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エピローグ「黄金色の穂波と、小さな手のひら」

 私が王都の夜会で婚約破棄を言い渡され、アシェル様に手を引かれてこのグレンツ辺境伯領へとやってきてから、早くも五年の歳月が流れていた。


 九月の澄み切った秋空の下。

 今のグレンツ領は、かつて「魔瘴気に呪われた死の灰土」と呼ばれていた頃の面影など微塵もなく、王国内外から毎年何千人もの視察団や商人が訪れる『北方の黄金郷《エルドラド》』へと発展していた。


 黒ボク土の豊かな腐植を活かした輪作体系は領内隅々にまで定着し、春には見渡す限りの『白詰草』と『紫雲英』の花畑が咲き誇り、秋には地平線まで続く『琥珀小麦』の黄金の穂波と、宝石のように蜜を湛えた『氷蜜リンゴ』、そしてホクホクの『黄金ジャガイモ』が実る。

 さらに、城の北側の温泉脈を活用した大温室群では、『北国ルビー苺』や『甘露トマト』が一年中収穫され、街の加工工房からはジャムやシードルが王都や隣国へと次々に送り出されていた。また、城下町には私が設立した『グレンツ農政学院』が建ち並び、王国内の各地から集まった若い農政官や農夫たちが、土と対話し自然と共に生きる循環型農業を熱心に学んでいる。


(ちなみに、王室直轄となった旧オルコット領も、私が送った再生手順書とマルクスさんの弟子たちの指導のおかげで、予定どおり三年ほどで連作障害を克服し、今では元以上の豊かな麦畑へと蘇ったそうよ。……鉱山と修道院へ送られたセドリック様やミリアムたちも、今ではすっかり大人しくなって、毎日泥だらけで石拾いと土起こしをしているらしいけれど、もう私たちには関係のない遠い昔のお話ね)


 心地よい秋風が吹き抜ける黄金色の麦畑の真ん中で、私は麦わら帽子を押さえながら微笑んだ。

 そして、私の足元では――二つの小さな影が、元気いっぱいに畑の土の上を駆け回っていた。


「お母様、見て見てー! ここの土、とっても黒くてふかふかだよ!」


 そう言って泥だらけの両手を掲げて笑ったのは、今年で三歳になる長男の『レオン』だ。

 夜の闇を溶かしたような黒髪と、父親そっくりの澄んだ氷碧《ひょうへき》の瞳を持つ男の子だが、その性格は好奇心旺盛で、木剣の稽古と同じくらい畑の土いじりが大好きだった。


 そして、その兄の後ろをよちよちと追いかけながら、畑の隅に咲いていた白い白詰草の花を摘んでいたのは、今年二歳になったばかりの長女『リリア』だ。栗色の柔らかい髪と琥珀色の瞳は私に似ているけれど、笑った時の目尻の優しさはアシェル様にそっくりだった。


「レオン、すごいわね! じゃあ、その土に手を当てて、目を閉じてごらんなさい。土の中から、どんな声が聞こえるかしら?」


 私が隣にしゃがみ込んで尋ねると、レオンは小さな両手を黒い土にペタリと当てて、一生懸命に目を閉じた。


「んとね……『お水がちょうどよくて、お日様があったかくて、ミミズさんがくすぐったいよ』って言ってる! あとね、来年はここにお豆を植えてほしいって!」


「まあ……! 大正解よ、レオン! あなたにもちゃんと、私から受け継がれた『土壌対話《ソイル・リーディング》』の力が宿っているのね!」


 私が感激してレオンを抱きしめると、リリアも「りりあも、つち、ぽかぽかー!」と言いながら、私のエプロンに泥んこの手で抱きついてきた。


 その時、黄金色の麦畑の畦道《あぜみち》の向こうから、長身の頼もしい影が歩いてくるのが見えた。

 白いシャツの袖を肘までまくり上げ、大きな収穫籠を軽々と肩に担いだ私の最愛の夫――アシェル様と、その隣でニコニコと笑っている老農夫のマルクスさんだ。


「お父様ーっ!」

「ぱぱーっ!」


 子供たちが歓声を上げて駆け寄ると、アシェル様は籠を置き、泥だらけの二人を迷いなく両腕で同時に抱き上げた。


「おお、二人とも、今日も見事な泥んこぶりだな! 顔まで真っ黒にして、まるで小さなモグラの兄妹だぞ」


「へへっ、お父様! ぼくね、お母様みたいに土の声が聞こえたんだよ! 将来は、お父様みたいに強い騎士になって、お母様みたいに世界一の畑を作るんだ!」


 息子が誇らしげに胸を張ると、アシェル様の氷碧の瞳が、雪解けの水のように優しく細められた。


「そうか、それは頼もしいな。剣の振り方は俺が教え、土の愛し方は母上に教わるといい。――この大地を守り、育てること以上に誇り高い仕事はないのだからな」


 子供たちを優しく地面に下ろすと、マルクスさんが「坊ちゃんも姫様も、わしが今年一番の『氷蜜リンゴ』を切り分けてやるから、あっちの荷馬車においでなされ」と二人を連れて歩いていった。


 黄金色の穂波が揺れる畑の真ん中に、私とアシェル様の二人だけが残される。

 アシェル様は私の前へと歩み寄ると、私の頬についていた黒い土を、大きな親指の腹でそっと拭い取ってくれた。


「フィーネ。今年も、最高の実りの秋になったな」


「はい、アシェル様。本当に……見渡す限り、どこまでも黄金色の海ですわ」


 私がアシェル様の胸にそっと身を預けると、彼の力強く温かい腕が私の肩を優しく包み込んだ。

 アシェル様は私の右手を取り、薬指に光る結婚指輪と、その指先にある小さな畑仕事の跡に、愛おしそうに口づけを落とした。


「五年前のあの日、君の手を取った俺の選択は、俺の人生で最大の誇りだ。君がこの北の大地に舞い降りてくれたからこそ、凍てついていた土も、俺の心も、こんなにも温かい黄金色に変わることができた」


「私の方こそ、アシェル様。もしあの時、あなたが私の計画書を拾い上げ、私の手を包んでくださらなければ、私は今も自分の力を信じられないままだったと思います。……私に最高の畑と、最高の家族をくださって、本当にありがとうございます」


 秋の穏やかな太陽の光が降り注ぎ、風が吹くたびに『琥珀小麦』の穂がサラサラと祝福の歌を奏でる。

 泥まみれの聖女と、北の氷狼。

 私たちが二人で蒔いた小さな愛の種は、この豊かな黒い大地に深く根を張り、これからも何十年、何百年と、黄金色の幸せな実りを結び続けていくことだろう。


 そして私たちの背後では、黄金の穂波を揺らす秋風が、いつまでも優しく、新しい時代の豊穣の歌を奏で続けていた。

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