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第13話:二つの市場

 王都の朝市は、静かだった。


 かつて、夜明けの鐘と同時に産地の相場が読み上げられ、荷車がぶつかり合い、競り人の声が嗄れた大市場である。いま、競り台の上で読み上げられるのは、こんな紙だった。


〈本日の産地相場——入荷の報なし。前旬の値を準用のこと。 王都商務局〉


「準用、準用って、もう四旬も準用じゃないか!」

「南の豆はあるのか、ないのか、それだけでも教えろ!」

「知らんものは知らん! 報せが来んのだ!」


 言い争いも、長くは続かない。怒鳴るだけの元気が、市場から減っていた。

 棚は歯抜けで、値札は毎日書き替えられ、パン屋の前には夜明け前から列ができた。列は、パンが焼ける数より長かった。

 列の後ろのほうで、若い母親が粉屋の親爺と押し問答をしていた。


「先週の倍って、そんな。粉はあるんでしょう?」

「あるさ。あるが、次がいつ入るか分からんのだ。分からんものは、高く売るしかない」


 母親は指から細い指輪を抜き、粉一袋と替えた。誰も驚かなかった。この冬の王都では、もう見慣れた光景だった。


 その列を、外套の襟を立てた老侍従セドリックが、王宮への使いの帰りに眺めていた。


 列の中ほどに、見覚えのある顔があった。オルグレン伯爵家の家令だ。あの、羊毛で大穴を開けた家である。屋敷の使用人は半分に減らされ、家令みずから、パンの列に並ぶようになっていた。

 噂では、令嬢ミレーユのドレスと宝石が、まとめて質商の蔵に移ったという。夜会で誰より輝いていた金の髪の令嬢を、このごろ、社交界で見た者はいない。

 もっとも、見た者が一人だけいた。質商の丁稚が言うには、フードを目深に被った金の髪の娘が、店の裏口で、震える手で首飾りを差し出したという。丁稚が値を告げると、娘は「そんな」と呟き、それから、告げられた値で置いていった。

 値切る側に回ったことのない者は、値切られる日のために、何も蓄えていない。


 ——ざまを見ろ、と言う者もいた。

 だがセドリックには、それは他人事に聞こえなかった。オルグレン家は、ただ、王都の誰もが信じていたものを信じただけだ。届いてくる報せは正しい、という、あの当たり前を。


 王宮への帰り道、老侍従は懐の手控えを出し、見たままを書き付けた。パンの列の長さ。粉の値。指輪ひとつと、粉ひと袋。

 誰に命じられたわけでもない。ただ——誰も数えないものを数える者が、この都に一人くらいは要る気がしたのだ。数える背中なら、十年、柱の陰で見てきた。


 同じ朝、北の辺境。カルテンの市は、雪の中で湯気を上げていた。


 競り台の脇の板壁に、今朝の相場が貼り出されている。北方三領の穀物、川湊の魚、峠向こうの塩と油。日付は、すべて今日か昨日だ。


「豆は東で余ってる、油は峠で高い。なら答えは決まりだ、豆を積んで峠へ行くよ!」

「エルシー、うちの荷も乗せとくれ!」


 相場板の前には、字の読めない者のために、朝晩二回、読み上げ役が立つ。役を務めるのはギルドの見習いで、これはピナの発案だった。「読めないってだけで博打にされるの、あたしは知ってるんで」というのが、本人の弁である。


 競りは荒れず、値は跳ねず、荷は流れた。

 報せが生きている市場は、博打場ではなく、ただの市場でいられる。それだけのことが、この冬の王国では、北の辺境にしかなかった。


 市の外れでは、ギルドの藍封を届けに回るコリンを、パン屋の女房が呼び止めて、焼きたてを一つ持たせていた。伝令に温かいものを持たせると縁起がいい——そんな風習まで、この街には生まれ始めていた。


 王宮の評議の間で、レオニスは苛立っていた。


「市場の列を見たか。パンだぞ。王都で、パンだ。……おかしいだろう。今年は豊作だと聞いた。港も開いている。物はあるのに、なぜ値が狂う」


 居並ぶ重臣は、目を伏せた。答えられる者は、この部屋にはもういない。答えを運んでくる網が、死んでいるからだ。


「駅逓だ」


 レオニスは、初めて、自分の言葉でそれを口にした。


「思えば、全部あれからだ。外交も、相場も、駅逓の『改革』とやらが始まってから——おい、バルツァーを呼べ。今度こそ、数字で報告させろ。それから、前はどうしていた。あの女がいたころは、誰が、どうやって」

「殿下」


 穏やかな声が、遮った。宰相ギデオン・クロフトだった。


「お言葉ですが、市場の混乱は投機筋の仕業。駅逓は関わりございません。それに——」


 宰相は、痛ましげに眉を下げた。


「『あの女』の名を、殿下の口から出されますな。捏造の証拠に踊らされて忠臣を追った、と陰で申す者がおります。いま殿下がその名を口にされれば、噂を殿下ご自身が認める形になる。……ご聖断は正しかった。正しかったことに、しておかねばなりません」

「……踊らされて、だと? 誰がそんな戯言を」

「噂でございますよ、殿下。ただの噂」


 宰相は微笑んだ。レオニスの喉から、続く言葉が消えた。

 正しかったことに、しておかねばならない。その一言は、若い王子の背骨に、冷たい釘のように打ち込まれた。


 その夜、レオニスは一人、私室の窓辺に立っていた。


 眼下の王都に、灯りが少ない。油を惜しんでいるのだ。婚約を破棄したあの夜、窓の下の都は、もっと明るかった気がする。


「……鳩、と言ったな。あの女」


 最後に聞いた、あの平坦な声を、彼はふと思い出した。今後王家への報告はすべて止めます。あれは、わたくしの鳩でしたのに。

 あのときは、負け惜しみだと笑った。広間の全員が笑った。

 ——本当に、負け惜しみだったのだろうか。


 考えは、形になる前に、宰相の声が耳の奥で塞いだ。正しかったことに、しておかねばなりません。

 王子は窓帷を閉め、考えることを、やめた。


 評議のあとの廊下では、宰相が、控えていたバルツァーに短く囁いていた。


「殿下が数字をご所望だ。……分かっているね。良い数字を」

「はっ。庁にて、整えます」


 その一部始終を、柱の陰から、老侍従が見ていた。

 柱の陰は、報せの集まる場所だ。あの令嬢に教わったわけでもないのに、セドリックは近ごろ、そこに立つ癖がついていた。


同じ王国に、報せの生きている街と、死んでいる街があります。

次話、ピナの過去の話をします。冬の嵐が、近づいています。

※ブックマークの列は、パンの列と違って、並べば必ず受け取れます。


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