第11話:剣より速いもの
偽報事件の後始末は、地味な仕事の山だった。
国境の村々を回って「戦なし」を徹底させる。荷を畳んで逃げ支度をした関市の商人たちを呼び戻す。動員しかけた領兵の飼葉代を精算する。ロザリンドは三日、帳場から動かなかった。
四日目に、アルディスが評議の場へ彼女を呼んだ。
広間には、領の重臣と、北方三領の名代が顔を揃えていた。辺境伯は、一同の前で例の偽文書——蠍の封蝋を掲げ、それから言った。
「この一枚が、あと半日遅く見破られていたら、俺は兵を出していた。国境の村は戦場になり、王国は開戦の責めを負い、冬の最中に戦をしていた。……それを止めたのは、剣ではない。城壁でもない」
彼は、末席のロザリンドを指した。
「報せだ。よって本日をもって、通信ギルド『翼の座』を、ヴェイン辺境伯領の——目とする。以後、領の物見、烽火、関所の早見は、ギルドの網と一本に束ねる」
どよめきが走った。領の防衛の一角を、よそ者の、しかも王都を追われた令嬢の店に預けるという話だ。
真っ先に頷いたのは、意外にも古参の武官だった。
「……儂は先の偽報のおり、動員に賛成した側です。あのまま行けば、儂の孫の代まで語られる大戦になっていた。異存、ござらん」
北方三領の名代たちも、次々に倣った。戦の恐さを知る土地ほど、話は早かった。
契約の条文は、その場でロザリンドが読み上げた。短かった。
——ギルドは、領の求めに応じ、防衛にかかわる報せを最優先で扱う。対価は表のとおり。
——領は、ギルドの報せを止めさせない。曲げさせない。誰宛てであっても。
——ギルドは、いかなる報せも偽らない。領主宛てであっても。
「……三条目は、要るのか」
アルディスが眉を上げた。
「都合の悪い報せも、俺にそのまま届けると?」
「はい。都合の良い報せだけ運ぶ網は、王都に一つございますので」
広間のあちこちで、噴き出す音がした。辺境伯は苦い顔で笑い、花押を入れた。
「——で、断ろうとしたんですって? 領の目のお役目」
帰り道、ピナが呆れ顔で言った。
「断っていません。値を付け直しただけです」
「値って」
「『目』は引き受ける。ただし、ギルドは領の家来にはならない。中立の店のまま、領と契約を結ぶ。……そうでなければ、他領や商人の依頼が『辺境伯の密偵』を疑って離れます」
「うへえ。あの空気で、よく言えますね」
「言うべきことは、短いほうが通ります」
ピナは肩をすくめ、それから、少しだけ声を落とした。
「……蠍のやつ、悔しがってますかね。せっかくの戦、潰されて」
「悔しがる相手なら、御しやすいのですが」
ロザリンドは、冬空を見上げた。
「あれは、値切られた商人の顔をするでしょう。次は、もう少し高い品で来ます」
「高い品って、たとえば」
「そうですね。……偽の報せは、見破られました。なら次は、本物の報せに毒を混ぜてくる。九割の真実に、一割の嘘。それがいちばん、見破りにくい」
「うへえ。……お嬢って、たまに敵の側みたいな顔で考えますよね」
「敵の帳面が読めなければ、店は守れません」
同じころ、王都は、静かに飢え始めていた。
市場の棚から、まず干し魚が消えた。次に油が、塩漬け肉が、豆が。物がないのではない。産地の報せが届かないから、どこに何があるのか、誰にも分からないのだ。
値だけが、噂を燃料にして跳ね上がった。南で凶作らしい。港が閉じたらしい。誰も確かめられず、誰もが高値で買い急ぎ、買い急ぎが値を釣り上げた。
「物流はまだ生きているのに、値だけが狂う。……報せの死んだ市場は、目隠しの博打場だ」
老いた米穀商が、空の帳場で呻いた。彼の店は三代続いたが、目隠しで張れるほど若くはなかった。
その隣では、若い同業者が油の樽を三倍値で買い漁っていた。南の油が途絶えるという噂を信じたのだ。噂の出どころを、彼は確かめなかった。確かめる手段が、そもそもこの都にはない。
半月後、南の油は平常どおり入荷し、若い同業者は樽の山と借財だけを残して店を畳んだ。
王都の商いは、そうやって一軒ずつ、静かに沈んでいった。
王宮の食卓からも、皿が一枚ずつ減った。減らした料理長は「献立の工夫」と言い繕った。体裁は、どこの庁でも整えられていた。
カルテンの市には、その冬、南の商人まで店を出した。
「王都はもう駄目だね。仕入れの読みがきかない。ここなら、朝いちばんの相場が壁に貼ってある」
エルシーの店の前では、行商の女たちが噂話に花を咲かせていた。
「知ってるかい。南のほうじゃ昔、物流を握ったご令嬢が、追われた先で国を立て直したなんて話があるらしいよ」
「あら。うちの領にも似た話が。流行りなのかしらね、追われるご令嬢が有能なの」
帳場の奥で聞いていたロザリンドに、エルシーがにやりと笑いかけた。
「だ、そうだよ。ギルド長殿。世間じゃあんたみたいのが、他にもいるらしい」
「……有能な方ですね」
ロザリンドは、真顔で帳面をめくった。エルシーは腹を抱えて笑ったが、何がおかしいのか、ロザリンドには分からなかった。
笑いおさめに、女商人は、ふと真顔になった。
「けどね、ギルド長。王都の噂で、ひとつだけ笑えないのがある。……パンの列に、子供が並び始めたってやつだ」
「ええ」
ロザリンドの、頁を繰る手が止まった。
「笑える報せでは、ありません」
それきり、二人はしばらく黙って、湯気の立つ市場を眺めていた。
王都を沈めているのは、彼女ではない。彼女は止めただけだ。——それでも、届かない報せの下で最初に冷えるのは、いつも一番小さな者たちだった。その理屈だけは、留飲では割り切れない。
その夜、国境の中継点から、短い定期報が届いた。
〈関市、平穏。例の「値を聞かない客」、十日前より姿なし。宿の主いわく、北の言葉の男、雇い主を「僚友」と呼びおれり。〉
僚友。
帝国の官吏が、同輩を呼ぶときの言い回しだった。
「……役人、ですか。商人ではなく」
マルロの声が硬くなった。ロザリンドは、地図の東の端を、長いこと見た。
「関市から消えた、ということは、仕入れが終わったということです。王国の報せの値打ちと、売り手と、買い手の顔ぶれ。……あちらの帳面は、もう埋まりました」
「次は、何を買いに来ますかね」
「買いには、来ません」
彼女は、静かに言った。
「次は、売りに来ます。——わたくしたちに、よくできた偽物を」
起きなかった戦には、記念碑が建ちません。かわりに契約書が一枚増えました。
次話、アルディスが古びた一枚の紙を持って鳩舎に現れます。五年前の、署名のない警告文です。
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