第55話:潮に、乗せる
樽は、支所の板の間で開けられた。ヨナは、開ける前に一度だけ手を止めた。それから、自分で蓋を抜いた。誰も代わろうとは言わなかった。
中は乾いていた。油紙で三重に包まれ、その中に、さらに蝋を流した袋が入っている。海の上を長く漂うための作りだった。
この作りを、ロザリンドは初めて見た。
「ガレト殿。これは、何と呼ぶものですか」
「海流便だ。……いや、この湊じゃ、ただ『流し』と言う」
「どういう仕組みですか」
「難しかねえ。潮の筋に乗せるだけだ」
彼は、床に指で丸を描いた。
「海の水は、勝手に流れとる。季節ごとに、決まった向きに、決まった速さで。夏潮はこう回って、返し潮はこう戻る。乗せる季節と場所さえ合っとれば、樽は決まった浜に着く」
「船は要らない」
「要らん。人も要らん。だから、止められん」
「速さは」
「遅い。十日から、半月」
「返事は」
「来ん。誰が拾ったかも分からん」
遅くて、返事が来なくて、止められない。ロザリンドは、その三つを頭の中に並べた。緋封は速い。藍封は安い。黒封は隠せる。この四つ目は、そのどれとも違う性質をしている。
袋の中身は、二枚だった。
一枚は、図である。海図——ではない。陸が描いていない点はドラゴのものと同じだが、線の描き方がまるで違った。ドラゴの図は太い流れが数本、大きく渦を巻いている。こちらは、細い線が何十本も、日付を添えて重なっている。
「これは……」
「実測ですな」
ガレトが唸った。
「一年に何本も流して、着いた浜と日数を書いてる。……これ、十年以上やってるぞ」
「十九年です」
ヨナが言った。
「父さん、毎年、春と秋に流してた。あたし、手伝ってた」
もう一枚は、文だった。ロザリンドは、それを読んだ。
〈北の、耳の店へ
三度目の便になる。前の二つは、着かなかったらしい。返事が無い。
貴殿の身に何かあったのだと、こちらは考えている。考えたくはないが、貴殿は返事を忘れる人ではない。
こちらの湊に、商会が入った。灯りの回し方を変えろと言ってくる。断り続けているが、長くは保たぬ。
万一のときのために、帳の在り処を書き置く。
鴎岬ではない。牙瀬の見える廃塔の、油壺の下である。三十年使われておらぬゆえ、誰も見ぬ。
あの帳は、売ってはならぬ。
貴殿とわたしの決めたとおり、いつか二つを継ぐ日まで、誰の値もつけずに置いておきたい。
娘がいる。ヨナという。旗はよく読む。字は、まだ教えておらぬ。
わたしに何かあったら、この子のことを頼みたい。厚かましいことは承知の上だ。
この便は、夏潮に乗せる。着くのは半年後か、あるいは戻ってくるか。
戻ってきたら、また流す。
エイナル〉
ガレトが、帽子を取って膝に置いた。
「……ガレト殿」
ロザリンドの声は、少しかすれていた。
「はい」
「夏潮に乗せたものが、半年後に着かなかった場合、その樽はどうなりますか」
「戻ってくる」
「戻ってくる、とは」
「返し潮に乗って、また元の海域へ戻る。そこでまた夏潮を拾えば、もう一巡だ」
彼は、実測の図を指でなぞった。
「……七年で、十四巡か。この浜に着いたのは、たまたまだな。今年の時化で、潮の筋が少しずれた」
七年、着かなかったのではなかった。
七年、同じ海を回っていた。受け取る相手が、七年前の春に死んでいることを知らないまま。ロザリンドは、文を持つ手を膝の上に置いた。
「……ヨナ」
「うん」
「お父上は、返事が無くなってからも、流し続けておられました」
「知ってる」
「なぜでしょうか」
子供は、少し考えた。
「返事が無いのと、届いてないのは、違うから」
ロザリンドは、目を閉じた。父は、この人に返事を書かなかったのではない。書けなかった。
馬車から落ちた春の、その三日前の頁に、父は〈買い手は東。売り手は、王の隣に居る〉と書いた。あの頁を書いた父の頭の中には、たぶん、南へ出す返事のことも入っていた。入っていたまま、途切れた。
そして四年、南の男は待ち続けた。待ちながら、灯りを正直に回し続けた。回し続けたから、殺された。自分は、その七年を知らずに、王都で壁の花をしていた。
父の死は、七年前の春である。エイナルの一通目は、たぶんその直後に流された。二通目は半年後。三通目がこれで、その次からは、たぶん返事を待たなくなった。
待たなくなってからも、流していた。届いていないだけかもしれないから。
「ピナ」
「はい」
「油壺の下、と書いてあります」
「廃灯台ですね。ヨナがいた」
「はい」
彼女は立ち上がった。
「明朝、参ります」
その夜、ロザリンドは実測の図を卓に広げて、朝まで見ていた。細い線が、何十本も重なっている。春に流したもの、秋に流したもの。着いた浜。日数。戻ってきたもの。その中に、一本だけ、他とは違う色で引かれた線があった。
北へ向かう線である。
湊バルカの沖から、東の岬を回って、王国の北の浜まで。日数は、〈四十一日〉と書いてある。
その線の脇に、小さく書き込みがあった。
〈この筋なら、北の湊まで届く。
いつか、こちらから北へ、荷を送れる〉
ロザリンドは、その一行を、長いこと見ていた。
朝、ピナが起こしに来たとき、彼女は卓の前で座ったままだった。
「お嬢。寝てないですね」
「はい」
「顔、ひどいですよ」
「ピナ」
「はい」
「あの方の潮に、こちらの荷を乗せます」
ピナが、目をしばたたいた。
「え。あの方って、エイナルさんですか」
「いいえ」
ロザリンドは、実測の図を巻いた。
「ヴェスパ殿です」
七年、回っていました。届いていないだけかもしれないから、流し続けたのだそうです。
次話、油壺の下を掘ります。
※ブックマークは十四巡しても外れません。




