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第12話:署名のない警告文

「お嬢。最近、伯様の様子が変じゃないですか」


 夕方の帳場で、ピナが言った。


「三日続けて、鳩舎の前を素通りしてます。用もないのに。入るでも帰るでもなく、門のとこで一回止まって、腕組んで、帰るんです。不審者です」

「見張りでしょう。契約上、この鳩舎は領の目ですので」

「領主が自分で門番しますか?」


 ロザリンドは、答えなかった。答えの持ち合わせが、なかったのである。


 その夜、アルディスは一人で鳩舎に来た。


 珍しく、酒も供も連れていなかった。彼は帳場の前に立ち、しばらく言葉を探し、それから、懐から古びた紙を一枚、そっと台に置いた。


 畳み皺が、白く擦り切れている。何百回も開かれた紙の皺だった。


「……五年前の話をしていいか」


 ロザリンドは、帳面を閉じた。


「五年前。俺は二十で、初めて隊を任されて、鷹峠の南で夜営していた。翌朝、峠を越えて本隊と合流する手はずだった。……その晩、これが届いた」


 彼は紙を開いた。短い文が、几帳面な字で並んでいた。


〈明朝、鷹峠の南斜面に伏兵。数はおよそ三百、弩を伴う。本隊を通すな。迂回路は東の涸れ谷。夜のうちに動くこと。〉


「署名はなかった。届け方も妙だった。夜営の見張りの槍に、いつの間にか結びつけてあった。……罠かもしれなかった。だが、文の書き手は涸れ谷の水の涸れる時期まで知っていた。土地の者でも知らない道だ。俺は賭けて、夜のうちに隊を動かした」


 アルディスは、そこで一度、言葉を切った。


「明朝、峠の南斜面で、本隊の先遣が伏兵に食われた。……俺の隊は、無傷だった」


 鳩舎は、静かだった。眠った鳩の羽音だけが、時おり、藁の上に落ちた。


「その報せを、涸れ谷の底で聞いたとき——俺は、膝が笑った。あの紙がなければ、食われていたのは俺の隊だ。六十人だ。名前と顔と、故郷の飯の話まで知っている、六十人だった」


 以来、探した、と彼は言った。


「字の主をだ。軍の物書きの筆跡を、届く限り集めた。諸領の書記を訪ね、王都の代書屋を一軒ずつ回った。五年だ。見つからなかった。……当たり前だ。探す場所が、違った」


 彼は、擦り切れた警告文の隣に、もう一枚、紙を置いた。

 塩の買付指示の写し。三月前、彼女がこの領を救った、あの紙だった。


 同じ字だった。


 癖のない字、と人は言うだろう。だが五年、この字だけを探してきた男には分かる。払いに、迷いというものが一切ない。数字の四の、角の立て方。急いで書かれたはずの警告文のほうが、むしろ整っている。——書いた者は、恐ろしく急いで、恐ろしく落ち着いていた。


「……初めて会った日から、引っかかっていた。確かめるのが、怖かった。違っていたら、がっかりする。合っていたら——俺は、あんたに頭の上がらない理由が、もう一つ増える」


 アルディスは、顔を上げた。


「あんただな。ロザリンド・ヘイルワース」


 ロザリンドは、二枚の紙を見下ろした。

 長い沈黙のあと、彼女は、小さく頷いた。


「……当時、王都の耳は、帝国の間者が諸領の兵の動きを売っているのを摑んでいました。鷹峠の伏兵も、その一つ。ですが、わたくしの立場では、軍務に口を出せません。正規の報せは、駅逓法の壁と、体面の壁と、判子の列を越えるのに四日かかる。伏兵は、翌朝でした」

「だから、署名のない紙を、見張りの槍に」

「はい。……信じてもらえるかは、賭けでした。文の中身だけで信じてもらえるように、知っている限りの点を、全部書きました」

「ああいう紙を、他にも書いたのか」

「……数えていません。届いたかどうかも、確かめないのが、自分の決まりでした」

「なぜだ。確かめれば」

「確かめれば、褒められたくなります」


 ロザリンドは、静かに言った。


「褒められたくなれば、署名を入れたくなる。名が乗れば、次の報せは、名を惜しんで曲がる。……報せは、書き手の名誉のために曲がるのが、いちばん早いのです。ですから、確かめない。それだけの決まりです」


 アルディスは、天井を仰いだ。それから、笑うのとも呻くのともつかない声を、長く吐いた。


「あなたはずっと、誰かを守る報せを書いていたのか。名も出さず、礼も受け取らず。……署名くらい、入れておけ。礼も言えん」

「礼なら、いただきました」


 ロザリンドは言った。


「六十人、生きて峠を下りたと。翌々日の定期報で読みました。……あれは、良い報せでした」


 アルディスは、二の句が継げなかった。

 礼を待たず、名も明かさず、「良い報せでした」——それだけで五年、黙っていられる人間がいる。そのことを、この夜まで彼は知らなかった。


 彼女は、ほんの少しだけ、目元を緩めた。それは彼女の、笑顔と呼べる範囲の、いちばん端にあるものだった。


 アルディスは、その顔をしばらく見ていた。

 それから、居住まいを正して、妙にぎこちなく言った。


「……一つ、許しをもらいたい。今後、公の場の外では——あんたを、ロザリンド殿と呼んでも構わないか」


 名前で。


 ロザリンドは、瞬きをした。この男は知らないはずだ。彼女が王都で、十年、名前で呼ばれなかったことを。設立の前夜、ピナにだけ、ぽつりと零したことを。


「……構いません」


 答える声は、いつもどおり平坦だった。

 平坦であるために、いつもより、少しだけ力が要った。


「では、ロザリンド殿。改めて——五年前の礼を」


 アルディスは、深く、長く、頭を下げた。

 帳場の隅の暗がりで、盗み聞きしていたピナが、声を出さずに悶えていた。


 辺境伯が帰ったあと、少女は素知らぬ顔で薪を抱えて入ってきた。


「いやー、冷えますね今夜は。……ところでお嬢、なんか良いことありました?」

「ありません」

「即答」

「仕事の話をしていただけです」

「へえー。仕事の」


 ピナはにやにやしながら薪をくべ、それ以上は追わなかった。追わない優しさというものを、この少女は心得ている。


 その夜、帳場を閉める前に、ロザリンドは帳面の隅に、日付だけを小さく書いた。

 用件のない日付を書いたのは、帳面を付け始めてから、初めてのことだった。


署名のない警告文の主、ようやく判明です。五年かかりました。

次話は久しぶりに王都側。二つの市場を、順番にお見せします。

※五年前のブックマークにも、いつか必ず、こういう回収が来ます。


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