第9話:封蝋は、嘘をつかない
リンデンの代官所は、王領の南境にしては立派な石造りだった。
代官は五十絡みの、疲れた目をした男だった。机の上には、差し押さえたギルドの荷——穀物商の相場報が三通と、駅逓庁の布告の写し。そして、この十日で積み上がった商人たちの訴状が、ひと山。
代官の脇には、王都から下ってきたという駅逓庁の監察吏が座っていた。若く、身なりが良く、顔に出世の匂いを塗った男だった。
「代官殿。審理など無用でしょう」
監察吏は、ロザリンドが席に着く前から口を開いた。
「布告は明白。荷は密封。運び手は素性の白状を拒んでいる。長官閣下は、迅速な処分をお望みだ。——見せしめは、早いほど効く」
「見せしめ、とは正直な言い方をなさる」
代官が疲れた声で言い、監察吏は悪びれもしなかった。
「……ヘイルワース殿。率直に言おう。わしは、あんたの荷を挙げたくて挙げたのではない。布告が来れば、関所は動く。それだけのことだ」
「承知しています。ですので、法の話だけをしに参りました」
ロザリンドは、一礼して椅子に掛けた。
「差し押さえの理由書には、こうあります。『封印されたる暗号文書を運搬し、その内容の検分に応じぬため』——検分に応じます。この場で」
彼女は、返却された荷の封を、代官の目の前で割った。
出てきたのは、麦と豆の相場が並んだだけの、ただの紙だった。二通目も、三通目も。
「……暗号では、ないな」
「はい。ギルドの報せは、すべて平文です。読めない文字は、初めから運びません。誰の秘密も売らず、嘘は運ばない店ですので」
「では、この封蝋の色と印の傾きは何だ。駅逓庁は、これが暗号だと言っている」
「真贋の印です」
ロザリンドは、緋と藍の封蝋の見本を机に置いた。
「緋は至急、藍は定期。印章の傾きは、発した中継点を示します。文の中身ではなく、文の——素性を証すもの。いわば、封蝋の署名です」
「署名」
「はい。偽の報せがギルドの名を騙ったとき、受け取った者が見抜けるように」
「詭弁だ」
監察吏が、机を叩いた。
「印だろうが暗号だろうが、符牒は符牒。当人らにしか読めぬ約束事ではないか」
「では伺いますが、暗号と真贋の印の違いは、何だと思われますか」
「……何?」
「読む相手です」
ロザリンドは、監察吏を初めて正面から見た。
「暗号は、味方にしか読めないように作ります。真贋の印は、誰にでも見分けられるように作ります。緋は至急、藍は定期——この決まりは、カルテンの市場の壁に貼り出してあります。関市にも、川湊にも。隠していないものを、暗号とは呼びません」
「そ、それは」
「監察殿の官服の帯留めも、位階を示す符牒ですが。……あれを暗号として、差し押さえた者がおりますか」
代官が、咳払いで笑いを殺した。
代官は、封蝋の見本を長いこと眺めた。
「……つまりあんたの店は、中身を隠す工夫ではなく、中身を信じさせる工夫をしている、と」
「報せは、信じられなければ、ただの紙ですので」
裁定は、その日のうちに下りた。
〈リンデン代官所、裁定。件の伝書は駅逓法にいう「密封暗号文書」に非ず。差し押さえの荷は荷主に返却、運び手は即時放免。以後、商用平文の伝書は、封蝋の如何を問わず本関所を通行差し支えなし。〉
納屋から出てきたコリンは、十日分痩せて、それでも真っ先に荷の心配をした。
「相場報、三通! あれ、期日が」
「荷主には、写しで届けてあります。あなたの仕事は落ちていません」
ロザリンドがそう言うと、少年伝令は、そこで初めて泣いた。
「それから、コリン。三日の休みを出します。ついでに、便をひとつ頼みます」
「は、はい! どちらへ」
「あなたの実家へ。……母君が、返事を待っています」
少年は洟をすすり、雪道を三日歩いてきた母親の顔を思い浮かべたのか、もう一度だけ泣いて、それから王国でいちばん元気な敬礼をした。
帰り道、同行していたマルロが、ぽつりと言った。
「……しかし嬢様、よく代官が呑みましたな。駅逓庁の布告を、地方の裁定でひっくり返すのは、役人には荷が重い」
「重い荷を、軽くしただけです」
ロザリンドは前を向いたまま答えた。
「訴状の山は、商人たちの損の山です。代官は板挟みだった。……わたくしは、彼が布告を退けられるだけの『理屈』を届けた。それだけです」
「理屈も、報せですか」
「いちばん高くつく報せです」
「今回の分は、どなたに請求なさるので」
「請求しません。……ただし、帳面には付けておきます。リンデンの代官所に、貸しがひとつ」
マルロは、この主人の帳面に「貸し」の頁があることを、初めて知った。
のちに知ることになるが、その頁の名前の列は、王国の貴族名鑑より長かった。
その夜、カルテンに戻ったロザリンドは、一人、帳場の灯りの下で黒い手帳を開いた。
鳥籠の焼き印。父の形見。
頁には、細かな符号がびっしりと並んでいる。読める者は、もう彼女しかいない。
——封は、文を隠すためではなく、文を信じさせるために使いなさい。
——隠した文は疑われる。信じられた文は、剣より強い。
父の書き残した設計の思想は、七年経って、娘の店の柱になっていた。
彼女は手帳の一頁を指でなぞり、それから、静かに閉じた。
「……お父様。判子には、勝ちました」
同じころ、王都の駅逓庁。
リンデンの裁定の写しは、皮肉なことに、バルツァー自身の官営便で——十二日かけて——届いた。カルテンには三日で届いた報せが、である。
長官は書面を二度読み、握り潰し、それから広げ直して、震える手で「上申保留」の箱へ入れた。
体裁は、庁にて整える。整えられない報せは、箱の底で眠らせる。
箱の底には、もう、ずいぶんな数の報せが眠っていた。
その中に、峠の観測所が上げた「此度の冬、嵐、例年より重かるべし」という予報が一枚、交じっていたことを——この時点では、まだ誰も気に留めていない。
判子と封蝋の一回戦、封蝋の勝ちです。
次話、国境から緋色の封が立て続けに飛び込みます。——「帝国軍、国境に集結」。本作最初の大勝負です。
※ブックマークに封は要りません。真贋も保証します。




