第14話「北の大地に実る黄金の海〜収穫祭の夜〜」
王都からの凱旋を果たした私たちを待っていたのは、息を呑むほど美しい、奇跡のような光景だった。
馬車がグレンツ辺境伯領の盆地を見下ろす峠道を抜けた瞬間、私は窓の外に広がる景色に「わああっ……!」と歓声を上げた。
半年前の春、初めてこの地を訪れた時には、冷たく湿った真っ黒な荒れ地が広がっていたはずの場所。
そこが今、秋の澄み切った青空の下で、地平線の彼方までうねるような『黄金色の海』へと変わっていたのである。
私たちが改良した黒ボク土の畑一面に、寒さを乗り越えて逞しく育った『琥珀小麦』が、重たげに頭を垂れて黄金色の穂を揺らしている。風が吹くたび、ザワワ、ザワワと金色の波が煌めきながら駆け抜け、まるで大地そのものが太陽の光を放っているかのようだった。
「フィーネ様ーっ! お館様ーっ! お帰りなさいませーっ!!」
街道の入り口には、老農夫のマルクスさんをはじめ、何百人もの領民たちが手に手に黄金色の麦の束や真っ赤な『氷蜜リンゴ』を持って出迎えに集まっていた。
「マルクスさん! 皆様! ただいま戻りました! なんて見事な琥珀小麦の穂波でしょう……!」
馬車から降りた私が駆け寄ると、マルクスさんは日焼けした皺だらけの顔をくしゃくしゃにして、誇らしげに一束の麦の穂を私に差し出した。
「見てくだせえ、フィーネ様! お嬢様が留守の間も、おらたち全員で教わった通りに水路を見回り、大切に育て上げましただ! 一本の茎からこんなにびっしりと大粒の麦が実るなんて、グレンツ領が始まって以来の大豊作でさあ! 王都でのお嬢様の大活躍も、すでに早馬で聞いておりますぜ。『王国筆頭・農政大導師』様、本当におめでとうございますだ!」
「『大導師』なんて呼ばないでください、マルクスさん! 私はこれからもずっと、皆様と一緒に長靴を履いて泥にまみれる、ただのフィーネですわ!」
私の言葉に、領民たちからドッと温かい笑いと、「フィーネ様、万歳!」「お館様、万歳!」という地鳴りのような歓声が巻き起こった。
それから数日間、領地全体で『琥珀小麦』の最後の刈り取りが行われ、城の巨大な穀物倉庫が、黄金色の新麦と『黄金ジャガイモ』で天井まで埋め尽くされた。
そして迎えた満月の夜。グレンツ城の城下町と広場を開放して、領地始まって以来最も盛大な『大収穫感謝祭』が開催されたのである。
広場の中央には大きなかがり火が焚かれ、何十台もの屋台が並んだ。
料理長のハンナさんが腕を振るった『琥珀小麦の焼きたてパンと山羊チーズのフォンデュ』、『黄金ジャガイモと北鹿肉のシチュー』、そして樽から惜しげもなく振る舞われる『グレンツ・シードル(林檎酒)』と『氷蜜リンゴのパイ』。
楽団の陽気な笛と太鼓の音に合わせて、大人も子供も、そして普段は厳つい氷狼騎士団の騎士たちも、顔を赤くして歌い踊っていた。
「フィーネ、少し風が冷たくなってきた。……少しだけ、二人で抜け出さないか?」
賑やかな広場の輪の中で領民たちにお酒を注いで回っていた私の耳元に、アシェル様がそっと囁いた。
私が頷くと、アシェル様は私の手を引き、誰にも気づかれないように城の裏手にある小高い見晴らしの丘へとエスコートしてくれた。
その丘の上には、私たちが一番最初に土壌改良を行った『思い出の試験圃場』があり、その脇には一本の大きな白樺の木が立っていた。
丘の上から見下ろすと、城下町のかがり火とランタンの光が、まるで地上に降りた天の川のようにキラキラと輝いて見える。頭上には、手を伸ばせば届きそうなほど大きな黄金色の満月が浮かんでいた。
「……綺麗ですわね、アシェル様。半年前、あの夜会で追放された時には、今こうしてこんなにも温かくて幸せな景色を見られるなんて、想像もできませんでした」
私が夜風に揺れる髪を押さえながら微笑むと、隣に立っていたアシェル様が、ふいに真剣な面差しで私の正面へと向き直った。
そして、あの王都の夜会の時と同じように――けれど、あの時よりもずっと深く、愛おしさに満ちた瞳で私を見上げながら、月明かりの草原の上に片膝をついたのである。
「アシェル様……?」
アシェル様は背中に隠していた右手から、一束の小さな花束を取り出して私に差し出した。
それは、豪華な薔薇などではない。冬の訪れを前にした北方の畑の隅で、凛として咲く純白と淡い青紫色の『麦なでしこ』と『白詰草』を束ねた、素朴で可憐な花束だった。
「フィーネ。この花は、俺が城の庭の片隅で、マルクスにこっそり土の作り方を教わりながら、自分の手で種から育てた花だ。……君のように上手くはいかず、少し不格好になってしまったがな」
よく見れば、アシェル様の剣ダコのある大きな指先には、私と同じように、土をいじったかすかな跡があった。
それを見た瞬間、私の目頭がカッと熱くなり、視界が涙で滲んだ。
「半年前、王都の夜会で俺が君に求婚した時、周囲の者たちは『政略や同情だろう』と噂したかもしれない。だが、違う。俺は三年前の雨の日に君を見てからずっと、ただ一人の男として、フィーネ・ヴァルハイトという女性に恋い焦がれていた」
アシェル様の低く震える声が、静かな夜の丘に響く。
「君が泥にまみれて笑う姿が好きだ。作物の芽が出たと無邪気に喜ぶ声が好きだ。どんな逆境にも負けない、その温かく強い心がたまらなく愛おしい。……フィーネ、改めて俺のプロポーズを受けてほしい。政治のためでも、領地のためでもない。俺、アシェル・フォン・グレンツのただ一人の妻として、生涯、俺の隣で笑っていてくれないか」
月明かりに照らされた『氷狼』の瞳が、まるで少年のように真っ直ぐに、私の返事を待っている。
私の頬を、熱い涙がポロポロと伝い落ちた。私はその場にしゃがみ込んで花束を受け取ると、アシェル様の首筋へと両腕を回して抱きついた。
「……はい! はい、アシェル様! 私こそ、あなたを心から愛しています。あなたの妻にしてください……!」
瞬間、アシェル様の太い腕が私の腰を力強く抱きすくめ、そのまま私たちは月明かりの草原の上で、互いの唇を重ね合わせた。
白詰草と新麦の甘い香りがする夜風の中で交わした初めての口づけは、どんな果実よりも甘く、私の心の奥底までを幸福で満たしてくれたのだった。




