第10話:王国最速
最初の緋封は、夜明け前に降りた。
〈国境関所、緊急。帝国軍、国境砦へ集結中。兵数二万、攻城具を伴うとの由。関市の商人ら、荷を畳み始む。〉
二羽目は、朝のうちに。三羽目は、昼前に。いずれも国境筋からで、いずれも同じことを告げていた。帝国が、来る。
カルテン城は、蜂の巣をつついたようになった。
「領兵、招集! 北方三領へ早馬——いや、ギルド便を! 王都へも急使を出せ!」
広間で、アルディスが矢継ぎ早に命じていた。壁の地図に、兵の駒が並び始める。武具蔵が開き、城下では鍛冶場の煙が増え、国境寄りの村からは、荷を背負った家族が早くも城市へ流れ込み始めていた。
辺境は、戦の支度の早さで生きてきた土地だ。その早さが、いま牙を剝いて動き出そうとしていた。
「王都への急使は、無駄です」
家宰が、青い顔で言った。
「官営の網は死んでいます。急使が着くのは早くて五日。返答の兵が来るのは、早くて一月……戦は、とうに終わっています」
「分かっている。辺境は、いつもどおり自前でやるまでだ」
アルディスは吐き捨て、地図の国境に、黒い駒を摑んで置こうとした。
「——お待ちください」
ロザリンドの声は、広間の喧噪の中で、なぜかよく通った。
「この報せ、線になりません」
「……何だと?」
「集結の報せだけが、三通。ですが二万の兵が動けば、点は他にも立つはずです」
彼女は、手元の帳面を繰った。
「国境の飼葉の値——動いていません。二万の兵馬が集まれば、飼葉は三日で倍になります。川船——平常どおり。攻城具は水路なしには運べません。帝国側の宿場——酒の仕入れが増えていない。兵が集まる町で、酒が動かないことはありません」
「では、この緊急報は何だ。関所の書役が、嘘をついたと?」
「書役は、見たものを書いたのでしょう。砦に旗が立ち、兵が入るのを。……ですが『二万』は、誰かに聞いた数字のはずです。彼の目は、砦の中までは届かない」
アルディスは、地図と彼女を見比べた。こめかみに汗が伝う。
「……外していたら、どうなる」
「わたくしが外し、閣下が兵を出さなければ、国境の村が焼かれます」
ロザリンドは、まっすぐに言った。
「ですから、確かめます。目で。——半日だけ、ください」
「半日で、国境を見て戻れる者などいるか。早馬でも片道二日だぞ」
「馬は、道を走ります」
彼女は、広間の入口を振り返った。
鳥打帽の少女が、もう旅装を終えて立っていた。
「うちの子は、崖を走ります」
鷲返しの隘路、と土地の者は呼ぶ。
国境の物見台へ抜ける、崖沿いの獣道だ。荷馬は通れない。人も、まともな人間なら通らない。冬の走りの凍てが、岩の陰に貼りつき始めている。
ピナは、走った。
「——鷲返し、入ります。風、北西。足場、凍て三分」
誰に言うでもなく、口の中で経路を繰る。それは、怖さを嚙み殺すための、伝令の古いまじないだ。走りながら唱えるのは、いつも配達の口上。息を三つ、足場を二つ先まで読む。
風が、崖の腹で渦を巻いた。
凍てた岩に、革の靴底が一度だけ滑る。体がふっと浮いて、世界が白くなった。——息を吐く。伸ばした爪先が、次の岩の角を嚙んだ。
「……っ、と。落ちません。あたしは、落ちません」
止まらない。止まると、怖さが追いついてくる。それも、古い口上と一緒に教わったことだ。教えてくれた相手の顔を、少女は振り払うように、また走った。
昼を過ぎて、物見台に転がり込んだ少女に、番の老兵は腰を抜かした。
「ど、どこから湧いた」
「上から。——遠眼鏡、貸してください。あと水」
息を整え、ピナは砦を見た。数える。旗、兵、竈の煙、厩の馬。もう一度、数える。
「……なんだ、あれ」
旗は、多い。二万の旗だ。だが竈の煙は、どう数えても千人分。厩は半分空。城壁の兵は、同じ顔ぶれが場所を替えて立っている。
張りぼてだ。数を、多く見せている。
少女は帽子のつばを弾き、足環に小さな紙を巻いた。
〈砦、実数およそ千。旗と偽兵で二万に化粧。演習の域を出ず。集結の報は偽り。——ピナ〉
「行け」
放たれた鳩が、冬空へ矢のように昇った。
その日の夕刻、緋封の真報がカルテンに降り、動員の駒は地図から下ろされた。国境の村々に「戦なし、動くな」の藍封が飛んだのは、日が落ちる前だった。
「……つまり、こういうことか」
夜の広間で、アルディスは低く言った。
「誰かが、俺たちに兵を出させたかった。偽の集結を見せて、辺境から先に手を出させる。——開戦の責めを、王国に着せるために」
「そこまでは、まだ線になりません。ですが」
ロザリンドは、机の上に一枚の紙を置いた。関所の書役が回収した、例の「二万」の数字の出どころ——関市に出回った、差出人のない文書の現物だった。
紙は上物。字は書き慣れた役人の手。そして封蝋には、見慣れない印章が押されていた。
尾を持ち上げた、蠍。
「……蠍の封蝋。どこの家紋だ」
「王国のどの家でもありません。商会の印でもない」
ロザリンドは、その小さな蠍を、長いこと見つめた。
「ですが、これを使う誰かは、報せの値打ちを知り抜いています。偽の報せ一枚で、二万の兵より大きく国境を動かせることを」
窓の外は、もう冬の夜だった。
遠くの空の何処かで、彼女の知らない翼が、彼女の知らない報せを運んでいる。その気配だけが、確かにあった。
「——ときに、ロザリンド殿」
アルディスが、ふと思い出したように言った。
「あの伝令の娘。今回の一番の殊勲だ。俺から褒美を出すが、その前に、あんたから褒めてやれ。……本人が方々で言っている。『まだ褒められてない』と」
翌朝、帳場に呼ばれたピナは、叱られる心当たりを三つ数えながら、しょんぼり立った。
「ピナ」
「……はい」
「よく、走りました」
少女は、目を丸くした。
それから帽子を目深に引き下ろし、そっぽを向いて、くぐもった声で言った。
「…………どうも」
その日のピナは、鳩舎の屋根を三回も点検し、意味もなく梯子を二往復した。マルロいわく、あれは照れると高い所へ登る癖だという。
王国最速、面目躍如です。ちなみにまだ褒められていません(本人談)。
偽の報せで戦を起こそうとした「蠍」は、いったい何者なのか。次話は事件の後始末と、じわじわ沈む王都です。
※ブックマークは崖を走らずに済む、王国で二番目に速い報せの受け取り方です。




