第60話:読める国
秋のカルテンは、鳩舎の窓を半分閉める季節になる。通信同盟の席は、その年の秋にひらかれた。議題は一つだった。盟約に、五条目を足すかどうかである。
草案を持ち込んだのは、ドルレイ伯だった。
「わしが言い出したことの、落とし前でしてな」
彼は、頭を掻いた。夏の席で「封を検めたい」と言った人である。あの話は、その後も一度も蒸し返されなかった。
「あのあと、うちの領の湊で、漁の連中があの刷り物を回しておりましてな。……字の読めん爺さんが、絵だけ見て、孫に旗の話をしとった」
彼は、草案を卓に置いた。
「あれを見て、わしは自分が何を言おうとしたのか分かった」
〈通信同盟 盟約 第五条
報せの読み方は、誰のものでもない。
同盟は、これを隠さず、値をつけず、求める者に配る〉
判は、その日のうちに四つ押された。湊バルカ支所は正式な中継所になった。鴎岬の目の中継所は、常設になった。組合は残り、支所と併せて、朝夕二度の読み上げを続けている。
ヨナは、湊の旗頭になった。伝令名簿には、海側の一行目に彼女の名がある。ピナの代筆を線で消して、自分で書いた、あの字である。名簿の一行目が二つになった、と誰かが言った。
陸の一行目はテトで、海の一行目はヨナだった。
秋の終わり、ロザリンドは湊へ下りた。桟橋では、ピナが読み上げ役の見習いに旗語を教えていた。教わっているのは、去年「黒くない告知は、ぜんぶ偽物でーす」と叫んでいた子供である。
「ちがう! 肩の高さ! それだと『あんたじゃない』です!」
「厳しくないですか、先生」
「先生じゃないです」
言い方まで、そっくり写っていた。ガレトは、支所の板の前にいた。白墨で書き足しをしている。近ごろは、板の下に間違いを直す欄があり、そこに湊の者が勝手に書き込んでいく。
「支所長。今日は、十四人が間違いを直しに来た」
「増えましたね」
「うるさくてかなわん」
彼は、そう言って笑った。コリンは、夏の終わりに吊り紐が取れた。いまは南回りに戻っている。母親からは礼だと言って干した魚が二度届き、断る筋合いをロザリンドは思いつかなかった。コッブからは、月に一度、封蝋の型と一緒に手紙が来る。給金は毎月二度数えている、と毎回書いてある。カルテンへ戻ったのは、秋の終わりだった。
帳場の卓で、ロザリンドは一年ぶんの帳面を締めた。中継三十四所。顧客二百四十。伝令四十一人。鳩八百二十。湊バルカ支所と、鴎岬の目の中継所。上がりは、去年の八割まで戻った。二割は、まだ戻っていない。
彼女は、末尾に日付を入れた。書き足す前に、帳面を夏の頁まで戻す。〈砂雲〉の名と、戻らなかった二人の名が書いてある頁である。あの二人は翼の座の者ではない。名簿にも載っていない。それでも、この帳面には書いた。
頁を戻し、いつものように一行だけ、用件でないものを書き足した。——開業から一年。全員、無事。読める者、増えました。
その夜、露台にアルディスが酒を持って上がってきた。
「締めたか」
「締めました」
「二割、戻っておらんそうだな」
「はい。戻らないかもしれません」
「困るか」
「困ります」
彼女は、杯を受け取った。
「ですが、湊の空を見上げる人が増えました。それは帳面に載りません」
アルディスは、何か言おうとして、やめた。
「……あんた、去年より少し喋るようになったな」
「そうでしょうか」
「なった」
眼下の街道を、遅番の伝令の灯りがひとつ、南へ流れていく。あの先に王都があり、王都の先に関所があり、関所の先に湊があり、湊の先に海がある。
その海の向こうに、まだ会ったことのない誰かがいて、今日も旗を振っている。帳場の扉が叩かれたのは、そのときだった。マルロが、盆に一通載せて上がってきた。
「嬢様。王都から、黒封で」
「商務局ですか」
「いえ。それが」
彼は、封を裏返した。
「王宮の、奥からで」
封蝋は、緑だった。王宮の色である。ただし、評議のものでも商務局のものでもない、もっと内側の印だった。
ロザリンドは、封を割った。中は、一行だった。
〈陛下が、目を覚まされました〉
それだけである。差出人の署名は無い。だが、字には見覚えがあった。体言止めの短い字を書く、王都の老侍従の字である。
ロザリンドは、その紙を長いこと見ていた。
「嬢様?」
「……七年です」
国王は、七年病で臥せていた。玉座は空のままで、政は宰相と評議が動かしていた。その宰相が去年沈み、玉座はまだ空だった。
父が死んだのも、七年前である。父の名を知っている人間で、まだ生きている者は、そう多くない。
「マルロ」
「へえ」
「返事は、保留します」
「保留で、ようございますか」
「はい。何を訊かれるか分かりませんので、先に決めておきます」
彼女は、帳面の新しい頁を開いた。
去年の春、同じことをした。読めない記号を七列、帳面に挟んで頁の頭に〈宿題。返信は、読めてから〉と書いた。あの宿題は、一年かかって片付いた。
彼女は、王宮からの一行を挟み、その頁の頭に、短く書いた。
——宿題。二つめ。露台へ戻ると、アルディスが杯を持ったまま待っていた。
「何かあったか」
「王都からです。宿題が、一つ増えました」
「……あんたの宿題は、いつも一年かかるな」
「早いほうです」
秋の夜風が、鳩舎の匂いを運んできた。
三年前の秋、彼女は王宮の大広間で報せを止めた。あのとき、帳場には誰もいなかった。
いまは、陸の網が三十四所を結び、海の網が旗と灯りと潮で継がれ、その両方の読み方が二百三十の樽と四百二十枚の紙になって、名前も知らない人たちの手に渡っている。
止めた夜には、独りだった。
「マルロ、戸締まりを。ピナには、明日、湊へ発つ支度を」
ロザリンドは、杯を持ち上げた。
「——それから閣下は」
彼女は、少しだけ間を置いた。
「もう少し、そこに」
第二部「海の情報網編」、これにて完結です。全六十話、お付き合いをありがとうございました。
陸の網と海の網が繋がり、読み方は誰のものでもなくなりました。帳面には「全員、無事」。
ただ一行だけ、まだ返事をしていない報せが挟まっています。——七年ぶりに、玉座が埋まるようです。
※ブックマークは、次の宿題まで外れません。第三部でお会いしましょう。




