第15話:嵐を抜けた一羽
三日目の夜半、風の音が変わった。
夜明け、雪はまだ横に流れていたが、空の色は薄くなっていた。嵐は、尻尾に差しかかっている。
ギルドの網は、生きていた。屋根を縛った中継小屋は一つも潰れず、籠の鳩は一羽も失われていない。備えろ、と告げる報せが、嵐より先に届いていたからだ。
王領の官営駅逓は、そうではなかった。
中継塔は三つ倒れ、板戸を開けたままの鳩舎は雪に埋まり、残っていたわずかな鳩は凍え死んだ。もともと死にかけていた網は、この三日で、名実ともに息絶えた。
告げる者が、いなかったからだ。
——正確には、告げる文が、王都の「上申保留」の箱の底で眠っていたからだ。
「嬢様! 峠の観測小屋から、旗信号!」
風がまだ唸る朝、物見に立っていたコリンが転がり込んできた。嵐の間、鳩を使えないギルドは、見通しの利く場所に限り、旗と鏡で最低限の報せを繫いでいた。
「読みます。——『北斜面、雪庇、大割れ。眼下、鷲谷村。もって、夜明けまで』……!」
帳場の空気が凍った。
鷲谷村。峠の北、王領側の谷あいの村だ。戸数はおよそ六十。雪庇が落ちれば、雪崩は谷をまっすぐ呑む。
そして王領の村への警報は、本来、官営駅逓の仕事だった。その網は、昨夜、死んだ。
「伝令は」
「間に合いません。雪で、隘路が全部閉じてます。人の足では、どう走っても二日」
「旗は」
「谷が深すぎます。鷲谷は、見通しが繫がりません」
マルロが、地図の上で拳を握った。残る手は、一つしかなかった。全員が、それを分かっていて、口に出さなかった。
嵐の尻尾の中へ、鳩を出す。
「……この風の残りじゃ、並の鳩は百のうち百、落ちます」
ドナウが、低く言った。
「並の鳩なら、ですがの」
ピナは、もう鳩舎の奥へ走っていた。
戻ってきた少女の腕には、灰色の、翼の長い一羽がいた。若いが、胸の厚い鳩だった。嵐越えの血統に、ごくまれに出るという「百に一羽」——帰り道のほかに、行きの道を覚える子だ。ピナが誰にも触らせずに鍛え上げ、峠への便に幾度も連れて出た。鷲谷の空は、翼が覚えている。
「名前、まだ言ってませんでしたよね」
少女は、鳩の頭に額を当てた。
「テトです。……相棒は嵐に殺されたんで。今度は、勝つ側です」
ロザリンドは、小さな紙に、削ぎ落とした文を書いた。一語でも軽く。一語でも確かに。
〈鷲谷村へ。北斜面、雪庇割れ。夜明け前に、全員、教会の丘へ。火と毛布を持て。戻るな。 翼の座〉
足環に巻く。ピナが、鳩舎の風上の窓を開けた。雪混じりの風が、吹き込んで灯りを揺らした。
「行け、テト」
少女は、腕を振り上げた。
「——落とすんじゃないよ!」
灰色の翼が、白い空に消えた。
鷲谷村の朝は、鐘で始まった。
教会の軒先に降りた一羽の鳩を、雪かきに出ていた寺男が見つけた。緋色の封。読み上げた村の司祭は、二度読み直す時間を惜しんで、鐘楼へ走った。
夜明け前、六十戸の村人は、火と毛布を抱えて教会の丘に立っていた。ぶつぶつ言う者もいた。鳩一羽で村を空にするのか、と。
夜が明けきる、そのときだった。
山が、鳴った。
雪庇は谷をまっすぐに呑み、村の三分の一を、家ごと白く消した。丘の上の六十戸分の命は、身を寄せ合って、それを見ていた。
死者は、出なかった。一人も。
「……鳩一羽で村を空にするのか、と言うたのは、儂だ」
埋まった自分の家を見下ろして、最初にぶつぶつ言っていた老人が、司祭の隣で帽子を脱いだ。
