄く輪切りにし、その柔らかい葉と一緒に塩と果実酢、そして香り高い菜種油で和えた『紅白大根のクリスタル・サラダ』。
もう一つは、甘みの乗った雪割りほうれん草を、北方の濃厚な山羊のバターとベーコンでさっとソテーし、仕上げに半熟の卵を落とした『緑と黄金の巣ごもりソテー』だ。
食堂の長いテーブルで、書類を広げながら夕食を待っていたアシェル様は、運ばれてきた皿を見るなりピタリと手を止めた。
「……これは。まるでお皿の上に、春の花畑が咲いたようだな」
冬の間に蓄えた茶色い保存食ばかりだった辺境城の食卓に、鮮やかなルビー色と翡翠色、そして卵の黄金色が輝いている。
アシェル様はナイフとフォークを手に取り、まず紅白大根のサラダを一口、口へと運んだ。
シャキッ、という軽やかな音。
アシェル様の動きが止まり、その氷碧の瞳が大きく揺れた。続けて、ほうれん草のバターソテーを口にする。
「アシェル様……お口に合いましたでしょうか?」
私がドキドキしながら見守っていると、アシェル様はゆっくりとフォークを置き、口元を手で覆った。
そして、次の瞬間――。
「……美味い。本当に、信じられないほど美味いよ、フィーネ」
指の隙間から見えたその表情に、私の心臓がトクン、と大きく跳ねた。
いつも氷のように引き締まっていた彼の口元が、まるで少年のように無防備に綻び、目元が優しく細められていたのだ。
「この地を継いでから十年間、俺はいつも『領民たちが飢えないか』『どうすればこの痩せた土地を守れるか』と、胃が痛むような思いで食事をしてきた。食事とは、ただ戦うための燃料を詰め込む作業だと思っていた。……だが、君が育ててくれたこの野菜は、噛むたびに体の芯まで温かい光が満ちていくようだ」
アシェル様は立ち上がると、テーブルの脇に立つ私の前へと歩み寄り、私の両手をそっと握りしめた。
「たった一ヶ月で、君は『呪われた黒土』を宝に変え、俺たちに希望の味を教えてくれた。ありがとう、フィーネ。君が俺の元へ来てくれて、本当によかった」
真っ直ぐに注がれる熱のこもった眼差しと、大きな手のひらの温もり。
セドリック様のために三年間の全てを捧げても、ただの一度も言ってもらえなかった「ありがとう」という言葉が、こんなにも胸を熱く満たしてくれるなんて。
「アシェル様、これはまだほんの始まりですわ。この夏から秋にかけて、私はグレンツ領のすべての畑を、黄金色の実りで埋め尽くしてみせます!」
私の宣言に、アシェル様はもう一度、あの胸が苦しくなるほど優しい笑顔を浮かべて、深く頷いてくれたのだった。




