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番外編「氷狼の辺境伯は、愛妻の『土いじり』に嫉妬する(アシェル視点)」

 俺――アシェル・フォン・グレンツが、ヴァルハイト伯爵家の長女であるフィーネという少女の存在を初めて知ったのは、あの春の夜会から遡ること三年、長雨の時期のことだった。


 当時、国境での魔獣討伐の報告のために王都へ上っていた俺は、報告を終えた後、南方のオルコット侯爵領の視察へ足を延ばし、その端にある小さな農村を通りかかった。

 その日は朝からバケツをひっくり返したような豪雨が降り続いており、村の脇を流れる農業用水路が今にも決壊しそうになっていた。もし水路が破れれば、収穫を間近に控えた村の麦畑はすべて泥水に呑まれてしまう。


『おい、土嚢《どのう》をもっと積め! 北側の堰《せき》の杭が緩んでいるぞ!』


 俺が配下の騎士たちに命じて加勢しようと馬を止めた時、泥水と豪雨の中で、誰よりも必死に動き回っている小柄な人影が目に飛び込んできた。

 作業用の粗末な麻服を着て、栗色の髪から雫を滴らせ、顔中を泥だらけにしながら、重たい土嚢を農夫たちと一緒に運んでいる若い娘。それが、当時十五歳だったフィーネだった。


『皆様、あちらの柳の木の根元に石を積んでください! 土の声が、あそこの地盤が一番水を吸って柔らかくなっていると教えてくれています! あそこを補強すれば、水路は絶対に持ちこたえます!』


 彼女は雨に打たれながらも決して取り乱さず、驚くほど的確に地盤の弱点を見抜き、自分の細腕に傷ができるのも厭《いと》わずに杭を打ち込んでいた。

 結局、彼女の指示のおかげで水路は決壊を免れ、村の畑は守られた。


 雨が小降りになり、農夫たちが『フィーネお嬢様、ありがとうございますだ!』と涙ながらに礼を言っている横で、彼女は冷たい雨に濡れた体をブルブルと震わせながら、自分の泥だらけになった手のひらを見つめて、まるで宝物でも見つけたかのように眩しく微笑んだのだ。


『よかった……。麦たちも、土の中のミミズたちも、みんな無事で本当によかったわ』


 その笑顔を見た瞬間、戦場と氷雪の世界でしか生きてこなかった俺の凍てついた心臓を、雷のような熱い衝撃が貫いた。

 王都の夜会にいる令嬢たちは皆、宝石とドレスの自慢話ばかりで、農民や土のことなど汚らわしいものとして見向きもしない。それなのに、この少女はこんなにも純粋に大地を愛し、誰かの命を繋ぐために泥にまみれて笑うことができるのか、と。


 俺は思わず馬を降り、名乗ることもせずに、自分が羽織っていた防水加工の騎士団外套を彼女の小さな肩に掛けて立ち去った。

 後から彼女がオルコット侯爵家の嫡男セドリックの婚約者だと知り、俺は一度は自分の恋心を胸の奥底に封印した。『彼女がオルコット家で幸せになるのなら、俺は遠くからその幸せを祈るだけにしよう』と。


 しかし、王都の密偵を通じて入ってくるのは、『セドリックがフィーネ嬢の功績をすべて自分のものにし、あろうことか彼女の異母妹と浮気をしている』『夜会で婚約破棄を画策している』という許しがたい報告だった。

 それを聞いた瞬間、俺の中の理性のタガが外れた。

 俺は国境から昼夜兼行で馬を飛ばし、オルコット家の夜会へと乗り込んだ。もし彼女が泣いているなら、たとえオルコット家や王国全体を敵に回してでも、彼女を奪い去って北の城で一生甘やかし抜こうと決めていたのだ。


 ――そうして念願叶って彼女を俺の妻として迎え、グレンツ領が王国一の豊かな土地となった現在。

 俺には、結婚前には予想もしなかった『新たな悩み』が生まれていた。


「……お館様。またそんな柱の陰から、怖い顔をして奥方様を睨んでおられるのですか」


 城の中庭に面した回廊で、側近の騎士隊長兼・文官のロベルトが呆れたように声をかけてきた。


「睨んでなどいない。見守っているだけだ。……それより見ろ、ロベルト。フィーネのやつ、またあの新しい『北国ルビー苺』の鉢植えに向かって、あんなにも甘い声で話しかけているぞ」


