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第6話:翼の座

 設立式の前夜、鳩舎には灯りが残っていた。


 ロザリンドは一人、明日読み上げる規約の紙を前に座っていた。文言は昼のうちに決まっている。直すところは、もうない。それでも、手が紙の上から動かなかった。


「お嬢、まだ起きてます? 差し入れでーす。腸詰め」


 ピナが戸口から首を出した。返事を待たずに入ってきて、樽の上に腰を落ち着ける。


「明日の口上、覚えました? あたしは無理でした。だから短くしてください」

「二文です。あれ以上は短くなりません」

「さすがお嬢」


 沈黙が下りた。夜の鳩舎は暖かく、藁と穀物の匂いがして、時おり、眠った鳩の羽ばたきがひとつ、ふたつ。


「……ピナ」

「はい」

「私は王都で、一度も名前を呼ばれませんでした」


 ぽつりと、ロザリンドは言った。


「壁の花。氷。ヘイルワースの娘。陰気な方。……十年いて、一度も」


 ピナは腸詰めを齧る手を止めた。

 慰めの言葉を探す顔を、一瞬だけした。それから、やめて、にっと笑った。


「じゃ、明日から死ぬほど呼ばれますよ。看板に書くんですから。——ギルド長、ロザリンド・ヘイルワース、って」

「……そうですね」

「あと、あたしは百回くらい呼んでます。お嬢、お嬢って」

「あれは名前ではありません」

「名前みたいなもんです。あたしが決めました」


 ロザリンドは、少しだけ目を伏せた。笑ったのかもしれなかった。灯りが暗くて、ピナには見えなかった。

 見えなかったが、ピナは満足そうに腸詰めの残りを口に放り込んだ。


 翌日。カルテンの旧麦倉——いまや増築された鳩舎の前広場に、人が集まった。


 伝令が二十六人。鳩匠と見習いが九人。エルシーをはじめ、名を連ねる商会が十四。緋色の外套の領兵が一列。物見の領民が、その十倍。屋台まで出ていた。ピナが手配したらしい。仕事が早かった。


 式の途中、エルシーがドナウ老人をつついて、小声で訊いた。


「前から不思議だったんだけどね。なんで鳩は、あの人にだけあんなに懐くんだい。餌か? それとも何かの……その、魔法とか」

「十年ですよ」


 老鳩匠は、壇の上の元・公爵令嬢を見たまま、目を細めた。


「嬢様は十の歳から、王国じゅうの中継所の鳩の血統台帳を、ご自分の手でつけてこられた。どの雛がどの巣から出て、どの空に強く、どの風を嫌うか。冬の産室で徹夜して、雛に手ずから餌をやって、指の先を突かれて血だらけになって。……儂ら鳩匠が束になっても、あの台帳は書けません」

「へえ。……生まれつきの才ってわけじゃ、ないんだね」

「鳥はね、奥さん。位階には懐かんのです」


 ドナウは、皺だらけの自分の手のひらを開いてみせた。


「手に、懐く」


 壇の上では、アルディスが公認状を読み上げていた。関所通行の自由。中継小屋の用地。領兵による荷の護衛。読み終えると、彼は羊皮紙を巻き、隣に立つロザリンドを見た。


「名は決めたのか」

「翼の座、と」


 ロザリンドは頷いた。


「座は、商人の寄合の古い呼び名です。壁の花には、座席がありませんでしたので。……これからは、ここが席です」

「いい名だ」


 アルディスは笑って、それから、少しだけ声を落とした。


「この公認状に、俺の名を並べたことを——悪くなかったと、いつか思わせてくれ」

「三日で思わせます」

「……あんたは本当に、値切らないな」


 式次第は簡素だった。マルロが規約を読み上げる。封は緋と藍の二等級。値は表のとおり。依頼は身分を問わず受け、貴族の依頼も領主の依頼も、順は先着。

 「先着」のくだりで、商人たちがどよめき、アルディスが「俺もか」と訊き、マルロが「はい」と即答して、広場に最初の笑いが起きた。


 ロザリンドは壇の前へ出た。

 広場が静まる。口上は、宣言していたとおり二文だった。


「誰の秘密も売りません。ただし、嘘は運びません。——それが、このギルドの封蝋の意味です」


 一拍おいて、ドナウが手を上げた。

 鳩舎の大窓が、いっせいに開いた。


 数百の翼が、音を立てて北の空に昇った。


 灰色、白、鹿毛。渦を巻き、群れは一度だけ広場の上で旋回して、それから四方へ散った。北方三領へ、川湊へ、峠へ、国境へ。開業を告げる第一報が、それぞれの足環で光っていた。


〈開業のお報せ。通信ギルド「翼の座」、本日より。緋の封は至急、藍は定期。誰の秘密も売らず、嘘は運びません。〉


 空を仰いだ群衆から、歓声が上がった。ピナが帽子を投げ上げて叫び、エルシーが柄にもなく目元を拭い、それを見て慌てて算盤を出した。

 ロザリンドは、飛び去る翼をいつまでも数えていた。

 六百と十二羽。一羽も、欠けていない。


「ギルド長!」


 誰かが呼んだ。商人の列の中からだった。

 続いて、伝令たちが。見習いが。屋台の親爺までが。


「ギルド長! ロザリンド様!」


 彼女は空を見上げたまま、返事をしなかった。

 できなかったのだと、隣のピナだけが知っていた。少女は何も言わずに、主の袖を、とん、と一度だけ叩いた。


 同じ日、王都。


 東の隣国レムリアから、正式の抗議使節が入城した。返書の遅延、三件。国境急使の不着、二件。関市での「不可解な情報の非対称」への申し入れ、一件。

 王宮は騒然となり、外務は駅逓庁に問い合わせ、駅逓庁は「改革は順調」と答えた。誰も、それ以上の答えを持っていなかった。


 宰相府の奥まった一室では、ギデオン・クロフトが一人、地図を眺めていた。


 王国の駅逓網。六十七の中継所を結ぶ、赤い線の網。かつて王国の血脈と呼ばれ、いまは動いていない、ただの線。

 動かない網の値段は、日ごとに下がる。それを咎める者も、惜しむ者も、価値を知る者も、この王都にはもういない。

 あの娘一人を除いて——いや。


「娘一人、でしたな。もとより」


 宰相は手元の書きかけの文に目を落とした。宛名は、まだ書かれていない。文面は短い。


 ——例の品、そろそろ買い時かと。網は空です。値は、下がりきりました。


 彼は満足そうに封をした。封蝋は、何の変哲もない、王宮の緑だった。


 夕暮れの鳩舎に、ピナが駆け込んできた。

 祭りの後片付けもまだ終わらない、設立の初日である。少女の手には、緋色の封の報せが一通。


「お嬢! 国境の関所から——妙な報せです」


六百と十二羽、無事に飛びました。

妙な報せの中身は、次話で。国境で、何かが始まっています。

※ブックマークという止まり木を一本いただけますと、続きが迷わず帰ってきます。


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