第48話:別の卓から
その便は、内陸の第七中継から回ってきた。安い紙である。封蝋は無く、糊で留めてあるだけだった。差出人の名も書いていない。
「嬢様。これ、どうしやす。名無しは開けねえ決まりですが」
マルロが眉を寄せた。ギルドの規則では、差出人不明の便は開封せず、三月置いて焼く。ロザリンドは、その紙を手に取った。宛名の字を見た。
「開けます」
「嬢様?」
「知っている字です」
中身は、一枚だった。
〈北の辺地より。
名は書かぬ。書くと、そちらの帳面が汚れる。
海務商会のことは、こちらにも聞こえてきた。北の辺地にも行商は来る。行商は喋る。
一つだけ、置いていく。
わたしは、あなたの網の速さを測って、深さを測らなかった。それで負けた。
あの男は、広さを測る。深さは測らん。同じ穴だ。
海務商会の弱みは一つ。読める者が少ないこと。
少ないものは、減らされると強くなるが、増やされると死ぬ。
あの男は、減らされる備えしかしていない。
追伸。良い卓だった。
次の卓には、呼ばないでいただきたい〉
ロザリンドは、その紙を三度読んだ。二度目で、意味を取った。三度目は、最後の二行のためだった。
「マルロ」
「へえ」
「この便を、帳に付けてください。差出人は」
彼女は、少し考えた。
「——名無し、で」
ピナが横から覗き込んで、途中で息を止めた。
「……お嬢。これ」
「はい」
「あの人ですよね。蠍の」
「名は書いておられません」
ピナは、紙をもう一度見た。
「なんで、こっちを助けるんですか」
「助けてはおられません」
ロザリンドは、紙を帳面に挟んだ。
「あの方は、負けた相手が別の誰かに負けるのを、見たくないだけです」
「……なんですか、それ」
「負けた値打ちが下がりますので」
ピナが、あきれた顔をした。
「男の人って、変ですね」
「わたくしにも、少し分かります」
「え」
「わたくしを断罪した方々に、いま同じことをされたら、たぶん腹が立ちます」
その夜、彼女は帳場に一人で残った。卓の上には、三つのものが並んでいた。ドラゴの海図。名無しの便。そして、ギルドの帳簿である。
読める者が少ない。その一行が、頭から離れなかった。
海務商会は、旗と灯りと潮の符号を握っている。握っているというより、読める人間の数を握っている。育てて、配って、使えなくなったら降ろす。降ろせば、外には出ていかない。だから何十年も、値が保つ。
消せば強くなる。増やせば死ぬ。ロザリンドは、その理屈を裏から確かめてみた。
もし自分が海務商会の側なら、何を恐れるか。競争相手の船か。値を下げてくる新参か。違う。どちらも、読める者を抱えていれば勝てる。
恐ろしいのは、旗の読み方が刷り物になって、湊の船に一枚ずつ配られることだ。そうなれば、値をつける根拠が消える。船主は自分で読み、自分で判断し、誰にも銀を払わなくなる。
備えられない、というのがこの手の性質だった。相手が減らしに来るなら、隠せばいい。増やしに来られると、隠す先が無い。
ロザリンドは、帳面の新しい頁を開いた。筆を持って、しばらく動かなかった。
それから、一行だけ書いた。
〈読める人を、増やす〉
書いた文字を、彼女は長いこと見ていた。これは、勝ち筋である。同時に、ギルドの首を絞める案でもあった。
翼の座は、報せを運んで銀をもらっている。運べるのは、封蝋の読み方を握っているからだ。緋と藍と黒の意味を、外の誰も知らないからこそ、偽物が作れず、値がつく。
旗語と灯り語の対照表を刷って配れば、海務商会の値は消える。だが、同じ理屈は、いつかこちらにも返ってくる。
誰でも読めるものは、誰でも運べる。
「……マルロは、反対しますね」
彼女は、誰もいない帳場でそう言った。言ってから、自分でも珍しいと思った。声に出したのは、たぶん、決めかけているからだ。
翌朝、ドナウが鳩舎から降りてきた。
「嬢様。夜通し灯りがついておりましたな」
「はい」
「悪い癖ですわい。先代もそうでした」
「父もですか」
「へえ。決めきれん晩は、朝まで灯しておられた。……で、朝になると、たいてい高いほうを選ばれる」
老人は、左膝をさすった。
「安いほうを選んだ晩は、灯りを消して寝ておられましたで」
ロザリンドは、その言葉を聞いて、少しだけ黙った。
「ドナウ」
「へえ」
「父は、どちらが多かったですか」
「高いほうですな。それで、六十七所まで広がって、それで——」
老人は、そこで言葉を切った。切ったまま、続けなかった。
「はい」
ロザリンドは、それだけ言った。
その日の午後、湊バルカからの便が着いた。支所からの定期の報せに、一行だけ、ヨナの名が添えられていた。ピナが教えている字の、練習である。紙の隅に、ぎこちない二文字が書いてあった。
「ヨナ」。線が震えていて、二文字目の払いが長すぎた。だが、間違いなく、その形だった。
ロザリンドは、その紙を切り取って、帳面の〈読める人を、増やす〉と書いた頁の隣に貼った。
貼ってから、二つを並べて見た。
半年前、この子は自分の名前も書けなかった。教えたのはピナで、ピナに教えたのは自分である。一人が一人に教え、その一人がまた一人に教えた。数にすれば、二人増えただけだ。
二人でこれだけ手間がかかる。湊の船主は三百人いる。それでも、と彼女は思った。三百人に配るのは、二人に教えるより、たぶん簡単だ。刷ればいいのだから。
勝ち筋が見えました。ただし、その手はギルドの首も絞めます。
次話、同盟の席で、内側から盟約が揺れます。
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