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第15話「泥まみれの聖女は、氷狼の腕の中で微笑む」

 長い北方の冬が明け、グレンツ辺境伯領に再び雪解けの春が巡ってきた。

 しかし、今年の春は昨年までとはまったく違っていた。

 雪の下で『緑肥』と『完熟堆肥』を抱いて眠っていた大地は、雪が解けると同時に黒々と艶やかな湯気を立ち上らせ、秋に蒔いておいた越冬型の『琥珀小麦』の緑の芽が、すでに力強く畑一面に芽吹いていたのである。

 さらに、王都の大商業館を通じて販売された『氷蜜リンゴのコンフィチュール』や『グレンツ・シードル』、『凍み芋粉』は王都の貴族や市民の間で爆発的な大流行となり、グレンツ領は今や王国で最も裕福で活気あふれる領地へと成長していた。


 そして、白樺の若葉が芽吹く五月の吉日。

 グレンツ城の大聖堂と広場において、アシェル・フォン・グレンツ辺境伯と私、フィーネの結婚式が執り行われた。


「わあ……! フィーネ様、なんてお美しいのでしょう……!」


 控え室で私の花嫁衣装を整えてくれた料理長のハンナさんとメイドたちが、揃って感嘆の声を上げた。

 私が纏っているのは、純白の最高級シルクの上に、グレンツ領の女性たちが冬の間、一針一針心を込めて刺繍してくれた『黄金の麦の穂』と『白詰草』のレースがあしらわれた花嫁衣装だ。

 そして頭上のヴェールを留めているティアラは、冷たい金属や宝石ではなく、私が地熱温室で育てた本物の『白い麦なでしこ』と『純白のオレンジの花』、そして輝く琥珀の穂を編み上げた特製の花冠だった。


 大聖堂の重厚な扉が開き、祝福の鐘の音が澄み切った春の青空へと鳴り響く。

 聖堂の真紅の絨毯の両脇には、王都から祝いに駆けつけた宰相閣下や友好貴族たちだけでなく、新調した礼服に身を包んだ老農夫のマルクスさんや、領内の村長たち、そして氷狼騎士団の騎士たちが、感激に目を真っ赤にして並んでいた。

 実家の父とは絶縁し、その実家もすでにお取り潰しとなったため、今日、花嫁である私のエスコート役を務めてくれたのは、グレンツ領で私のもう一人の父親のように支えてくれた老農夫のマルクスさんだった。


「フィーネ様……。わしら農夫の誇りであり、グレンツの大地を救ってくださった女神様を、今日こうしてお館様の元へ送り出せるなんて、わしはもういつ死んでも悔いはねえだ……」


「そんなことを言わないでください、マルクスさん! まだまだ長生きしていただかなくては困ります。来週からはまた、新しいジャガイモの植え付けと、果樹園の接ぎ木が始まるのですからね!」


 私が小声で微笑むと、マルクスさんは涙を拭いながら笑顔になり、祭壇の前で待つアシェル様のもとへと私を導いた。

 純白に銀の刺繍が施された儀礼用軍服に身を包んだアシェル様は、目が眩むほど凛々しく、私を見るその氷碧の瞳には、溢れんばかりの愛情と深い優しさが湛えられていた。


 マルクスさんから私の手を受け取ったアシェル様は、私の素手を――うっすらと畑仕事の跡が残る、私の一番誇らしい手を両手で包み込むように握りしめ、司祭様の前で永遠の愛を誓った。


「病める時も、健やかなる時も、凍てつく吹雪の夜も、黄金の実りの秋も。俺の命ある限り、妻フィーネを愛し、敬い、その笑顔と誇りを守り抜くことを誓います」


「私も、アシェル様を愛し、この豊かな大地と共に、生涯あなたの隣で支え合いながら歩み続けることを誓います」


 白いヴェールがゆっくりと持ち上げられ、アシェル様の温かい唇が私の唇へと重なる。

 その瞬間、大聖堂の中だけでなく、外の広場で待っていた何千人もの領民たちから、城壁が揺れるほどの「お館様、フィーネ様、ご結婚おめでとうございますーっ!!」という大歓声が沸き起こった。


