第59話:読める者が、いない
ドラゴ・ヴェスパは、供を連れずに来た。前と同じ帳場、前と同じ椅子である。ただ、前より痩せていた。
「お茶を」
「頂戴します」
彼は、茶碗を持ち上げて、置いた。飲まなかった。
「ヘイルワース殿。二つ、伺いたい」
「どうぞ」
「一つ。あの帳は、あなたが買ったのか」
「いいえ」
「では、娘が渡したのか」
「渡してはおりません。あの子が、配ると決めました」
ドラゴは、しばらく黙っていた。
「……いくらで買えたと思われる」
「銀十万枚は下らないと申し上げました」
「申し上げた、とは」
「あの子に、そう説明しました。そのうえで決めていただきました」
彼は、初めて茶碗から手を離した。
「十万と聞いて、断ったのか」
「はい」
「なぜだ」
「わたくしにも、よく分かりません。ただ、あの子は、汚い字の写しのほうを持ち上げて、『じゃあ、こっち』と言いました」
ドラゴの顔から、何かが抜けた。
「二つめを伺う」
彼の声は、変わらなかった。
「わたしの商いは、いま、どうなっていると思われる」
「存じません」
「では申し上げよう」
彼は、両手を卓の上で組んだ。
「この二月で、海務商会の海の報せを買った船は、十一隻です。去年の同じ月は、四百二十六隻でした」
マルロが、湯の盆を持ったまま戸口で足を止めた。
「湊の値付けは、意味を失った。旗を読むのに、うちを通す必要が無くなったからです。灯りも同じ。潮も同じ」
彼は、一度、息を吸った。
「配られたものは、回収できません。売り物ではないからです。買い戻すこともできん。値がついておらんものは、買えん」
「はい」
「あなたは、わたしの商いを壊した」
ロザリンドは、首を横に振らなかった。頷きもしなかった。
「壊してはおりません」
彼女は、卓の上の刷り物を一枚、彼のほうへ押した。
「道にしました」
ドラゴが、その紙を見た。
「道は、壊れません。誰かが通らなくなっても、そこにあります」
彼は、その紙を手に取った。旗の形が、絵で並んでいる。灯りの間が、線で並んでいる。潮の筋が、日数とともに書いてある。彼は、それを長いこと見ていた。
見ていて、指が、途中で止まった。
「……ヘイルワース殿」
「はい」
「この、九つめの形。これは何と読む」
ロザリンドは、答えなかった。答えられなかった。彼女もまだ、全部は覚えていない。ドラゴは、紙から目を上げなかった。
「わたしは、読めん」
彼は、そう言った。
「三十年、海の報せを商ってきた。この海で、いちばん多くの報せを持っていたのは、わたしだ。……だが、わたしは一度も、自分で読んだことが無い」
紙が、彼の手の中で、少しだけ震えた。
「読ませていた。育てて、配して、使えるうちは使った。目が霞めば降ろした。降ろした先のことは、帳簿の外だと申し上げましたな」
「伺いました」
「いま、うちに、これを読める者は一人もおらん」
彼は、紙を卓に置いた。
「エイナルは死んだ。あの娘は、あなたのところに居る。残っていた三人は、去年から今年にかけて、目をやられて降ろした。……名も覚えておらん」
彼は、そこで初めて、椅子の背にもたれた。
「わたしは、替えが利くと思っておった。実際、二十年、替えは利いた」
誰も、何も言わなかった。
「利かなくなるとは、思っておらんかった」
しばらく、帳場は静かだった。ロザリンドは、彼のほうを見ていた。
「ヴェスパ殿」
「はい」
「一つだけ、伺わせてください」
「どうぞ」
「なぜ、灯を偽ったのですか」
ドラゴは、少し考えた。
「値が下がっておりました。十年ほど前、南の湊に競争相手が増えて、報せの値が三割落ちた。……三隻沈めば、値は戻ります。皆、怖がって買う」
彼は、淡々と言った。
「わたしは、報せを売る商人です。人が怖がっておるときが、いちばん高い」
ロザリンドは、目を伏せなかった。
「わたくしの父は、その逆をしました」
「ほう」
「人が怖がっているときに、無料で配ったそうです。それで六十七所まで広げて、そこで殺されました」
彼女は、顔を上げた。
「わたくしは、父のやり方を続けます。それだけです」
ドラゴは、立ち上がった。扉の手前で、振り向いた。
「一つ、置いていく」
彼は、懐から紙を一枚出して、卓に置いた。
〈鴎岬 灯台 当直控(商館写)
三年前 四月三日 夜
一の当直 王領番人 ハーロウ
二の当直 王領番人 ドリス
三の当直 (記載なし)
備考 当夜、塔上に一名。指図に依らず。
同名の者、翌年より当商会 湊支配人付〉
「エイナルが落ちた夜の、鴎岬の当直だ。二人と、あなた方は思っておられよう」
「はい」
「三人おった。三人目の名だ」
彼は、それだけ言った。
「わたしは指図をした。だが、あの晩、塔に登れとは言っておらん。……登った者が、勝手に登った」
ロザリンドは、置かれた紙を裏返さなかった。三人目の名は、いずれ読む。読んで、代官所へ回すことになるだろう。だが、それは今日の仕事ではない。
あの男が最後に置いていったのは、詫びではなかった。「わたしは指図をしたが、殺せとは言っていない」という線の引き直しである。三十年値をつけてきた人が、最後に自分の値を守ろうとした。
その気持ちを、彼女は分からなくもなかった。分からなくもないことが、少し嫌だった。馬車の音が消えてから、ヨナが卓のところへ来た。紙は、見なかった。
「ピナ」
「はい」
「名簿、出して」
ピナが、伝令名簿を持ってきた。ヨナは、自分の行を開いた。ピナの字で「ヨナ」と書いてある、あの二文字である。
子供は、筆を取った。そして、その二文字に、まっすぐ線を引いた。
「あ、ちょっと!」
「うるさい」
ヨナは、線を引いた字のすぐ下に、自分で書いた。ゆっくりだった。二文字目の払いが、まだ少し長い。書き終えて、彼女は筆を置いた。
「もう、荷物じゃないので」
替えが利くと言って捨ててきた人が、一人も残っていませんでした。
次話、第二部の最終話です。帳面が、一年ぶんで締まります。
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