第56話:油壺の下
廃灯台へは、夜明け前に発った。人数は絞った。ロザリンド、ピナ、ヨナ、それにガレトと、組合の若い者が二人。アルディスは湊に残った。領兵を動かすと、それ自体が報せになる。崖沿いの二里を、今度は明るくなる前に歩いた。
塔は、前に来たときと同じように崩れていた。屋根は無い。上の縁に、ヨナの結んだ布が、まだそのまま結んである。
「ヨナ。油壺は」
「上」
螺旋階段は途中で落ちている。ピナが先に登り、縄を垂らした。最上階——というより、床の残っているいちばん高い場所に、鉄の壺があった。
人の腰ほどの高さで、錆で赤黒くなっている。中は空だった。三十年前に使われなくなったとき、油は抜かれている。
ガレトが、壺の縁を掴んで揺すった。動かない。
「据えてある。床にな」
「外せますか」
「壺は外せん。……が、床のほうを見な」
彼は、壺の足元を指した。石の床である。壺の脚の周りだけ、目地の色が違っていた。他は三十年ぶんの黒ずみがあるのに、そこだけ、砂を詰め直したような色をしている。ピナが、短刀の先で目地を掻いた。
砂が、ばらばらと落ちた。石は、四枚だった。四枚とも、大人二人で持ち上がる大きさで、下に空間があった。
厚い布の包みが、一つ。誰も、すぐには手を出さなかった。
「ヨナ」
ロザリンドが言った。
「取り出してください」
子供は、膝をついた。両手を穴に入れ、包みを持ち上げた。布を開くと、油紙。油紙を開くと、蝋を流した袋。エイナルの流し便と同じ、三重の包み方だった。
中身は、一冊だった。海図である。大きな一枚を折り畳んだもので、表は、ごく普通の海図だった。海岸線があり、島があり、深さの数字が入っている。
だが、裏だった。裏一面が、びっしりと符号で埋まっていた。
旗の形。灯りの間。潮の筋。日付。実測。書き足しと、消し跡と、また書き足し。余白という余白に、十九年ぶんの字が積み重なっている。
ピナが、息を吸った。
「……こんなに」
「ヨナ。読めますか」
「読める」
子供は、床に座り込んで、海図を膝の上に広げた。
「でも、たぶん、七日かかる」
「七日で結構です」
塔を降りる前に、ロザリンドは床の穴をもう一度見た。石を四枚外し、砂で目地を埋め直す。それだけの隠し方である。仕掛けも、錠も、罠も無い。誰かが油壺を動かそうと思えば、その日のうちに見つかる。
なのに三年、見つからなかった。海務商会は、この塔を何度も調べたはずだ。調べて、上を探し、壁を探し、床の色の違いに気づかなかった。気づかなかったのは、たぶん、この床を三十年踏んだ者が誰もいなかったからである。
毎日そこを歩く人間にしか、色の違いは見えない。
「ガレト殿。この塔は、なぜ使われなくなったのですか」
「灯りが要らんようになったからだ。牙瀬の航路が、南へ寄った」
「では、エイナル殿は、なぜここに置いたのでしょうか」
「……船が通らんからだろうよ。船が通らん場所は、誰も見ん」
湊へ戻ったのは、その日の夜だった。支所の板の間に、蝋燭を四本立てた。ヨナが読み、ピナが書き取る。ロザリンドが並べ、ガレトが潮の項を確かめる。
三日目の夜、ヨナが海図の隅で手を止めた。
「ここ、字が違う」
「違う、とは」
「父さんの字じゃない。……ううん、父さんの字だけど、こっちは、ゆっくり書いてる」
その一角だけ、符号ではなく、普通の文で書かれていた。
〈この帳の使い方について
これは、売るために書いたのではない。
旗も灯りも潮も、海に出る者なら誰でも知っていてよいものだ。知らぬ者だけが死ぬのは、道理に合わぬ。
だが、いま出せば、商会が版を押さえる。押さえて、値をつける。それでは書かなんだほうがましだ。
北の耳と決めたことがある。
陸と海を継いだ日に、二つ合わせて出す。どちらの店の名でもない名で出す。
その日まで、ここに置く。
もし、わたしが継ぐ前に死んだら、これは娘のものだ。
娘が売ると決めたなら、売ってよい。わたしは死んでおるゆえ、文句は言わぬ〉
ロザリンドは、その最後の三行を、二度読んだ。
それから、ヨナのほうを見た。子供は、蝋燭の灯りの中で、その一角をじっと見ていた。読めない字である。ピナが書き取った写しのほうを、指でなぞっている。
「ヨナ」
「読んで」
「読みました。もう一度読みますか」
「うん」
ロザリンドは、もう一度、声に出して読んだ。読み終えたあと、蝋燭が四本とも、同じ向きに揺れた。
「……売っていいって、書いてある?」
「はい」
「あたしが決めていいって」
「はい」
ヨナは、両手で膝を握った。
「売ったら、いくらになるの」
ガレトが、口を開きかけて、やめた。答えたのは、ロザリンドだった。
「わたくしの見立てでは、銀で十万枚は下りません。王国の国庫の、一年ぶんに近い額です」
ガレトが、口を開きかけて、そのまま閉じた。
「十万」
「はい。あなたが望むなら、明日にでも交渉します。ヴェスパ殿は、必ず買います」
ヨナは、その数字を、たぶん想像できていなかった。想像できないまま、しばらく黙っていた。それから、写しの紙のほうを見た。
「……これ、あの、写しの」
「はい」
「うちの湊の人が、手で写してるやつ。汚い字の」
「はい」
子供は、その紙を持ち上げた。
「これ、いくら」
「無料です」
「ふうん」
ヨナは、写しを膝に置いた。
「じゃあ、こっち」
彼女は、それだけ言った。言ってから、少し慌てたように付け足した。
「……でも、十万は、ちょっと惜しい」
「はい。惜しいです」
「惜しいって言っていい?」
「言ってください。惜しくないふりをする必要はありません」
ヨナは、鼻をすすった。海図の端に、まだ開いていない折り目が一つ残っていた。ロザリンドが広げると、間から、一通の手紙が落ちた。
紙が違う。北の紙である。その字を、彼女は知っていた。
帳が出ました。売ってよい、と書いてありました。あの子は、こっち、と言いました。
次話、北の紙の手紙を開きます。二十年前のものです。
※ブックマークは油壺の下には隠しません。




