第50話:攫われた耳
湊バルカまで、鳩なら二日、人なら八日である。ロザリンドは、六日で着いた。途中の中継で馬を替え、夜も走らせた。ピナは一日先に発ち、四日で着いていた。支所は、灯りがつけっぱなしだった。
「お嬢」
ピナの顔から、いつもの軽さが抜けていた。
「桟橋、東の端です。夕方の当直に上がる前に、そこまでは見た人がいます。それから先が」
「舟は」
「一艘、無くなってます。漁の小舟です。ただ、あの子、舟は漕げません」
ロザリンドは、支所の卓に地図を広げた。湊。鴎岬。牙瀬。それから、海務商会の商館。
いつもなら、ここで点を数える。誰が、いつ、どこで見たか。点を三つ集めれば線が引ける。線が引ければ、先回りができる。
だが、海には点が置けなかった。街道なら、宿場があり、関所があり、駅番の老婆がいる。誰かが必ず見ている。海は、見ている者がいない。舟が一艘出て、水平線を越えれば、それきり誰の目にも入らない。
道が無い場所では、報せは値になる。あの男の言ったとおりだった。
「コリン。商館は」
「三日前から、閉めています。表も裏も」
「船は」
「二隻、沖に出たまま戻りません」
彼女は、地図を見たまま動かなかった。卓の上には、ヨナの練習帳が置いてあった。ピナが宿から持ってきたものである。
開くと、同じ二文字が、頁いっぱいに並んでいた。だんだん形が整っていく。最後の頁の下のほうは、ほとんど読める字になっていた。
その隣に、もう一つ、書きかけの文字があった。途中で止まっている。書こうとして、書けなかった形である。
「ピナ。これは」
「……分かりません。何かの一文字目だと思うんですけど」
その日の夕方、支所に一通が届いた。封蝋は、青みがかった深緑。錨と天秤の紋である。
〈翼の座 ギルド長 ロザリンド・ヘイルワース殿
お預かりしております。丁重に扱っております。傷は付けておりません。
当方が求めるものは、灯台守エイナルの遺した帳一冊のみ。
娘が在り処を知っております。ただし、娘は書けませぬゆえ、口で申すほかない。
口で申すには、こちらに居てもらうほうが早い。
お返しの条件を申し上げる。
一、翼の座 湊バルカ支所を閉じること。
一、鴎岬の目の中継所を撤すること。
一、旗語ならびに灯り語の覚え書きを、写しも含めて当方へ引き渡すこと。
期限は十日。十日を過ぎれば、娘は南へ参ります。南は遠うございます。
海務商会 ドラゴ・ヴェスパ〉
ロザリンドは、その紙を読み終えて、しばらく黙っていた。それから、静かに折り畳んだ。
「ピナ」
「はい」
「あの方は、三年探しています」
「え?」
「エイナル殿が亡くなったのが三年前です。帳は、そのときから見つかっていません」
彼女は、指で紙の折り目をなぞった。
「三年、見つからなかったものが、いま急に要るようになった理由は一つです」
ピナが、顔を上げた。
「……こっちが、読み方を書き始めたから」
ロザリンドは頷いた。
「覚え書きは二枚しか作っていません。ですが、あの方には、それで十分に見えたのでしょう」
三つの条件を、彼女はもう一度読み直した。支所を閉じる。岬を撤する。覚え書きを渡す。
三つとも、ヨナとは関係のない条件だった。子供を返してほしければ帳を寄越せ、という話ですらない。帳の在り処は、あの子の口から取ればいい。取れるまで置いておけばいい。
この三条は、帳とは別に、ついでに取れるものを取っているだけである。人を一人押さえたら、押さえているあいだに取れるものを全部取る。
慣れている、とロザリンドは思った。この人は、何度もこれをやっている。ガレトが、支所の戸口に立っていた。いつから居たのか分からない。太い手で帽子を握り潰していた。
「……支所長」
「はい」
「うちの連中を出す。四十人だ」
「どこへ」
「湊の全部の舟を当たる。二隻の行き先を、誰かが見てる」
「日当は」
「言うな」
彼は、それだけ言って出ていった。
その夜、ロザリンドは支所の奥で、ひとりで紙を広げていた。ヨナの練習帳の、書きかけの一文字である。線が三本。二本目が長い。三本目が、途中で切れている。
彼女は、その形を何度も見た。
「……ピナ」
「はい」
「あなたが教えた字は、いくつですか」
「あたしの名前と、ヨナの名前と、あと数字を少し。それだけです」
「この形は、その中にありますか」
「ありません。習ってない字です」
ロザリンドは、筆を取った。紙の隅に、自分でその三本の線を写した。写して、続きを書き足してみた。一つ書いて、消した。もう一つ書いて、消した。
三つめで、手が止まった。
「父」の字だった。書きかけの三本は、その字の書き出しである。習っていない字を、この子は形だけ覚えて、書こうとしていた。
ロザリンドは、筆を置いた。置いた手が、卓の上でしばらく動かなかった。
「お嬢……?」
「ピナ」
「はい」
「あの方の紙には、〈お預かりしております〉と書いてありました」
彼女は、顔を上げた。声の高さは、いつもと同じだった。ただ、いつもより低かった。
「わたくしは、子供を『預かる』と書く人と、報せの話をしません」
ピナが、息を止めた。
半年一緒にいて、この人の声がこの高さになるのを、聞いたのは二度目である。一度目は、伝令を「損耗」と書いた帳簿を見たときだった。
「お嬢。……十日で、どうしますか」
「十日は使いません」
ロザリンドは立ち上がった。
「あの方は、期限を切ることで、こちらに考える時間を与えました。あれは失敗です」
三年探していたものが、いま急に要るようになりました。理由は、こちら側にあります。
次話、期限までに手がありません。ギルドの内側が割れます。
※ブックマークは、預かりません。




