第57話:二十年前の、約束
北の紙だった。厚く、目が詰まっている。王国の北で漉かれる、公文書に使う紙である。二十年経って、縁が茶色くなっていた。ロザリンドは、それを卓に置いた。
置いたまま、しばらく開かなかった。
「お嬢」
「はい」
「開けないんですか」
「開けます」
彼女は、指を紙の折り目にかけた。字は、知っている字だった。若い。いまより線が太く、払いが長い。父が三十を過ぎるより前の字である。
〈エイナル殿
貴殿の便、三通とも着いた。三通目の実測には驚いた。十年で、あれだけの筋を測った者を、わたしは知らぬ。
こちらの網は、いま五十三所まで伸びた。あと十年で、王国の端まで届く見込みである。
貴殿の書いてよこした問いに答える。
「陸の網と海の網は、繋がるか」——繋がる。
ただし、いまではない。
こちらの網は、まだ王家のものだ。王家のものである以上、王家の都合で止まる。止まる網に、貴殿の海を繋ぐわけにはいかぬ。
いつか、誰の都合でも止まらぬ網にする。そのときに繋ごう。
繋いだ日には、名を一つ決めたい。
わたしの店の名でも、貴殿の店の名でもない名がよい。どちらかの名にすると、どちらかが上になる。上下のある網は、いずれ止まる。
それまでの符牒を決めておく。
貴殿からこちらへは、〈北の、耳の店へ〉。
こちらから貴殿へは、〈南の、灯の店へ〉。
店の名ではない。まだ無い店の、仮の名である。
娘が生まれた。ロザリンドという。
いずれ、この子に網を渡すことになるだろう。渡すころには、貴殿にも継ぐ者ができていよう。
その子らの代で繋がるなら、それでもよい。
わたしたちの代で繋がるなら、なおよい。
ヘイルワース〉
支所の板の間は、静かだった。ピナが、書き取りの筆を持ったまま止まっていた。ロザリンドは、手紙を持ったまま動かなかった。
〈北の、耳の店へ〉。
一か月半、彼女はその宛名の意味を考えなかった。宛名は宛名であって、意味のあるものだと思っていなかった。
あれは、店の名ではなかった。まだ無い店の、仮の名だった。そして、その仮の名は、父宛てだった。
「……お嬢」
ピナの声が、かすれていた。
「あの手紙、七列のやつ。あれ、先代宛てだったってことですか」
「はい」
「じゃあ、あの子は」
ロザリンドは、ヨナのほうを見た。子供は、卓の向こうで、膝を抱えて座っていた。話の意味を、たぶん半分しか取れていない。
「ヨナ」
「うん」
「あなたのお父上と、わたくしの父は、二十年前から文を交わしていました」
「……うん」
「二人は、陸の網と海の網を、いつか継ぐと決めていました」
ヨナの目が、ゆっくり上がった。
「継いだ日に、どちらの店の名でもない名をつけることも決めていました。その日のための呼び名が、〈北の、耳の店へ〉です」
子供は、しばらく黙っていた。
「……じゃあ、父さんが送ってたの」
「はい」
「あたしが送ってたのも」
「同じ宛名です。あなたは、父上の書き方を真似ただけだと思っておられたでしょう」
「うん」
「あれは、二十年前の約束の宛名でした」
ヨナは、両手で顔を覆った。覆ったまま、声を出さなかった。ピナが横に座って、背中に手を置いた。
「じゃあ、父さん」
しばらくして、くぐもった声がした。
「父さん、ずっと、返事、待ってたんだ」
「はい」
「返事、来ないのに、灯り、正直に回してたんだ」
「はい」
ロザリンドは、そこで一度、言葉を切った。それから、椅子から立ち上がった。立ち上がって、卓を回り、ヨナの前に来た。
「ヨナ」
「……なに」
「返事が、遅れました」
子供が、顔を上げた。
「七年です」
ロザリンドは、そこで頭を下げた。深くはない。彼女の頭の下げ方である。だが、この人が誰かに向かって頭を下げるのを、ピナは半年で二度しか見ていない。ヨナは、それを見て、何か言おうとして、言えなかった。
その夜、ロザリンドは、父のことを少し考えた。
父は、この手紙を書いた時点で、駅逓網が王家のものであることを問題だと思っていた。〈王家のものである以上、王家の都合で止まる〉と書いている。二十年前である。彼女が生まれた年だ。
そして七年前、その網を売り渡そうとした男に殺された。父は、網を誰の都合でも止まらないものにできなかった。できないまま死んだ。できたのは、追い出された娘のほうだった。追い出されなければ、たぶん、できていない。
父の望みは、父を殺した男の手で叶ったことになる。ロザリンドは、そのことを、笑うべきか怒るべきか、まだ決めていない。たぶん、決めないままにしておく。
その夜、彼女は返事を書いた。紙は、北の紙を使った。カルテンから取り寄せた、公文書用の厚い紙である。
宛名は、〈南の、灯の店へ〉と書いた。
差出人の署名を書く段になって、筆を止めた。いつもなら「R」と書く。緋も藍も黒も、あの署名で通してきた。
彼女は、書かなかった。代わりに、こう書いた。
〈南の、灯の店へ
便、三通とも着きました。七年、遅れました。
こちらの網は、いま中継三十一所、顧客二百。王家のものではありません。誰の都合でも止まりません。
繋ぎます。
名は、まだありません。決めるのは、そちらの継ぐ者と、こちらの継ぐ者の仕事だと思います。
貴殿の帳は、売りません。配ります。娘御がそう決めました。
翼の座〉
封をして、ロザリンドはそれをヨナに渡した。
「これは、どうするの」
「潮に乗せます」
「……届かないよ。父さん、死んでる」
「はい」
彼女は、樽を一つ、卓に置いた。
「ですので、届かなくて結構です」
宛名の意味が分かりました。手紙は、父宛てでした。
次話、樽を流します。一つではありません。
※ブックマークは、返事が遅れても外れません。




