第3話「白い灰と黄金の雫〜最初の土壌改良〜」
翌朝、グレンツ城の南側にある一反(約千平方メートル)ほどの荒れた休耕地に、私の姿があった。
豪華なドレスはすべて衣装部屋にしまい込み、今の私が身につけているのは、城のメイド長から譲り受けた丈夫な麻のチュニックに、動きやすい革のズボン、そして膝まである泥除けの長靴だ。栗色の髪も作業の邪魔にならないよう、後ろで高く一つに束ねている。
「お嬢様……いや、フィーネ様。本当にご自分で鍬を持たれるのですかい?」
老農夫のマルクスさんが、集まった十人ほどの若い農夫たちと一緒に、ハラハラした様子で私を見守っていた。
昨日、アシェル様が「フィーネの指示には、俺の命令と同じように従え」と布告を出してくれたおかげで、必要な資材と人手はすぐに揃った。しかし、農夫たちの目にはまだ「王都のお姫様の気まぐれな遊びだろう」という懐疑の色が浮かんでいる。
「ええ、もちろんです。土の硬さや湿り気は、自分の足で踏みしめ、自分の手で耕してみなければ分かりませんから」
私は用意してもらった三つの山を指差した。
一つ目は、城の北にある石灰岩の崖から削り出してきた白い『消石灰』の粉末と、城の竈から集めた『草木灰』。
二つ目は、厩舎から運び出した軍馬の敷き藁と糞に、森の落ち葉と米糠を混ぜ合わせたもの。
そして三つ目は、白樺の丸太と、川原から拾ってきた大小の石ころ、それに大量の松葉だ。
「最初に行うのは、土の『息継ぎ』を作る作業です。この畑は、地下二尺(約六十センチ)のところに硬い粘土の層があって、雪解け水が下に抜けず、冷たい水たまりになっています。これでは作物の根が溺れて腐ってしまいます」
私は棒で畑の周囲と中央に真っ直ぐな線を引いた。
「この線に沿って、深い溝を掘ります。そして溝の底に小石と松葉、白樺の丸太を束ねて埋め、その上から土を戻すのです。これを『暗渠排水』と呼びます。こうすれば、畑の表面を広く使え、余分な冷たい水だけが地下の石の隙間を通って外へ流れ出ていきます!」
「なるほど……! ただ溝を掘るだけじゃなく、石と丸太を埋めて地下に水の通り道を作るのか!」
マルクスさんが膝を打った。しかし、凍りついたように硬い粘土層まで溝を掘るのは、屈強な農夫たちにとっても重労働だ。
私もスコップを手に取って掘り始めた、その時だった。
「――待て。その最も深い中央の溝は、俺たちが掘る」
凛とした声と共に畑に現れたのは、なんと軍服の上着を脱ぎ、白いシャツの袖を肘までまくり上げたアシェル様と、その側近の騎士たち五人だった。
「アシェル様!? お館様がなぜこのような泥仕事を……!」
驚く私に、アシェル様はツルハシを軽々と肩に担いで微笑んだ。
「国境の砦で塹壕を掘るのは、俺たち騎士の得意分野だ。それに、君一人が領地のために汗を流しているのに、夫となる俺が城のバルコニーから眺めているわけにはいかないだろう」
そう言うと、アシェル様は氷碧の瞳を鋭く輝かせ、硬い地面へとツルハシを振り下ろした。
ドォン! という重い響きと共に、農夫たちが何十回も叩いてようやく砕いていた硬い粘土層が、たった一撃で気持ちよく砕け散った。
「お、おおおっ!? さすがはお館様だ!」
「俺たちも負けていられないぞ!」
領主自ら泥にまみれてツルハシを振るう姿に、農夫たちの士気は一気に跳ね上がった。騎士と農夫が肩を並べて笑い合いながら掘り進めたことで、本来なら三日はかかるはずの暗渠排水の工事が、なんと昼過ぎには完了してしまったのである。
