第7話:地図に、赤い線を引く
「読みます」
夕暮れの鳩舎で、マルロが緋色の封を割った。国境の関所——正確には、関所に詰める古い顔なじみの書役からの報せだった。
〈帝国側の宿場にて。王都の穀物高、オルグレン家の損、レムリア使節の不首尾——王国の凶報が、王国より早く語られている。出所、不明。売り手、不明。ただし報せは正確。 関所書役〉
鳩舎が、静かになった。
「……どういうことです? 王都の話が、なんで帝国側で先に」
ピナが眉を寄せた。ロザリンドは紙片を受け取り、二度読んだ。
「報せは、水と同じです。低いほうへ流れる。王国の駅逓が死んで、報せの流れに大きな空白ができました。空白は、埋まります。——誰かが、埋めているのです」
「誰かって、誰です」
「それが分からないのが、報せの怖さです」
マルロが、腕を組んだ。
「埋め得をする者、ですか。抜け目のない商人。諸領の物見。王都の没落を待つ、どこかの家……」
「どれも、あり得ます。ただ」
ロザリンドは、紙片の「報せは正確」の一行を、指で押さえた。
「商人なら、売ります。正確な報せを、ただ撒く者はいません。撒いて得をするのは——報せで人の頭の中を耕したい者だけです」
「頭の中を、耕す?」
「王国は危うい、と。帝国側の誰もが思うように。……一番怖い埋め手は、国です」
彼女は立ち上がり、鳩舎の奥の壁へ歩いた。
そこには、父の代から使われてきた駅逓地図の写しが掛けてある。王国全土。六十七の中継所。いまは動かない、色の褪せた線の網。
「マルロ。赤い墨を」
ロザリンドは筆を取ると、地図の北の一角に、迷いのない線を引き始めた。
カルテンを結び目に、北方三領へ三本。川湊へ一本。峠の塩街道へ一本。——ギルドの網が届いている場所に、赤い線が走っていく。
「これが、いまのわたくしたちです」
赤い線は、王国の地図のほんの端で止まっていた。
「そして、ここまで引きます」
筆が、すっと東へ伸びた。国境の関所まで。
「国境に、目と耳を置きます。帝国側で王国の報せを売っている『誰か』の、顔を見るために」
網を広げるには、金と、人と、止まり木が要る。
金は、あった。エルシーが連れてきた北方の商人たちが、こぞって定期契約を結んだからだ。契約の場で、エルシーは仲間にこう説いた。
「いいかい、あんたたち。この店の報せは旬に銀三枚。高いと思うだろ。——あたしは羊毛で、この店に銀三百枚分は助けられた。保険と思や、ただみたいなもんさ」
契約の席で、若い穀物商が首をひねった。
「前から不思議だったんだが……鳩ってのは、行けと言った場所へ飛んでくれるものなのか?」
「飛びません」
答えたのは、ドナウだった。老鳩匠は籠から一羽を出し、掌に載せてみせた。
「鳩が飛べる道は、たった一つ。自分の生まれた鳩舎へ帰る道だけです。カルテン生まれの子は、王国のどこで放しても、カルテンへ帰る。それだけの鳥ですわい」
「なら、こっちから外へ報せを送るときは、どうする」
「川湊生まれの子を、こっちの籠で預かっておくのです。放せば、川湊へ帰る。……網を張るというのはですな、街と街で、互いの生まれの子を預かり合うこと。籠と餌と、世話の人手。だから銭がかかる」
「で、もっと遠くへは」
「継ぐのです。カルテンから峠へ、峠から関所へ。一羽の速さは早馬の三倍、それを乗り継がせる。——翼の駅逓、というわけで。……ああ、ごくまれに、帰り道のほかに行きの道を覚える変わり者もおりますがの。百に一羽の、血筋と育ての話ですわい」
商人たちは、掌の鳩と壁の地図を見比べ、それから財布の紐を緩めた。仕組みの呑み込めた投資ほど、話の早いものはない。
人も、集まった。閉じた中継所の元駅番、職を失った王都の元伝令。噂を聞いて、北へ北へと流れてくる。マルロが素性を確かめ、ドナウが鳩の扱いを試し、ピナが——なぜかピナが最後に飯を食わせて、人柄を見た。
「食い方の汚いやつは駄目です。鳩が怖がるんで」
基準は謎だったが、ピナが通した者は不思議と長続きした。
のちにマルロは、あれは飯の食い方ではなく、飯を出されたときの目を見ていたのだと気づく。飢えたことのある者は、出された飯に頭を下げる。頭を下げられる者は、預かった報せにも頭を下げる——少女の目利きは、そういう理屈だった。
止まり木は、アルディスが用意した。街道沿いの見張り小屋、廃れた砦の塔、峠の避難小屋。領の持ち物を、次々と中継点に貸し出した。
その日も彼は、鳩舎の地図の前に腕を組んで立っていた。
「……壮観だな。地図に線が増えるのが、こんなに面白いものとは知らなかった」
「面白い、ですか」
「ああ。俺が城壁を一段積むより、あんたの線が一本伸びるほうが、この領は安全になる。癪だがな」
彼は笑って、それから真顔になった。
「国境の件、本気か。あちら側に目を置くのは、火遊びに近いぞ」
「火は、もう点いています」
ロザリンドは地図から目を離さなかった。
「わたくしたちが見ていないだけで」
アルディスはしばらく唸り、それから、財布ではなく剣帯を叩いた。
「……いいだろう。国境の中継点には、うちの斥候あがりを二人付ける。腕は立つし、口は堅い。鳩の世話は、そっちで仕込め」
「高くつきますが」
「あんたの言う『火』が本物なら、安いものだ。偽物なら——」
彼はにやりと笑った。
「そのときは、斥候二人分の飯代を、ギルドの帳面に付けておく」
「かしこまりました。貸し借りの帳面は、うちの得意分野です」
十日後。国境の関所そばの隊商宿に、ギルドの中継点が開いた。
開通の第一便は、夜明けに発って、昼前にはカルテンの鳩舎に降りた。関所までの距離を思えば、早馬の三倍の速さだった。
足環の報せを、ピナが誇らしげに読み上げる。
「えー……〈国境中継、開通。本日の関市、平穏。帝国側の宿に、変わった客が一人。王国の報せを、値も聞かずに買っていく〉——」
読み上げる声が、途中で緩んだ。
「……値も聞かずに?」
「商人は、値を聞きます」
ロザリンドは、静かに言った。
「値を聞かない買い手は、商人ではありません。あれは——仕入れではなく、仕事です」
地図の上、国境の赤い点を、彼女は長いこと見ていた。
網は届いた。
届いた先に、誰かがいた。
赤い線は国境まで届きました。届いた先に、先客がいたようです。
次話、王都の駅逓長官が動きます。彼の武器は鳩ではなく、判子です。
※ブックマークの線も、ぜひ一本。地図が賑やかになります。




