第10話「王都大飢饉の危機と、国王からの緊急招集」
王都の秋は、例年であれば新麦の香ばしい匂いと収穫祭の賑わいに包まれるはずの季節だった。
しかし今年の王都は、重苦しい不安と市民たちの怒号に満ちていた。
王都の穀物供給の実に三割以上を担っていたオルコット侯爵領と、それに隣接するヴァルハイト伯爵領が揃って「収穫ほぼゼロ」という前代未聞の大凶作に陥ったため、王都の市場では小麦粉とパンの値段が一ヶ月で三倍以上に跳ね上がり、食料を求める市民たちの間で暴動寸前のパニックが起きていたのである。
その危機的状況を受け、十月の下旬、グレンツ辺境伯城へ一羽の王室専用の伝書鷹が舞い降りた。
国王陛下直々の勅命――『王国農政査問会および緊急収穫品評会』への召集令状である。
「国王陛下が、全領主に対して今年の収穫報告と、王都の食料危機を救うための献策を求めている。そして……オルコット侯爵領の異常な凶作の原因を究明するため、元婚約者として昨年まで彼の地の農政に関わっていた君にも、特別参考人として王城へ出頭してほしいそうだ」
執務室で勅命の羊皮紙を閉じたアシェル様は、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「フィーネ、もし君が王都へ行きたくないというなら、俺が単独で乗り込んで全て片付けてくる。君にあの愚かな連中の顔を二度と見せる必要はないし、勅命とはいえ俺が盾になれば、君を無理に引っ張り出すことは誰にもさせない」
私を気遣うアシェル様の深い優しさに、胸の奥がじんわりと温かくなった。
半年前の夜会での屈辱を思い出せば、王都の貴族たちの前に立つことに緊張がないわけではない。けれど、今の私には、あの頃にはなかった確かな実績と、隣で私を支えてくれるアシェル様、そしてグレンツ領の農夫たちとの揺るぎない絆があった。
私はしっかりと首を横に振り、アシェル様の氷碧の瞳を見つめ返した。
「いいえ、アシェル様。私もあなたと一緒に王都へ参ります。これは、私がこれまで積み重ねてきた『土を愛する農業』の正しさを証明し、そしてグレンツ辺境伯領の農夫たちがどれほど素晴らしい作物を育て上げたかを、王国中に知らしめる絶好の機会ですから! 何より、あなたの婚約者として、堂々とあなたの隣に立ちたいのです」
私の力強い言葉に、アシェル様はしばらく感極まったように私を見つめ、やがて誇らしげに目を細めた。
「……さすがは俺が見初めた女性だ。ならば、王都の連中が二度と君を『泥人形』などと侮れないよう、北方の領主の妻にふさわしい最高の準備をして乗り込むとしよう」
王都へ出発する前夜、アシェル様は私の部屋へ、大きな飾り箱を二つ携えてやってきた。
箱のリボンが解かれ、蓋が開けられた瞬間、私はあまりの美しさに息を呑んだ。
一つ目の箱に収められていたのは、グレンツ領の『黄金の穂波』と『豊かな森』をイメージした、深いエメラルドグリーンとシャンパンゴールドの最高級絹織物で仕立てられたドレスだった。スカートの裾から胸元にかけて、金糸と銀糸で精巧な麦の穂と白詰草の刺繍が立体的に施されており、気品と華やかさを兼ね備えた、見る者の目を奪う美しさだ。
そして二つ目のビロードの小箱には、太陽の光を集めたような琥珀色の宝石と大粒の真珠を連ねて「実った小麦の穂」を模した、繊細で煌びやかな髪飾りと耳飾りが入っていた。
「まあ……! アシェル様、これほど素晴らしいドレスと宝飾品を、いつの間にご用意くださったのですか……?」
