第54話:道が、高くなる
刷り物が出回り始めて三日目に、湊が止まった。荷役の組が、翼の座の荷を一切扱わなくなった。桟橋の持ち主が、支所の使用の願いを更新しなかった。刷り座の親方のところに、紙の卸が来なくなった。どれにも、命令書は無い。
「嬢様。刷り座、止まりやした」
マルロが、額の汗を拭いた。
「紙が来ねえんです。親方は泣いてました。『あんたのとこの仕事は続けたい。だが、紙が来なきゃ、うちは何も刷れねえ』と」
「何枚まで刷れましたか」
「百四十です」
三百のうち、百四十。
「配った先は」
「百二十軒。残り二十は手元に」
ロザリンドは、帳を開いた。
「では、百二十軒に、写しを頼みます」
「写し?」
「刷り物の頭に書いてあります。〈写して、配って、かまいません〉と」
「……手で、写させるんで」
「はい。一枚から、三枚を作ってもらいます」
マルロが、目を見開いた。
「そんな面倒くさいこと、誰がやりますかい」
「時化の日に、船が戻ってきた家がやります」
ピナが、最初の一軒を回った。帆に継ぎの当たった船の家である。時化の日、いちばん最初に戻ってきた船だった。
「写してくれって、どういうことだい」
船主の女房が、刷り物を裏返した。
「うちの人、字は書けるけど、こんな細かいのは」
「間違えていいです」
「間違えていいの」
「はい。間違えたら、あとで直しに来ます。写してもらうこと自体が大事なので」
「……なんでだい」
「刷るのを止められても、手は止められないので」
女房は、しばらく刷り物を見ていた。
「うちの人、あの日、板の姉ちゃんの声で戻ってきたんだよ」
「あ、それあたしです」
「知ってるよ。声がでかいからね」
女房は、刷り物を持って奥へ入った。出てきたとき、紙と筆を持っていた。
三日目に、写しが四十枚戻ってきた。
五日目に、百二十枚になった。字は汚く、間違いも多かった。ヨナとピナが、間違いを一枚ずつ直して回った。直しながら、ヨナがぽつりと言った。
「……これ、全部あたしの父さんの字じゃない」
「はい」
「でも、中身は父さんの」
子供は、汚い字の写しを一枚、大事そうに畳んだ。
七日目に、湊の外へも出始めた。内陸へ帰る荷馬車の御者が、写しを一枚ずつ持って行った。理由を訊くと、皆おおむね同じことを言った。うちの村にも、海へ出る親戚がいる。
紙は、荷と一緒に街道を上っていった。翼の座の便ではなく、荷馬車で。値のつかないものは、こういう運ばれ方をするのだと、ロザリンドは初めて知った。
同じころ、王都で動きがあった。商務局が、海務代理の申請に正式な回答を出したのである。
〈サルヴェニア海務商会の願い出、これを却下する。
理由。海務の報せは王国の民の安危に直結するものにして、これを一の商会が一手に定むるは、王国の利にあらず。
なお当局は、湊バルカにて無償にて配布されおる「海の言葉 早見」を、王国の海務の基準として当面用いる。
王国商務局〉
この回答が湊へ届いたとき、支所の板の間で、誰も最初は信じなかった。
「王都が」とマルロ。「王都が、うちの側に立ちましたぜ、嬢様」
「立っていません」
「え」
「王都は、自分の側に立っただけです。たまたま、こちらと同じ方角でした」
彼女は、その紙を丁寧に畳んだ。畳みながら、少しだけ手が止まった。
三年前、この街の大広間で、彼女は「報告を止めます」と言った。あのとき、この王都は何も知らなかった。何も知らないまま、彼女を追い出した。
いま、その王都が、彼女の刷った紙を基準に使うと書いている。
「……マルロ」
「へえ」
「王都に、礼状を出しますか」
「出しやしょう。嬢様の名前で」
「いいえ」
彼女は、筆を取った。
「翼の座の名前で出します。わたくしの名前は、あの街ではもう、要りません」
王都の却下が出ても、湊の荷は戻らなかった。商務局の紙は、湊の桟橋の持ち主には何の効力も無い。持ち主は自分の桟橋を誰に貸すか自分で決められるし、荷役の組は誰の荷を先に扱うか自分で決められる。
支所の上がりは、七割落ちた。マルロが、帳を閉じた。
「嬢様。四月と申し上げましたが、また訂正します」
「はい」
「二月です」
誰も、何も言わなかった。ガレトが白墨を握ったまま板の前に立っており、コリンが吊った腕を庇いながら荷を数えている。皆、数字を聞いても、手を止めなかった。
止めても、どうにもならないからである。
「マルロ」
「へえ」
「二月あれば、三百枚は配り終わりますか」
「……配るだけならね。配り終えたあとに、店が残ってるかは別ですぜ」
「配り終えたあとのことは、配り終えてから考えます」
その日の夕方、浜を歩いていたコリンが、走って戻ってきた。
「嬢様! 浜に、樽が」
浜の東の端、岩の間に、樽が一つ挟まっていた。小さい。人の膝ほどの高さで、桶ではなく、しっかりと封のしてある樽である。海務商会のものではなかった。紋が無い。
封蝋が、してあった。乾いて、色が抜けて、ほとんど白くなっている。だが、蝋であることは分かる。指で押すと、ぼろりと崩れた。ガレトが、それを覗き込んだ。
「……こりゃ、古いな」
「どのくらいですか」
「海に出てた蝋がここまで白くなるのは、何年もかかる。五年、いや、もっとか」
ヨナが、樽の前にしゃがみ込んだ。封の残りに、印が押してあった。潰れかけているが、形は残っている。小さな塔の絵である。上に、光を表す三本の線が出ていた。
子供の手が、止まった。
「……父さんの印」
道は高くなりました。写しは、手で増えています。
次話、七年回り続けていた樽を開けます。
※ブックマークは、潮に乗せなくても届きます。




