第14話:相棒の名前
ドナウの左膝が鳴ると、天気が崩れる。
鳩舎では、老鳩匠の膝は観測器の一つに数えられていた。その膝が、朝から鳴りづめだった。
「……こりゃあ、来ますよ。嬢様。並の吹雪じゃない。鳩どもも、今朝は止まり木から降りません」
「峠の観測小屋からも、同じ報せです。西の空の雲が、壁のようだと」
ロザリンドは、帳場の地図に印を打った。
「マルロ。全中継点に藍封を。嵐の間、鳩は一羽も出さない。伝令も止める。それから——網の届く村、全部に配りなさい」
その日、北方の村々に、同じ文が届いた。
〈大嵐、三日のうちに参ります。鳩を出すな、伝令を出すな。屋根を縛り、水を汲み、薪を屋内へ。家畜は低地から上げること。嵐の間、報せは止まりますが、ギルドは網を忘れません。明けたら、必ず様子を聞きに参ります。 翼の座〉
配って回ったコリンが、面白そうに報告した。
「村の年寄りに言われました。『報せ屋が、報せを止める報せを寄越すのか』って。……でも、みんな薪を運び始めてました」
「それと、峠の観測小屋から言付けです。『嵐のあとは、北斜面の雪庇が育つ。明けてからが本番』と」
「観測台帳に写しておきなさい。嵐が明けたら、北斜面の見回りを、何より先に」
指示を出してから、ロザリンドは言った。
「止まる、と分かっている報せは、怖くありません。怖いのは——来るはずの報せが、来ないことです」
嵐の備えは、鳩舎でも進んだ。窓に板を打ち、籠を風下へ移し、水と餌を五日分。エルシーは自分の倉を開けて、街の低地の年寄りたちの避難場所にした。「空の倉ってのは縁起が悪いんだ。人が詰まってるほうがいい」というのが、女商人の言い分だった。
城からはアルディスが人手を寄越し、自分でも屋根に上って板を打った。領主が金槌を握るのを見て、街の男たちは黙って梯子を担いだ。
嵐を待つ夜は、することが少ない。
鳩舎の灯りの下で、ピナはいつもの石板に向かっていた。四半刻の字の稽古は、この三月あまりで、ずいぶん様になってきた。もう「れ」の形にも文句を言わない。
その夜、少女は稽古を終えても、石板を消さなかった。
「……お嬢。ちょっとだけ、見ててもらえますか」
ピナは、石板の隅に、ゆっくりと二文字を書いた。
何度か消して、書き直して、それから、そっと手を離した。
——テト。
「……書けた」
少女は、自分の書いた二文字を、長いこと見ていた。
「相棒の名前です。王都の駅逓にいたころの。……あたしと同じ、拾われの孤児伝令で。あたしより二つ上で、走るのはあたしのほうが速くて、字はあいつのほうが読めて。二人で一人前って言われてました」
石板の端を、指がなぞった。
「あいつ、あたしに字を教えようとしてたんです。『いつか二人で店を持つなら、どっちかは読めなきゃ駄目だ』って。棒きれで、地面に書いて。……『て』と『と』まで、教わりました。自分の名前の字だから覚えろって。そこで、終わったんです」
だから、この二文字だけは、三年前から書けたのだ。
書けて、書けなかった。今夜まで。
ロザリンドは、何も言わずに、隣の樽に腰を下ろした。
「三年前の冬です。今夜みたいな、嵐の前の日でした。古参の伝令頭たちは『三日は誰も出すな』って言ったんです。でも、新しく来たお偉い役人が、王都の穀物商から急ぎの手形を預かってて。……期日に間に合えば、袖の下がたんまり入る手形です」
ピナの声は、平坦だった。平坦な声の出し方を、この少女は、あの夜に覚えたのだ。
「『孤児なら、一人減っても帳面が軽くなる』って。あいつ、あたしが熱を出して寝てる間に、あたしの分の配達札まで持って出たんです。……戻ってきたのは、春でした。雪解けの沢で、配達鞄を抱えたまま」
石板の上の二文字が、灯りに揺れた。
「手形は、水で溶けてました。誰も、何の得もしなかった。……役人は帳面に一行書いただけです。『配達人一名、途上にて損耗』。損耗ですよ、お嬢。テトは、道具の名前で死んだんです」
「……その役人の名前を、聞いても」
「バルツァー」
ピナは、その名を、静かに置いた。
「いま、王都で駅逓長官をやってます。偉くなったもんです」
鳩舎の梁が、風の先触れに、みしりと鳴いた。
ロザリンドは、少女の書いた二文字を見た。それから、帳場から一冊の帳面を持ってきて、ピナの前で開いた。ギルドの伝令名簿だった。
「ピナ。最初の頁が、空けてあります。書きなさい」
「……え」
「翼の座の名簿は、わたくしたちの前に走った伝令から始まるべきです。あなたが書くのが、いちばんいい」
ピナは、石板と名簿を見比べた。
それから、震える手で筆を取り、名簿の最初の行に、覚えたての二文字を書いた。テト。少し曲がって、少し滲んで、けれど確かに読める字だった。
「……お嬢。あたし、字を習っといて、よかったです」
少女は、笑った顔のまま、ぼろぼろ泣いた。
ロザリンドは、その肩に手を置いて、嵐の来る西の空の方角を見ていた。
慰めの言葉は、言わなかった。言葉より先に、手を打つ。それがこの主人のやり方で、いま打たれた手が何を意味するかは、少女がいちばんよく知っていた。
——名簿の一行目。伝令、テト。
ギルドの帳面にその名がある限り、テトはもう「損耗」ではない。伝令だ。
翌日の昼、世界が白く消えた。
三十年に一度、と老人たちが言う大嵐だった。ギルドの網は、報せを止めて嵐をやり過ごす。備えを終えた北方の村々も、じっと息をひそめる。
だが、王領の官営駅逓に、嵐に備えろと告げる者はいなかった。
いや——告げた者が、いなかったわけではない。峠の観測所は、官営の網にも律儀に同じ警告を送っていた。観測員は、宛先がとうに死んでいることを、知らなかったのである。
中継塔の板戸は開いたまま、鳩は籠のまま、備えの報せは、どこへも飛ばなかった。
——長官の机の上で、峠の観測所からの警告文が、「上申保留」の箱に入ったのは、嵐の前日のことである。
名簿の一行目に、名前が入りました。
次話、嵐が明けます。官営の網に何が起きたか、そして一羽の鳩の話です。第一部前半、最大の山になります。
※ブックマークは嵐でも飛ばされません。金具は当店で確かめました。