「夏のうちから、王都の一流の仕立て屋と宝石職人に極秘で注文しておいたのだ。髪飾りの琥珀は、我がグレンツ領の鉱山で採れた最高純度の『太陽の雫』と呼ばれる原石を使わせた。……少し前に出てもらってもよろしいか?」
「え? あ、はい……」
アシェル様は髪飾りを手に取ると、私の後ろへと回り、私の栗色の髪を優しく梳き上げて、その髪飾りをそっと挿してくれた。
さらに、少し照れたような手つきで、私の右手――かつてセドリック様に蔑まれたその手を持ち上げると、薬指に琥珀と氷碧色のサファイアが寄り添うように輝く美しい指輪をはめてくれたのである。
「これは、俺からの正式な婚約指輪だ。君の温かい琥珀の瞳と、俺の氷碧の瞳を合わせた特注品だ。……これをつけていれば、王都のどんな愚か者も、君が俺の命よりも大切な伴侶だと一目で分かるだろう」
鏡の中に映る自分の姿は、半年前に王都を追われた時の、誰にも顧みられずうつむいていた令嬢とは別人のように、誇り高く輝いて見えた。
鏡越しに、アシェル様の熱い眼差しが私を捉え、私の肩を後ろからそっと抱きしめる。
「よく似合っている、フィーネ。どんな高価な宝石も、今の君の自信に満ちた笑顔の輝きには敵わない。……明日は、胸を張って俺の隣を歩いてくれ」
「はい、アシェル様! 私、あなたの誇りになれるよう全力を尽くします!」
そして数日後。私たちは氷狼騎士団の精鋭百騎と、厳重に封印されたグレンツ領の特産品を満載した十台の大型荷馬車を引き連れて、半年ぶりに王都の城門をくぐった。
沿道では、食料不足で不安な顔をした市民たちが、北方の巨大な紋章旗を掲げた私たちの堂々たる行列を見て「あれは北の氷狼の軍勢だ!」「荷馬車から、なんだかすごく甘くていい匂いがするぞ……!」とざわめいている。
王城の最高会議場である『太陽の大広間』で開かれた王国農政査問会には、国王陛下と宰相閣下をはじめ、王国内の主要な公爵・侯爵・伯爵たちが一堂に会していた。
重厚な扉が開かれ、私たちが広間に入場した瞬間、ざわめいていた貴族たちの声がピタリと止まった。
漆黒の礼装を纏ったアシェル様の凛然たる威風と美貌、そしてその腕にエスコートされて歩く私のエメラルドグリーンのドレス姿に、会場中から感嘆のため息が漏れたのだ。
「あれが、半年前に勘当されたヴァルハイト家の長女だと……?」
「なんという気品と美しさだ。辺境の寒さで泥まみれになってやつれているどころか、まるで豊穣の女神のように輝いているではないか……!」
「しかも見ろ、あの冷徹なグレンツ辺境伯が、彼女を見る時だけあんなにも優しい目をしているぞ……!」
貴族たちの驚きの囁き声の中、正面の被告席に近い場所にいたセドリックとミリアム、そして父のヴァルハイト伯爵が、目を剥いて立ち上がった。
半年ぶりに見るセドリックとミリアムは、借金取りと王室からの督促に追われて眠れぬ日々を送っていたのか、目の下にどす黒い隈を作り、頬がこけて見る影もなくやつれ果てていた。
「フ、フィーネ……!? なぜ貴様がそんな豪華なドレスを着て、辺境伯と腕を組んでいるのだ!?」
セドリックが信じられないというように叫んだ。ミリアムもまた、私の髪と指に輝く宝石と、艶やかな肌を見て、嫉妬で顔を醜く歪ませた。
「お、お姉様、生意気よ! 田舎の泥すすりになったくせに、私より豪華なドレスを着て微笑むなんて許せないわ!」
しかし、私が彼らに言葉を返す前に、玉座から国王陛下の厳かな声が響き渡った。
「静まれ! これより、オルコット侯爵領およびヴァルハイト伯爵領における異常凶作の原因究明と、王国農政査問会を開始する!」
厳粛な空気の中、ついにすべての真実と因果応報が白日の下に晒される瞬間が幕を開けた。