「家は、掘れば出る。……ありゃあ、どこの鳩様だね」
「北の、翼の座というギルドの便だそうです」
「覚えた。孫の代まで言い聞かせる」
十日後、王都。
貴族評議の間に、二つの報告書が並んだ。
一つは、駅逓庁のもの。〈此度の嵐、王領の被害は軽微。駅逓の復旧は順調〉。
もう一つは、鷲谷村はじめ王領北部の村々が、辺境経由——ギルドの網で直接届けた、被害の実数だった。倒れた中継塔の数。埋まった村。凍死者。そして、鳩一羽で救われた六十戸の顛末。
数字は、あまりに食い違っていた。
「軽微、とは何だ。バルツァー」
評議の空気は、もう問いの形をしていなかった。査問である。
追い詰められた長官の執務室からは、「上申保留」の箱が運び出された。嵐の前日の警告文が、箱の底から出てきた。峠の観測所が官営の網に上げた、最後の忠告だった。読まれもせず、眠っていた。
「わ、わたしは、体裁を——報せの体裁を、整えていただけで」
「報せを、握り潰していただけであろう」
誰かが言い、誰も庇わなかった。
宰相クロフトは、静かに目を伏せていた。庇う言葉は、最後まで出さなかった。評議のあと、側近にだけ、彼は短く洩らした。
「トカゲの尻尾は、切れるから値打ちがあるのですよ」
バルツァーの罷免は、その日のうちに王命で下りた。
査問の書類の中で、一つだけ、行き先の分からぬ項目があった。長官在任中、検分した報せの「写し」の綴りが、丸ごと一冊、消えていたのである。誰に渡ったのか、帳簿のその頁だけが、綺麗に抜き取られていた。
査問官は首をひねり、多忙のうちに、それを忘れた。
査問の締めくくりに、老書記官が古い記録を読み上げた。前例の確認、という手続きだった。
「——駅逓の記録によれば、過去七年、伝書が三日以上絶えた例は、一度もなし。嵐の年も、戦の年も、なし。当時の実務責任者は……」
老書記官は、そこで一度、口ごもった。
「……ヘイルワース公爵家息女、ロザリンド嬢」
評議の間が、静まり返った。
誰もが知っていて、誰も口にしなかった名前が、初めて公式の記録として、その部屋に置かれた。
「では」と、末席の老貴族が誰にともなく訊いた。「王国の耳は、いま、どこにあるのだ」
答えは、なかった。
ただ全員が、同じ方角を思い浮かべていた。北である。
カルテンの鳩舎に、テトが帰ってきたのは、雪崩の三日後だった。
風切羽が二枚折れ、痩せて、それでもまっすぐに、ピナの肩へ降りた。
少女は声を上げず、鳩を両手で包んで、長いこと窓辺に立っていた。
ドナウが折れた風切羽をあらためて、髭の奥で笑った。
「なに、羽は生え替わります。春には、また嵐の空へ……」
「行かせません。こいつは殿堂入りです。餌も特級です」
「はて、嬢様の給金で払えますかな」
「あたしの給金から引いてください」
それから少女は、帳場のロザリンドを振り返り、帽子のつばを、ぱちんと弾いた。
「——配達完了、っと」
その声は、ほんの少しだけ、震えていた。
「ピナ」
ロザリンドは、帳面から顔を上げた。
「よく、届けました。——あなたと、テトが」
どちらのテトのことかは、言わなかった。
言わなくても、届いていた。
六十戸、全員無事です。届けたのは、剣でも判子でもなく、一羽でした。
そして王都が、ようやく「耳」の在り処を思い出しました。——次話、王都から、使者が来ます。
※ブックマークは嵐の翌日でも、ちゃんと帰ってきた読者さまの止まり木です。