 俺の視線の先、陽だまりのガラス温室の中では、愛しい俺の妻フィーネが、赤い実をつけ始めた苺の苗を前にして、うっとりと頬を緩めていた。


『まあ、なんて可愛くていい子たちなのかしら! あなたが世界で一番大好きよ、私の可愛い苺ちゃんたち!』


 俺の眉間にピクリとしわが寄った。


「……聞いたか、ロベルト。フィーネは今、あの苺に向かって『世界で一番大好きだ』と言ったぞ。俺には今朝、『いってらっしゃいませ、アシェル様』としか言わなかったのにだ」


「いや、お館様……相手は植物、ただの苺の苗でございますよ? 天下の『北の氷狼』ともあろうお方が、まさか畑の苺やジャガイモの種芋に本気で嫉妬しておられるのですか?」


「ただの苺ではない! 先週は『黄金ジャガイモ』の新しい種芋を撫でながら『なんて艶々して魅力的なのかしら』と褒めちぎっていたし、昨日は老農夫のマルクスと二時間も楽しそうに『ミミズの糞の素晴らしさ』について語り合っていたのだぞ! 夫である俺との昨日の会話は、夕食の時の四十五分間だけだ!」


 俺が大真面目に抗議すると、ロベルトは腹を抱えて吹き出した。


「ぷっ……ははははっ! お館様、それはご自分が奥方様を前にすると緊張して無口になられるせいでしょう! そんなに構ってほしいのなら、ここで苺を睨んでおらずに、直接奥方様に甘えてこられたらいかがですか!」


「なっ……! 俺は辺境伯だぞ、昼間から妻に甘えるなど……」


 俺が言いかけた、まさにその時だった。

 温室の扉がパッと開き、エプロン姿のフィーネが、摘みたての真っ赤な大粒の苺を乗せた小皿を持って、小走りに俺の方へと駆け寄ってきたのである。


「アシェル様! やっぱりそこにおられましたのね!」


 花の咲くような笑顔で駆け寄ってきたフィーネに、俺の不満など一瞬で霧散した。


「フィーネ。……なぜ俺がここにいると分かった?」


「ふふ、だってアシェル様が私のことを見つめてくださっている時は、背中にポカポカと太陽みたいに温かい視線を感じますもの! ほら、見てください。私たちの『北国ルビー苺』の記念すべき最初の一粒が、今まさに完熟したのです!」


 フィーネは一番大きくて真っ赤に輝く苺を一粒、小さな指先でつまみ上げると、背伸びをして俺の口元へと差し出した。


「この最初の一粒は、絶対に世界で一番大好きなアシェル様に召し上がっていただきたくて、毎日苺たちに『アシェル様のために甘くなってね』と言い聞かせて育てたのですよ。さあ、どうぞ、あーんしてくださいませ!」


「……っ!」


 俺の顔に、一気に熱い血が上るのが分かった。後ろでロベルトが「お邪魔しました」とニヤニヤしながら立ち去っていく気配がする。

 俺は周囲に誰の目もないことを確認すると、少し屈み込んで、フィーネの指先からその真っ赤な苺を直接口に含んだ。


 パチン、と弾けるような果皮の食感のあと、驚くほど濃厚で甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がった。

 だが、それ以上に俺の胸を震わせたのは、俺を見上げるフィーネの、愛情に満ちた琥珀色の瞳だった。


「……どうでしょうか、アシェル様? 甘いですか?」


 俺は返事をする代わりに、フィーネの細い腰を片腕で抱き寄せ、そのまま彼女の柔らかい唇を俺の唇で塞いだ。


「んっ……!? あ、アシェル様……っ」


 たっぷりと時間をかけて甘い口づけを堪能してから唇を離すと、フィーネは苺と同じくらい真っ赤な顔で、潤んだ瞳で俺を見上げていた。


「……ああ。世界中で一番甘くて、最高に美味い苺だ。だが、やっぱり俺にとっては、どんな果実よりも君の方が何百倍も甘くて愛おしいよ、フィーネ」


「も、もう……! お昼間からそんなことを仰っては、お仕事の邪魔になってしまいますわ……!」


 照れて俺の胸に顔を埋める愛妻をぎゅっと抱きしめながら、俺は先ほどまで苺の苗に嫉妬していた自分を密かに反省しつつも、この可愛すぎる妻を生涯誰にも渡すまいと、改めて心に誓うのだった。

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