第58話:同じ日に、着く
夏潮の終わりまで、十一日だった。ガレトが言うには、この十一日を逃すと、次に同じ筋が回ってくるのは半年後になる。
「嬢様。半年待ったら、店がありませんぜ」
マルロがそう言い、それきり誰も日程の話をしなかった。
樽は、二百三十作った。湊の桶屋が総出で焼き、蝋を流し、封をした。封蝋は、コッブが北から送ってきた新しい型である。カルテンの工房で三日徹夜して彫ったと添え状に書いてあった。書き癖のとおり、「承智いたしました」とあった。
型は、塔の絵だった。上に、光を表す三本の線。エイナルの印を、そのまま彫り直したものである。
「嬢様。これでよかったんですかい」
マルロが、封の型を指で押した。
「うちの型じゃありませんぜ」
「はい」
「翼の座の名は、どこにも」
「入れません」
彼女は、樽の一つを撫でた。
「あの方の印を、あの方の潮に乗せます」
中身は、三つだった。一つ、「海の言葉 早見」の完全版。ヨナが七日かけて読み下し、ピナが書き取り、ガレトが潮を確かめた十九年ぶんの帳の全部である。
二つ、鴎岬の灯台の当直帳の写し。三夜の、〈布 三度〉と書かれたほうである。
三つ、その三夜に沈んだ三隻の積荷がどこへ運ばれ、どこで売られたかの記録。日付と、荷目録と、売り先の商館名。
「マルロ。この三つ目は」
「全部本物ですぜ。俺が、代官所の控えと商館の帳と三度突き合わせやした」
「線は引きましたか」
「引いてやせん。並べただけで」
ロザリンドは、頷いた。
三年前、彼女は蠍の網に餌を流した。あのときは、材料は全部本物で、線だけが嘘だった。今度は逆である。線も本物で、しかも隠さない。
「原本の在り処も、書き添えてください」
「書きますが……いいんですかい。持っていかれますぜ」
「持っていかれても構いません。写しが二百三十あります」
最後に、樽の中へ入れる一枚を、ロザリンドが書いた。
〈拾われた方へ
この樽の中身は、旗と灯りと潮の読み方です。
値はついておりません。誰のものでもありません。
写して、配って、かまいません。間違いがあれば直してください。直した先を、こちらへ報せていただく必要もありません。
同じ樽が、この夏、いくつもの浜へ着いております。
あなたの湊にも、誰か読める人が居るはずです。その方に見せてください。
北の耳の店と、南の灯の店より〉
署名を見て、マルロが顔を上げた。
「嬢様。この店の名は」
「まだ無い店です」
「無い店の名で、出すんで」
「はい。二十年前から、そういう約束でしたので」
流したのは、夏潮の終わりの、三日目の朝だった。湊の全部の舟が出た。組合の四十人と、漁の連中と、支所の者と、時化の日に戻ってきた船主たちである。誰も日当をもらわなかった。沖の決められた筋で、樽を一つずつ落としていく。
二百三十が、海に浮かんで、ゆっくり散っていった。ヨナは、いちばん先に出た舟の舳先に立っていた。手には、封をした樽が一つある。父への返事の入った樽である。彼女は、それを最後に落とした。
「……ばか」
子供は、そう言った。
「返事、来ないのに、何年も流して」
樽は、他の二百三十と一緒に、南へ流れていった。浜へ着いたという報せが、最初に来たのは十二日後だった。
王国の南の三つの浜。それから隣国の湊。四日遅れて、サルヴェニアの北の浜に十七。さらに二日後、サルヴェニアの湊——海務商会の本拠の目の前の浜に、二十九。
どの浜でも、拾った者が封を割り、中身を見た。中身が「海の言葉」だと分かるまでに、半日もかからなかった。旗の形が絵で描いてあり、灯りの間が線で描いてある。字が読めなくても、絵は読める。
サルヴェニアの湊で、最初にそれを配ったのは、荷役の子供たちだったという。湊バルカでは、同じ日に刷り物と写しが全部で四百二十枚出た。市の台では、ピナと読み上げ役の見習いが朝から晩まで交代で読み上げた。
「——今日は、旗の話です! 赤が上なら『訊いてる』、白が上なら『答えてる』! これだけ覚えてください! お代は要りません!」
台の下に、その日は百人以上が立った。
組合の年寄りが、途中から台に上がって「そこは違う」と口を挟み、ピナが「じゃあ、じいさんが読んでください」と場所を譲った。
その日から、湊の桟橋の風景が変わり始めた。船が入ってくると、帆柱の旗を岸の誰かが読むようになった。読んだ者が周りに大声で言う。言われた者が、また別の者に言う。
銀は、一枚も動かなかった。
半月後、支所の板の前で、ガレトが白墨を持ったまま立っていた。
「支所長」
「はい」
「今日、板を見に来たのは、十一人だ」
「減りましたね」
「先月は八十人だった」
彼は、白墨を置いた。
「みんな、自分で読むようになった」
ロザリンドは、その板を見上げた。
「ガレト殿。これは、負けですか」
「……いや」
老人は、しばらく黙っていた。
「四十年、俺は『俺しか読めん』ってのを飯の種にしてきた。……で、いま、この湊の連中が、みんな空を見てる」
彼は、目を細めた。
「勝ちも負けもねえ。俺のやってた仕事が、要らなくなっただけだ」
「要ります」
「なんだと」
「読める人が増えると、間違える人も増えます。間違いを直せる人が、四十人必要です」
ガレトは、鼻を鳴らした。鼻を鳴らしてから、白墨をまた握った。
その日の夕方、支所に一通が届いた。封蝋は、青みがかった深緑。錨と天秤の紋である。中は一行だけだった。
〈北へ参ります。会っていただきたい〉
同じ日に、各国の浜へ着きました。値は、消えました。
次話、本人が来ます。読める者が、彼の側に一人も残っていません。
※ブックマークは潮に乗せなくても届きます。