 アシェル様にエスコートされて大聖堂の扉を出て広場へと歩み出ると、そこには王都のどんな虚飾に満ちたパレードにも負けない、温かな祝福の光景が広がっていた。

 花びらの代わりに春の空へと舞い上がったのは、領民たちが感謝を込めて投げ上げた、太陽の光を反射してキラキラと輝く『黄金色の琥珀小麦の粒(豊穣と幸福を願うグレンツ領の麦シャワー)』と、色とりどりの春の花びらだった。


「フィーネ様ーっ! おらたちの辺境伯夫人様ーっ! 世界一幸せになってくだせえーっ!」

「お館様、もしフィーネ様を泣かせるようなことがあったら、おらたちが鍬《くわ》とスコップを持って怒りに行きますだぞーっ!」


 領民たちの飾らない、愛に満ちた声援に、アシェル様も「ああ、命に代えても一生笑顔にし続けるとも!」と力強く手を振り返している。


 かつて王都で「泥まみれの令嬢」「土いじりしか能がない女」と笑われ、婚約者も実家もすべて失ったと思っていたあの日。

 けれど、私は何一つ失ってなどいなかった。

 私が愛し続けた『土』は、私をこの北の大地へと導き、私の手にある小さなマメを「世界で一番美しい」と愛してくれる最高の夫と、家族のように温かい領民たちを引き合わせてくれたのだ。


(そういえば、宰相閣下のお話では、セドリック様とミリアムは北の開拓地と修道院で、毎日泥だらけになって石拾いと畑仕事をさせられているそうね……。自分の手で土を耕す大変さと尊さを、少しは知ることができたかしら)


 ふと一瞬だけ昔の記憶が頭をよぎったが、今の私にはもう、彼らに対する怒りすら残っていなかった。なぜなら、私の目の前には、これからアシェル様と一緒に育てていくべき希望の種が、数え切れないほど待っているからだ。


「どうした、フィーネ? 何か考え事か?」


 広場のバルコニーで、私の腰をぴったりと抱き寄せたアシェル様が優しく尋ねた。

 私は満開の笑顔で、最愛の夫を見上げた。


「いいえ、アシェル様! 実は昨日の朝、地熱温室の奥の鉢で、寒さに強くてとっても甘い『北国ルビー苺』の新しい交配種が可愛い芽を出したのを思い出したのです! 披露宴が終わったら、さっそく明日の朝から、新しい苺畑の畝《うね》作りと堆肥の仕込みを始めなければいけませんわ!」


 私の言葉に、アシェル様は一瞬目を丸くした後、お腹の底から楽しそうに声を上げて笑った。


「はははっ! 結婚式の最中にまで新しい畑と堆肥のことを考えている花嫁は、世界広しといえども俺の妻くらいのものだな。……だがフィーネ、今夜と明日からの三日間だけは、いくら『王国筆頭・農政大導師』の命令であっても、畑に出ることは絶対に許可しない」


 アシェル様は私の耳元に唇を寄せ、氷碧の瞳に甘い熱を宿して低く囁いた。


「今夜からは、俺が君を独り占めする時間だ。新しい苺の畝作りは、甘い新婚の休日が終わってから、俺も一緒に泥だらけになって手伝うからな」


「ま、まあ……アシェル様ったら……!」


 耳まで真っ赤になる私を軽々と横抱きに抱き上げると、アシェル様は歓声に沸く春の青空の下で、もう一度深く、とろけるような口づけを落とした。

 泥まみれの聖女と笑われた私の新しい人生は、世界で一番優しい氷狼の腕の中で、今、黄金色の輝きと共に幕を開けたのだった。

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