額の汗を拭うアシェル様に、私は冷たい井戸水と清潔な布を差し出した。
「ありがとうございます、アシェル様! お陰で信じられないほど早く水路ができました!」
「礼を言うのは俺の方だ。君の設計図があったからこそ、無駄なく掘ることができた。……それで、次はどうする?」
「はい! 水はけが良くなったら、次は『酸っぱい土』を甘く優しい土に変える番です」
私は畑の土をひと握りすくい上げ、再び『土壌対話』の力を集中させた。
深さごと、場所ごとの酸度とリン酸不足の度合いを正確に読み取り、石灰と草木灰を撒く量を細かく指示していく。
「北側の角は酸性が強いので、白い石灰を多めに! 中央付近はカリウムとリン酸が足りないので、竈の草木灰を二割増しで撒いて、深く耕し混ぜてください!」
白い粉が黒い大地に撒かれ、鍬で丁寧にすき込まれていく。
しかし、これだけではまだ足りない。冷たい北方の春に、一刻も早く種を発芽させるための「秘密兵器」が必要だ。
「マルクスさん、畑の東側に掘った浅い穴に、厩舎の馬糞と藁、落ち葉を三尺の厚さに敷き詰めてください。そしてその上から、城の浴場から運んだ『熱湯』をたっぷりとかけて、麻布で蓋をするんです!」
「ば、馬の糞に熱湯をかけるんですかい!? そんなことをしたら、せっかくの肥料が煮えてダメになっちまうんじゃ……」
「逆です、マルクスさん! 冷たい氷の土の中では、堆肥を作る『好熱菌』という小さな生き物たちが眠ったままなんです。最初にお湯で温度を上げて目を覚まさせてあげれば、あとは彼らが自分で藁や糞を分解しながら、どんどん熱を出してくれます!」
私は麻布の上からそっと両手をかざし、自分の持つ微細な魔力を、土中の目に見えない微生物たちへと優しく送り込んだ。
(さあ、目を覚まして。美味しいご飯がたくさんあるわよ)
すると数時間後、麻布の隙間から、白い湯気がモウモウと立ち上り始めたではないか。
恐る恐る堆肥の山に手を差し入れたマルクスさんが、「ひゃあっ!?」と声を上げて飛び退いた。
「あ、熱い! 本当に下から火でも焚いているみたいにホカホカと熱くなってやがる! しかも、嫌な臭いが消えて、森の腐葉土みてえな甘い匂いがしてきたぞ!」
「これが『醸熱温床』です! この温かい発酵堆肥を畑の畝の下に敷き詰め、その上に石灰で中和した黒土を被せれば、外の風がどれだけ冷たくても、土の中は春本番のようにポカポカのまま保たれるんです!」
農夫たちから「すげえ……!」「まるで大地の魔法だ!」と歓声が上がった。
夕陽が雪山を茜色に染める頃、かつて冷たく死んでいた荒れ地は、ふかふかで温かく、豊かな湯気を立てる極上の畑へと生まれ変わっていた。
私は最後の仕上げとして、持参した『紅白丸大根(二十日大根)』と『雪割りほうれん草』の種を取り出し、一粒一粒に「元気に育ってね」と魔力を込めながら、温かい黒土のベッドへと蒔いていった。
作業を終え、泥のついた頬で立ち上がった私の隣に、同じく泥だらけになったアシェル様が並び立つ。
「フィーネ。俺は今日初めて、土がこれほど温かく、生きているものなのだと知ったよ」
夕暮れの風の中、アシェル様が私の頭にそっと大きな手を乗せ、愛おしそうに撫でてくれた。
セドリック様からは「汚らわしい」と払いのけられた土の匂いを、この人はこんなにも優しい目で肯定してくれる。
私の胸の奥にもまた、温床の土と同じくらい温かい熱が、じんわりと広がっていくのを感じていた。




